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おせんべいは退屈の合図



おせんべいを自ら食べたいと思うことがない。嫌いでもなく好きでもない。ただ自ら手を伸ばさない。どっちでもいい。どうでもいい。なくても生活に支障はない。

ここで言うおせんべいのような存在がこの世には溢れていて、そんなこんなで苦手なネギを克服しようとふと思い立ち、美味しいものだけで満たしていたい口の中にわざわざ放り込んでみたりもする。そして数日後には、不本意に添えられたネギを一瞥するや否や顔色ひとつ変えず端っこに避けて満足しているのだ。

そんなことの繰り返し、人生。無意味と惰性。


一月、何をしていたかなあと振り返るほどの価値もなく跡形もなく。

ひたすら新年特有の浮かれ気分とその余韻、肌を刺す冷気に身を任せていただけだったな。雪の降らない冬なんて来なくていいし寂しくなるだけじゃん。

東京のおじいちゃんの誕生日だったから、趣味で始めたらしい油絵の絵の具セットと枕をプレゼントした。真っ赤なハートの絵文字付きで返ってくるおじいちゃんのメールが好き。本当はずっと元気でいて欲しい。


二月、すっぽりと抜け落ちていて最初から何もなかったのではないか。点線で描かれた 2 が目に浮かぶ。

何も思い出せず手帳を開いてみたけど粛々と働いていただけだった。何事もなかったようで一方感情は今にも暴挙を待ち望んでいる、地味に混沌としたそんな日々だった気がするし、そんなことは幻想だったかのような気もする。

だけど息をしていれば何事もない時なんて一秒たりともあるわけないし、幻想なんてものは映画か夢の中だけに留めておいておいたほうがいい。

ということはこの場合、すっぽりと抜け落ちて最初から何もなかったのではなく、記憶に残るような感動がなかった、が正しいのかもしれない。

二月が悪いんじゃない。コロナのせいにするのもなんか違う。その場でやれることなんていくらでもある。己が悪い。着地。


三月、ここである精神を掲げる。

「遊んで暮らすわ」精神。働かずに遊び呆けるのか、と勘違いされそうだけどそれは違う。つまらん奴に勝手に言わせておけばよい。

やりたいこともやらなきゃいけないことも、よしやるぞと意気込んでやると義務感が出てしまってその時点で私は荒れ狂うから、やる気から-20%した余力でやるということ。

即ちこれは遊びで、この遊びの全力を積み重ねた時に何かに繋がればラッキーじゃん、って。何事も遊び、と捉えた時に残る心の余裕と、もう一つここで重要なのは非生産的な日も過ごしつつ、というところ。頑張る頑張らないの考え方はもう既に退屈。


終わりに、「退屈」

なんとなく今が大事な分岐点のような気がするし、ここで遊ぶことさえ全力でできないのならこのまま春には死んでしまうような気がする。

曲を作ることも、0 から 1 を作ることも本当に大変で難しいけど、それ以上に、 0 さえも見えずに失くなってしまうことが怖い。なんにもない、何も起きない、何も感じない。死ぬことよりも退屈が怖い。台風が来たらワクワクしていたいし雪の降る朝には早起きしたい。

明日死んでもいいスタンスで生きていることに変わりはない、それは何故?と聞かれても退屈な思考の連鎖に勝手に組み込まれてしまわないように、としか言えないけど。

もし思い通りの春が来なかったとしても、退屈を恐れていればいつか後悔なんてするはずがないもん。

そしておせんべいに自ら手を伸ばしたとき、それは恐れている退屈が側までやってきている合図であり、ネギを食べることでそれをまた回避していく。無意味に感じるその繰り返しが、紛う事なき人生なのかもしれない。





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