なれてはいけない

もともと,人に対して「使う・使える・使えない」という言い方をするのもされているのを聞くのも嫌いなんですが.

先日,本人のいないところで,その人のことを,まるで発言者の「使い勝手のいい自慢の所有物」かのように話されているのをきいて,胸が痛んだ.

その当人もまた,そういう扱いをされるのをよしとしている節があり,他者を「道具として使えるかどうか」という観点でしかみておらず,私のこともまたそのようにしか見ていないのを,私は知っているのに.

少し前まで親しくしていたのだけれど,あまりにも精神的な束縛や人格無視がしんどくて距離を置くようになった相手だった。

私が胸を痛める筋合いなんてないのになぁ.

どうしてこんなに引っ掛かるのかなぁ.

と,つらつら考えていたところで,はたと思い至った.

自分が,そういう扱いをされるのをされたくないからなんじゃないか,と.

恐らく私が望んでいるのは,私が不当に蔑まれたり辱しめられたりしたとき,私を想い胸を痛めてくれる人.

所有物でもなく,欲望充足のための道具でもなく,あくまで自分とは違う過去と感情とを持ったひとつの人格として,見続けてくれる人.

それが如何に難しいことか経験で思い知っているからこそ,敏感な人間になってしまったのだと思う.

私の父は,父方の親戚に母が侮辱されても,ヘラヘラと自分の親族に調子を合わせて悪びれもしない人だった.


そんなことを想い出しつつ,自分の本心が理った途端,何かふっと気持ちが軽くなった.

そして,この詩を思い起こした.

「おたがいに

なれるのは厭だな

親しさは

どんなに深くなってもいいけれど

三十三歳の頃 あなたはそう言い

二十五歳の頃 わたしはそれを聞いた

今まで誰からも教えられることなくきてしまった大切なもの

(中略)

どれもこれもなれなれしい漢字

そのあたりから人と人との関係は崩れてゆき

どれほど沢山の例を見ることになったでしょう

気づいたときにはもう遅い

愛にしかけられている怖い罠」

(茨木のり子『なれる』より,抜粋)


 この記事を書いた後,

 ”慣れる”って,「それが自分にとって外的なものであることを忘れる」ってことなのかな,とふと思った.

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