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韻律的世界【15】

【15】九鬼周造─「永遠の今」の相の下に(続)

 前々回、前回と、九鬼周造の押韻論をめぐる宮野真生子氏の議論を、『言葉に出会う現在』から引いてきました。
 前回とりあげた箇所(同書第11章「言葉に出会う現在──永遠の本質を解放する」)で述べられたこと──すなわち、音声または文字による「韻」を通じてある事柄が「これしかないもの」として立ち現れ、同時に、私は「私」から解放され、言葉が宿す長い時間と多くの人とつながることを可能にする、等々──と、前々回とりあげた議論(同書第2章「押韻という夢──ロゴスからメロスへ」)──すなわち、押韻の先に「自己と他者を直接に繋ぐ完全な言語」(言霊)を目指した九鬼の押韻論は、具体的次元をもたない「夢」にすぎなかったと言わざるをえない、等々──とは、はたして整合性がとれているのでしょうか。
 私の(勝手な)語彙体系にもとづく整理によると、前者は言語の「マテリアル」な帯域における「クオリア」の問題に関連し、後者は「メタフィジカル」な帯域における「ペルソナ」の問題にかかわってきます.そして、宮野氏によって解読されたかぎりでの九鬼周造の押韻論は、次のような複層構造をもっています。

・偶然性の根柢で開示される「永遠の今」というマテリアルな生命的次元(からの力の噴出による存在創造)において、「韻」を通じて言葉(概念)と経験(クオリア)が過不足なく一致する(アニミズム的な)詩的言語の自律性を摘出する。

・回帰的時間における「永遠の今」というメタフィジカルな神秘的体験の次元にあって、「韻」を通じて私と汝が過不足なく繋がる「言霊」(潜勢力)という不可能な「夢」──極論すると、「時間を超えた永遠へと接続する方法」としての押韻、すなわち文字通りの(シャーマニズム的な)「脱魂」、言い換えれば我や汝といった水平的な主体そのものの抹消もしくはより高次の主体(ペルソナ)への溶融という「狂気」の世界──を語る。

 このような複眼的パースペクティヴのもとであれば、前々回の末尾でほのめかしたように、この「夢」を、たんなる夢に‘すぎない’ものではなく、むしろ現実がそこから生起する根柢的世界として、「夢の言語=詩的言語」がそこから生成するフィールドとして、ポジティヴに捉える途がひらかれるでしょう。
 かくして、二つの「永遠の今」の相の下に「韻律的世界」が立ちあがり、そこにおいて言葉が到来しそこにおいて言葉と出会う、夢の言語=詩的言語のフィールドがひらかれました。
 言葉のシステムや意味が先にあって、そこに表現における修辞としての韻律が生じるのではなくて、言葉のシステムや意味より先に、リズム(律)とライム(声の韻)とモアレ(形としての文字上の韻)の三つ組からなる「韻律的的世界」が立ちあがり、言葉のシステムや意味は韻律という現象を通じて生まれてくる。──このことを、かの「図式」に落とし込むと、次のようになるでしょう[*]。

    [メタフィジカルな潜勢力]
      回帰的時間における
        《永遠の今》          ┃
          ┃
      モアレ α ライム
          ┃
          ┃
 様々な ━━━━━━╋━━β━━━ 今ある
 可能性       ┃       現実

         リズム
     [マテリアルな生命力]
     偶然性の根柢で開示される
        《永遠の今》

  ※α:「アクチュアリティ」の垂直軸
   β:「リアリティ」の水平軸

[*]この図には、第12回の「註1」で導入した「リアリティ」と「アクチュアリティ」の対概念を繰り入れている。

 若干の補足。「リアリティ」は物や事象が因果・縁起のもとにあることを言い、「アクチュアリティ」とは物や事象が原因・理由に因らず、端的な事実としてあることを言う。過去・現在・未来とそこ・ここ・あそこの時空の制約のもとにあるリアリティの水平的な領域を、アクチュアリティの垂直的な力が貫通し、世界の開闢以来はじめて生じた一回限りの出来事が何度でも繰り返し到来する通路となる。

 先走ったこと。図中の「リアリティ」の水平軸は「生命界」を横断し、知覚(今ある現実)と想起・想像(様々な可能性)をつなぐメトリカルなラインを形作る。このライン(身体のラインと言っていいかもしれない)が下方に沈降すれば「物質界」に(果ては「冥界」、絶対無、虚無の世界に)至り、上方に浮揚すれば「精神界」に(果てはその極みである「形而上界」、超越神、無限の深みの世界に)達する。「アクチュアリティ」の垂直軸はこの物質界・生命界・精神界を貫通し、「虚無性」(冥界)と「無限の深み」(形而上界)をつなぐ媒質(「意識」と名づけておこうか)の導管をなす。
 「リアリティ」の水平軸は「日常言語(‘うつつ’の言語)」の、「アクチュアリティ」の垂直軸は「詩的言語(夢の言語)」の稼働域であると言っていいかもしれない。あるいは、「リアリティ」は内容で「アクチュアリティ」は形式だと、そう言い切っていいかもしれない。
 前回引いた議論の中で、宮城氏は「形式」をめぐって次のように論じていた。──「存在そのものを開示する言葉のもつ潜勢力、その根柢にある生命の力」=「存在を可能にする生命の根源的な潜勢力」に触れることを可能にする通路。「私の言葉」を今ここの現実から解き放ち、言葉が宿す長い時間と多くの人とつながることを可能にする。それは「私」だけの言葉ではない。いつか誰かが詠った/詠うであろうコトバなのだ。

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