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仮面的世界【27】

【27】仮面の記号論(狭義)─イコンとマスクとクオリア・承前

 狭義の「仮面記号」とは、第零次性のレイヤーに属する「純粋なイコン」としての「クオリア」である。前々節で、そう書きました。本節では、以下、クオリアという仮面記号をめぐって、『スピノザという暗号』における田島正樹氏の議論を援用します[*]。

 田島氏いわく、われわれの知覚経験は、言語表現が可能な「志向的内容・表示内容」と、言語的に表現するには無理がある「感覚印象・感覚質」とからできている。遠ざかる人の背丈は「表示内容」としては同じ長さであるように見えるが、「感覚印象」としてはだんだん小さくなるようにも見える。それは神経的機構が言語のように構文論的構造をもたないという事実に対応している。(102-103頁)

《ここでわれわれは一般に「感覚質」(qualia)と呼ばれるものの問題圏の分析に進むことができる。サングラスをかけていて眼のなかにはいる光の波長が一様に青い方向へシフトしても、それに基づく色の感覚質は、やがてもとのように白く感じられてくる。このことは、すでに述べたように感覚質が、対象の客観的性質をそのまま忠実に反映する「表示内容」ではないことを示唆している。しかしだからといって、感覚質がたんに「主観的」で、なんら対象の志向的性質を「反映」していないとは言えないだろう。ここにはわれわれは、身体の変状の観念を説明するためには、刺激を与える対象の本性のみならず、刺激を受ける身体の本性によって説明されねばならないとしたスピノザの考えによって説明するのが適切なものがあると思えるのである。
 スピノザの「身体の変状の観念」は、もともと感情のようなものを含んでいた。それと同様、われわれは感覚質を、知覚内容としてのみならず、感情のようなものとして考えることができよう。感覚質は、それを実際に経験することによってしかそれに対する知識をもちえない点で、感情と似ている。それらはスピノザの「身体の変状の観念」のように、対象の本性のみならずわれわれの身体の状態を表現しているものである(…[『エチカ』第2部定理16系2])。したがって、異なる身体の本性をもつもの(コウモリのように種が違う動物)にはアクセスできない。
 われわれの知識には、命題知として表現できる内容(志向的内容、表示内容)のほかに、ある種の運動能力のような知がある。これは、もともとその能力をもたない動物には、習得できないものである。感覚質が、物体の完全に客観的性質として科学によってとり扱うことができないのは、それが対象化しうる命題知ではない部分をもつからである。それを経験するものには、その経験についての客観的条件などを命題知として表現することもできようが、経験知のすべてをそれに還元することはできない。》(『スピノザという暗号』104-105頁)

 ──ここで「クオリア」を「記号」に、「表示内容」を「記号内容(メッセージ)」に、かつ、「反映」もしくは「志向」ないし「表示」あるいは「表現」を「記号作用(意味作用)」と置き換えて考えるならば、仮面記号なるものの特質が、たとえば「それを実際に経験することによってしかそれに対する知識をもちえない」もの(憑依体験や受肉もしくは“受言”=預言体験のような?)として浮き彫りになってくるはずです。つまり、仮面記号の特質は仮面を被ってみなければ判らない。

[*]本文で引用した以外にも注目すべき議論がある。
 田島氏は、「感覚質は外的対象の客観的性質をまったく表示しないのか」という問いをめぐって、次のように書いている。「われわれの身体は、みずからの生まれつきの能力をもって、環境世界に適応するさい、できるだけ世界を有利なやり方で分別しようとするだろう。関心の向け方は、種特有という意味で「主観的」であるかもしれないが、その関心のもとで対象を「客観的に」(正しく精確に)弁別することが、生きるうえで有利であるのは明らかである。したがって、この関心が一定である場合なら、われわれの身体が示す感覚質は、志向的内容を表示するものと見なしうる、あるいはそう利用することができる。」(106頁)
 しかし、身体がいかなる関心のもとに対象を表示するものであるかは多様である。「結局、感覚質それ自身が志向的であるか否かを、…はじめから決めつけることはできない。われわれの身体は、感覚質といういわば手持ちのシニフィアンを利用して、なんらかの志向的内容の表現にすることはできるが、それは、知覚的環境適応(環境への習熟と同時に感覚質利用への習熟)をとおしてなされる。しかし、この知覚的適応は、言語が志向的内容を表示するのとは違って、いかなる対象に対しても普遍的に同一のものとして開かれているわけではない。知覚者としてのわれわれは、(言語使用者としての場合と違って)種として、これまでの進化の結果割り当てられてしまった生活圏域(可視光線域など)をもち、それゆえ生活関心を完全に度外視した態度や関心をもつことはできない(まぶしい光に対して虹彩を閉じてしまうなど)。」(107頁)
 ──「主観的」であるかもしれないが、つまり「いかなる対象に対しても普遍的に同一のものとして開かれているわけではない」にもかかわらず、「客観的」に精確に弁別することができるもの。それはおそらく広義の仮面記号の特質につながっていくだろう。

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