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「次の方、どうぞ」(8) バックミラー

「ですからね、家から出たくないと申しているんです、サツキは」
どこかで聞いた名前だな、と思いながらスズキは、ずいぶんと若作りをしている、しかしかちりとしたスーツに身を包んだご婦人に向き合った。また患者不在の相談か・・・気取られないようにそっとため息をつく。
「そのことを何度も説明申し上げていますのに、学校側は教育委員会専属のカウンセラーに相談せよの一点張りで、まったくこちらの事情というものを斟酌しようとしないのです、しかもそのカウンセラーとやらは、大変事務的に『火曜日と木曜日に学校の相談室においでください』と繰り返すばっかりで、えぇ、ですからわたくし、教師時代のつてを頼りまして教育委員会に出向きましたの、いったい学校にはいじめの調査をする機能は残っていないのか、と」
「・・・それは、つまり、いじめられていた、とサツキさんがおっしゃったのですか」
何気なく聞き返した言葉が、このご婦人の怒りに油を注いだらしい、とスズキが気づくのはこのずっと後だ、おそらくずいぶん先の。
「先生」ご婦人は改めて背筋を伸ばして椅子に浅く座りなおすと、聞えよがしに咳払いをして「わたくしはサツキの祖母として、しかし厳然たる保護者として毎日あの子の様子見てまいりました。『私はいじめられている』などと口にせずともわかるものは、わかります」まったくシンジラレナイといった表情で、いやいやをする子どものように首をふる。
「担任も学年主任も同じ反応でした。一方的な訴えだけではいじめの調査はできない、と。でもね、それじゃぁ、クラス担任という仕事に意味があるとお考えですか」
感情が昂るにつれ、こめかみに浮き出る血管がはちきれんばかりの勢いで盛り上がってくる。整えられた指には深いしわがきざまれ、これ以上この人の血圧を上げるのはよくないな、と判断したあたりから、スズキはこの婦人の話を半分聞き流すことにした。
適当に相槌をうつと、婦人の口からは話のボールがぽんぽんぽんぽん勢いよく飛び出してくる。興に乗るうちやがて本当に投げたかったボールが放りだされてくることを期待した。
「わたくしは教師という職を、息子を出産する際に退きました。それはそういう時代だったからです。娘一人ならまだしも、嫡男をよそ様の手を借りて育てるなど、到底無理なことでした、それが本家の嫁としてのつとめであったからです、おわかりいただけますね?」
嫡男、本家、嫁のつとめ・・・まるで時代劇みたいだ。
「ですからわたくし、娘には、決して教師というキャリアを中断するなと繰り返しておりますの、今は両立の時代ですから、それをリツコは、サツキの母親は・・・っ」
感極まった婦人の肩を、マユミが支えた。「落ち着きましょう、マエダサエコさん」・・・倒れこんだ婦人のまぶたをそっと裏返すと、スズキはすっと指を左右に動かした。
「まぶたの裏にあるバックミラーのね、角度を変えてみましょうか」
本来、バックミラーは背後の気配を確実にするためのものだと、スズキは思う。このご婦人の話は大変、理路整然としているように聞こえるが、その実おそらく自分自身しか見えていまい。ミラーに映る自分自身にむかって、かみついているのと同じことだ。
「まわりが見えるようになったら、この方も変われるかしら」
「さぁ、どうだろう。目は、見えるものすべてを見ているわけではないからね。見たくないものは見えなかったと同じことにしようとするでしょう」
生き物の脳は賢いからなぁ、と思いながら、スズキはカルテにむかう。
「次の方、どうぞ」

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