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「真ん中」から始まる私の思考

発想はメモの中に

みなさんは、何かにメモをとるとき、紙面のどこから書き始めますか?

各内容や種類、量によって多少変わると思いますが、大体は端から書くのではないでしょうか(勝手な解釈ですが)。

私がメモを書くときは、だいたい授業の構想を立てるときが多いです。下の写真は、いつのものか全く忘れましたが、大量に積み重なったメモを捨てようとしたときに出てきたものの一部です。

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見ての通り、私のメモは、図で描くことがほとんどです。ほぼ全てといっていいほど、構造的なメモになっていますね。

これは、「している」のではなく「なっている」のです。このことが困ったことになったことがあります。

大学生のとき、中学生相手に塾の講師をしていました。教育実習も経験していないときでしたので、授業の構成や板書計画(黒板に何を書くか想定するメモ)を、自分なりにつらつらと作って、授業に臨みました。

授業が進んでいくうちに、生徒から「(黒板の内容を)ノートにどうやって書いたらいいか分かりません。」と言われたのです。

おそらく一般的な板書は、左上から順番に、箇条書きのようにキーワードを連ねていくような書き方だったのでしょうが、私はやはり、真ん中から同心円状に図を描いて、そこにキーワードをちりばめていたのです。

今になって考えれば、ノートに書き写す生徒のことを考えた板書にすればよかったと思います。

総合的な学習の時間との出会い 

 なぜ、私はこんな書き方になってしまうのか、その答えが分かるきっかけになったのが、総合的な学習の時間との出会いでした。

 総合的な学習の時間は、私たちの暮らしの中にある、答えがないような課題に触れ、多様な他者とのかかわり合いから、自分なりの答えを見出していく学習です。この学習では、常に物事の「本質」を探究することになります。

 そういった授業を進めていく上では、平面的な板書よりも立体的な板書が必要になってきます。(板書技術などについては、別の機会に書きたいと思います。)つまり、黒板に書く内容の「深さ」の違いが分かりやすいものにすることで、子供たちは物事の「本質」(自分たちなりのものですが)に至りやすくなるのです。

 私はそもそもの性格が、「本質」を常に意識してしまいがちなのです。「なぜ」「どうして」が多いのです。深堀りしていかなくてもいいところを、どんどん深く掘って、抜けられなくなるタイプです。その点でいうと、他教科のように系統的で細かな目標に縛られているよりも、ある程度の発達段階や学校が目指す目標に照らし合わせつつも、「深く掘っちゃおう」と言っても許される総合的な学習の時間が、そもそも私の性に合っているのですね。この学習は、私が教員に採用になったころ、ちょうど教育課程に位置付けられたばかりのころでしたので、まさに総合的な学習の時間とともに、教員人生を歩んだとも言える、私にとってはかけがえのない学習なのです。

終わりに

 またしても、どんどん深みにはまってしまうので、強制的に終わろうと思います。最初の話題に戻りますと、「真ん中」から書く、ということが珍しいと、clubhouseで言っていただいたことがきっかけで、今回noteにまとめてみました。私の板書は、校内の先生や教育実習生、市内の研究サークル、大学紀要や学会発表論文など、少し閉ざされた範囲で公開をしていましたが、ご興味があればお声をかけていただければ、お話しできると思います。


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