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「あ、めえし」と思われる店にしていきたい。 吉田チャンコ食堂 吉田文義さん

津軽鉄道津軽中里を降りて左手の「駅ナカにぎわい空間」の中に「チャンコ食堂」があります。

もともとチャンコ食堂は中里町で個人商店として店舗を持っていましたが、火災で店舗を失い、2020年に津軽中里駅「駅ナカにぎわい空間」でオープンしました。

今回はチャンコ食堂の店主 吉田文義さんにお話を伺いました。


チャンコ食堂の長男として


実家は中里でチャンコ食堂を営んでいて、18才まで賑やかだった派立通りで育ちました。

その後6年間東京に住んでいたこともあって、でまた地元に帰ってきてチャンコ食堂を継いでいます。


高校卒業してから東京で一人暮らしをしたくて、池袋にある専門学校の夜間部ってすぐ見つけて願書を出した。

会社を紹介されて、働きながら会社の寮さ住んで夜に学校に行くことになった。

 

——調理師免許を取ろうと思ったきっかけは何ですか。

 

個人飲食店の長男だったら後を継ぐのは当たりみたいな感じで、こう町中が静かになるとは夢にも思ってねえし。

その当時はまんだバブルの残りがあったとこで、個人商店でも普通に食べていける時代であったから。

——どのようなきっかけで戻って来ることになりましたか。

6年東京で働いて親父に帰ってこいと言われて、車で拉致されて帰ってきました。

でも帰ってきた頃はまだ親父 おやんじも中途半端に元気で、じぇんこばり(お金ばっかり)使って、元気に競輪だ、パチンコだって元気に動いてあった。

 

妹は茨城のホテルさ嫁に行って。ちょんど32,3歳のころに妹に「ホテル手伝ってけろ」って言われて。

この状況なら自分と親父 おやんじの二人でお店をやっていてもまね(だめだ)なということで。店から一旦居なくなって、親父 おやんじが働くのまねくなってから、帰って来るのも一つの手だなという考えもあって茨城に行ったっきゃ。

 

そうせば親父 おやんじが糖尿病を患って足を切断したのを機に中里に帰ってきた。でも、しばらくお店を開いて無かったはんでお客が離れてしまって。

まずはお客付けるために店を深夜までやって。

お客が付くまで一年位かかったかなぁ。その頃、来てくれたお客様のありがたさは今も忘れられません。毎日夜中の3時、4時までやってあった。それから結婚し子供が生まれたのを期に朝の仕事を増やし夜の時間を抑えた。

 

まあそれで売り上げもついて来ないなか、2年以上文字通り365日休みなく、1日15~16時間働いていたな。それで心が折れ始めたところに、火事だして店を焼失してまった。

その後は2年ぐらい自宅で出前をやっていたところに、津軽中里駅の中でお店をやっていた金多豆蔵応援隊が辞めるということで。

その後にお店を出さないかということで応募した。


前向きでアグレッシブな親父 おやんじ


——チャンコ食堂っていうのはどういう意味何ですか。

北海道の方言だって親父 おやんじから聞いた。北海道の方言で小さい、かわいいとか意味するんだって。それでちゃんこなんだって思ってあった。

そうせばRABで取材に来た時にディレクターが北海道出身だったんだけども、「ちゃんこ?聞いたことないな」ということでちゃんと調べてけて。


だっきゃ松前のほうで津軽弁の「ちゃっこい」という所から「ちゃんこ」って言うようになったらしくて。

——ちっちゃいお店だったんですか。

うん。

昔は吉田商店という小さい商店だったでばの。それで折詰だの、オードブルだの、惣菜作ったりしていて食品とか売っていた。

夏にはスイカが置いてあって半分に切ってスプーンですくって食べたり。ドカジュー(土方のジュース)とかいわゆるサイダーが置いてあった記憶がある。

小学校3,4年生のころだべが、親父 おやんじが店の半分を使ってカウンターとテーブル二つくらいの食堂をやり始めたんだべな。

 

せば店の空いているスペースでペットショップのようなものを始めて、水槽なの鳥なの置いてあった。

 

それを見たうちのお客さんが「食い物屋でペットショップまねべ(飲食店の中でペットショップを開くのはダメでしょ)」て喋ったっきゃ。それであっさり辞めて、次はそのスペースが花屋さなった。

 

——すごい話ですね。お父さんは飽きっぽい性格だったんですか。

飽きっぽいんでない。まねって言えば辞める。それで次に行く。ポジティブでアグレッシブな人であった。

 

うまくやっていれば良い社長だったんだろうけど。家の人ば使って、自分は遊びに歩く人だったはんで。

——店主が変わってお客さんが離れていったということはありましたか。

うーん、どんだべな。

 

最初のころは店の味の肝であるタレだの出汁だの、親父に作らせてあったばって。昔からのお客さんが来たっきゃ「やっぱし昔の方がめかったな」「やっぱり変われば違うんだの」って喋られたこともあったばって。

「やあ、これ親父 おやんじ作ちゃばってな」なんて思ったりして。

それでもうまい中華そばにする為に少しずつ味を変えていかねばまいねという事で。

醤油からを変えようと思って手あたり次第醤油買ってきて色々試して、「うーん違うな。吉田食堂の味でねえ」と思いながら試行錯誤していた。


そん時によくけやぐ(友達)と他の町さ行って、パチンコを打った後にラーメンを食べ歩いた。

どっか行ったついでに塩ラーメンを食べたりネギラーメンを食べて考えてみたり。メニューに載っている豚汁うどんは自分が18才くらいの頃、新宿さ遊びに行って食べて「これ使えるな」と覚えちゅうんだよ。

 

新しくメニュー作るときは、例えばチャーハンであれば一か月くらいずっとチャーハン食べてあった。一つ一つそういう感じで新メニューは作ってるんだばって。

たんだ一回めえもん作るって誰でも出来るはんで、それをむったど作らねばまねはんで(ただ一回おいしいものを作るっていうのは誰でも出来るけど、私たちは再現性が必要だから)。

——チャンコ食堂のおすすめの料理は何ですか。

おすすめというよりも、一番評価してもらいたいのはやっぱり中華そばかな。

一から親父 おやんじから教わって作ったのは中華そばだはんで、それ評価してもらったら嬉しい。

ふらっと入って「あ、めえし」と思われる店

——お店を津軽中里駅でやっていて良かったなと思うことはありますか。

 

まあやっぱり、常連顔見知りの幅が広がったべ。やっぱり前やっていた店だば、一見さんは入りにくい店であったとこで。ここなら覗いても大丈夫な感じがあるっきゃ。


そんな感じで客の幅が広がって、食べてけたお客さんがリピーターになってければいいな。良かったということは一見さんが来てけること。

具体的なエピソードで喋れば、「おめだの麺ちぢれてねえんだべ、したはんでおらかねんだ(あなたの使っている麺はちぢれ麵じゃないんでしょう、だから私は食べないの)」って喋ってきたババがいたっきゃ。

そうしたらそのババが息子と一緒に店に来て、そば食ったっきゃ「吉田さん、そばめっきゃ(中華そばおいしいです)」って言われて。 正直、わ心の中で「よし勝った」と思った(笑)。

 

いつもそううまくいくわけでは無えはんで。でも、何でも良かったって、すべてポジティブに考えねばまねと思ってるはんで、あんまりぐだめかないで(文句を言わないで)。

 

「あっこの店たんだめえはんでろ(あそこの店はおいしいからね)」ってハードル上げて入られるよりも、ふらっと入って「あ、めえし」と思ってもらえれば良いよなと思って。

実際、田舎さ行って駅の中さ何気なくある食堂に入って、期待さねべ。


来てけたお客さんが「めえし」って思ってもらえるようなお店にしていきたいなぁと思って。クオリティを維持出来るように気をつけています。

 

——お店とか町にどうやって発展して欲しいと思いますか。

駅ナカで営業しているのでとにかく津軽鉄道が維持出来て、津軽中里駅そのもが存続すること。だはんでそうやって自分も残っていける町であって欲しいし。

 

家のぼっちゃんは今小学生で、作文で料理人になる、後継ぐだの書くめごこ(かわいい子)だばって。10年、15年経って、息子が「僕、後継ぐよ」って言っても食堂を経営しながら食える町であって欲しい。

本当に過疎に陥ってしまえばそこから持ち直すのは大変だばって。家の息子にとっても故郷と思えるような町であって欲しい。



吉田チャンコ食堂

住所 
〒037-0305 青森県北津軽郡中泊町中里亀山225−1

不定休


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