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文字的世界【13】

【13】フィギュールをめぐって・承前

 フィギュールとは、まことに多様で、軽々に扱えない厄介な概念であり、一方で、人を惹きつける蠱惑的な磁力と、多産な生成力をもった存在でもありました。それだけに、相当な理論的緊張感をもって接しないと、恣意的な概念の重ね着に堕してしまうことになりかねません。
 そこで、私自身の関心事に照らして論点を絞り、前回挙げた訳語群のうち、「詞姿」[*1]あるいは(ペルソナ的な含みをもった)「姿」[*2]という語に着目し、「喩」的な動態性もしくは生命的な力動性をもった「形象」、すなわち「動きつつある形」[*3]あるいは「動くイメージ」(映画のイメージ)[*4]としての“フィギュール”を取りあげたい思います[*5]。(註については次回。)

 私の関心事とは、言うまでもなく、「文字的世界」における最重要の登場“人物”である“フィギュール”の役回りとは何かにほかならないのですが、この文脈を拡大していくと、それは、私がかねてから取り組んできた、本邦王朝和歌の表現世界をめぐる言語哲学的(?)な考察のうち、とりわけ藤原俊成の歌の世界の実質にかかわってきます。
 ここで、(かつて「韻律的世界」の第3節において通りすがりに言及した)「哥とクオリア/ペルソナと哥」第38章の議論を、精確にはそこで準拠した尼ヶ崎彬氏の文章を援用します。(ちなみに、前節で援用した杉本秀太郎氏の議論や註で触れたパスカルのフィギュールをめぐる話題の“出典”もこれと同じ。)
 古典和歌の系譜をかたちづくる三人の歌匠、貫之、俊成、定家の歌の世界を端的に言い表わす語として、それぞれ「像(イメージ)」、「喩(フィギュール)」、「虚象(パンタスマ)」をあてはめ、それらの実質と相互の差異を探究する。──私がそこで着手し、いまなお継続中の作業の記録から、俊成をめぐる考察の一部を抜粋・加工して、以下に再録します。

 ……俊成にとっての喩。これに関連して、いま私が想起しているのは、「和歌はイメージではない」という俊成の考えです。精確には、尼ヶ崎彬氏によってそのように規定された、俊成の和歌観です。『花鳥の使』で論じられたところを、抜き書きします。

「詩的世界において、花は雪のように降る(比喩)のではなく、花は雪として(複合)降るのである。また例えば、日常我々は露のような涙(比喩)ということはある。しかし和歌に「袖の露」という時、それは草葉に濡れた袖であると同時に、恋の紅涙なのである(複合)。
 だが、そのようなイメージの複合を、人は一体表象できるだろうか。むろんできはしない。ここで、和歌とは「姿」であるという俊成の考えを思い起こそう。つまり、和歌はイメージではない。〈丸い四角〉は、日常言語としては、表象不能である故に背理だが、詩的言語の中にこの種の結合はいくらでもある。和歌における価値体験とは、言葉によってイメージを思い描いて後、そのイメージに感動するというようなものではない。まず、言葉のもつ「姿」に感動するのである。でなければ、見たこともない歌枕が、どうして題材となりえようか。」(94-95頁)

「詩的言語が、その意味をイメージに頼る限り、現実の法理を無視することはできない。「花」は常に「花」にとどまり、「雪」となることは許されない。しかし、詩的言語が、その意味を、生活世界の映像ではなく、詩的世界内部での〈価値体験の型〉に依存する時(顕在的には〈引用〉、非顕在的には〈含み〉)、〈言葉〉は日常の規約を超えて自由に結合し、自律的な世界を産出、展開することができたのである。」(96頁)

 和歌における価値体験の型、つまり、「あはれ」や「艶」、「幽玄様」や「餘情妖艷の躰」といった美的体験(感動)の「モデル」となるのは、美的対象とこれに対する心の構えとを結合させた「言葉の型」、すなわち「姿」にほかなりません。「〈価値体験の型〉(幽玄・妖艶など)を帯びたものとして立現れる〈言葉の型〉が「姿」なのである」(93頁)。
 尼ヶ崎氏によると、「価値体験の型」とは「主観の構えとそれが出会う意味の型」(100頁)であって、ここでいう「意味」は、色香や味のように、言語的概念によって(「幽玄」「艶」「あはれ」等々の類に)分類することはできても、それを記述することはできません。ただ美的価値として体験するしかないものです(99頁)。価値体験の型は現実状況に先立って存在し、実在する状況は「意味の型」すなわち「予めつくられた〈意味〉の範例」のもとにとらえられます。「つまり、詩的世界に属する意味は、これを構成する時にも体験する時も、現実状況という契機を必要としない。それは、現実からは自立して在るのである。」(100頁)

 また、「言葉の型」については、俊成の「歌はたゞよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆることのあるなるべし。もとより詠歌といひて、声につきてよくもあしくも聞ゆるものなり」(古来風躰抄)という言葉をふまえて、次のように論じられます。
 いわく、ここで問題になっているのは、深く考えてはじめて納得されるような内容の奥行ではなく、表面的な言葉の組み立てである「言い回し」と、和歌を物理的に存在させる「声」である(101頁)。一般に音声とその言い回しとは抵抗感のない透明な媒体であって、我々は、じかに言葉の意味に触れているように感じている。しかし和歌は、詠みあげられること(詠歌)によって、一個の音声的実体として人々の前におかれる。透明な媒体であった言語に、不透明な、一種の物質感を与え、和歌を一個の「モノ」にする(102頁)。同様に、五七五の定型性をもつ和歌の言い回しも、和歌に一種の物質感をもたらす。そして「この〈言い回し〉が、一定の外形(始めと終りのはっきりした全体性)と内部構造(各要素の緊密な統合関係)をもつものとして捉えられる時、これを我々は、〈言葉の型〉と言う」(103頁)。

 尼ヶ崎氏の説くところにしたがって、歌の姿とはなにかを整理すると、それはまず、「価値体験の型=心」と「言葉の型=詞」とが表裏一体となった結合物であり、このうち「心」にかかわる部分は「主観の構え」と「意味(体験される美的価値)の型」からなり、「詞」にかかわる部分は「言い回し」すなわち表面的な言葉の組み立てと「声」すなわち音声的形象からなります。これが、いわば「姿」の広義の定義です。
 これに対して、「定型性をもつ和歌の〈言い回し〉が、一定の外形と内部構造をもつものとして捉えられる時、これを我々は、〈言葉の型〉と言う」とか、「言葉が一つの〈モノ〉となって或る「姿」をもつように〈言い回し〉ができていなければならない」などといわれるとき、そこで論じられているのは、いわば狭義の姿であるといっていいでしょう。眼目は後者に、つまり「言い回し」としての「姿」にあります。……

 ……尼ヶ崎彬氏は『日本のレトリック』3章「姿──見得を切る言葉」(ちくま学芸文庫)において、次のように書いている。
 いわく、人に内面の心と外面の姿があるように、歌にも心(深き心=後景)と姿(音の調べやイメージの重層=前景)がある。「歌人たちが歌の外形について、「さま」よりも「姿」という擬人的な言葉を用いるようになったということは、歌の外形が、内容を運ぶための単なる媒体ではなく、人の身体のように一つの統一的全体として自立していることの自覚の表れであった。」(87-89頁)

「言葉が、「姿」にとどまって「心」を表す媒体ではない時、まだ統一的な意味を形づくらない言葉はいかにして私たちを惹きつけるのだろうか。数百年の和歌の伝統は既に無数の作品によって「花」や「雪」のイメージを豊かに色づけている。それらの過去の想いに満たされた言葉は、音の調べという物理的な〈型〉に乗って私たちの前に現れる。それらは「姿」にとどまるうちは、まだ解釈によって一つの《内容》へと統合されてはいない。といって、〈型〉を持つ以上、もはや無意味に並んでいるものとは見えない。隠喩をもって言えば、それらの言葉は、どこかへ向かって歩くのではなく、そこにとどまって自らの舞を舞うのである。私たちが「姿」に見出すものは、その舞の出来栄えである。そして言うのである。あれは「幽玄」だとか、これは「艶」だとか。」(『日本のレトリック』3章「姿──見得を切る言葉」(90頁)

 ここで舞踏の比喩をもちだしたことについて、尼ヶ崎氏は、「この便利な比喩はヴァレリー以来多くの批評家に重宝され、今ではすっかり陳腐になってしまったものである。しかし誰もが重宝したということは、非言語的な身体の動きにも実は同様の事情があることを示唆しているのではなかろうか」(90頁)と書き、演劇における前景・後景の関係をめぐる考察へと歩行を進めている。……

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