「正欲」を読んだ
絶対に言葉を間違えてるし、不快に思われる表現であることを承知の上で言うんだけど、「多様性」だとか「フェミニズム」とか「マイノリティに人権を」とかいう言葉、聞いててどこか薄っぺらく感じないですか?虚しく感じないですか?俺は感じます。でもそれはあくまで俺がマジョリティ側に立ってるからであって、そういった人たちの立場に立った考えができないが故の傲慢な感覚であり、悪いのは俺だと思っていました。この本を読むまでは。
朝井リョウの「正欲」はまさにそういった、「多様性」という言葉が持つ薄っぺらさ(本文では「おめでたい」と表現されていた)に焦点を当て、正面からねじ伏せていた。マジョリティ側でもマイノリティ側でもない視点(詳しくはネタバレ)から、男がこうだ女がああだの言い合って滑稽に踊る風潮を「おめでたい」と斬り捨てる。痛快ながら、自分も「踊る側」であることを認識させられダメージを負った。
「異性と知り合って、連絡先交換して、駆け引きとかして、おしゃれして、デートして、その最終ゴールがこれ?」セックスという行為を揶揄したこのセリフが特に強烈。俺たちから見た彼らが異物であるように、彼らから俺たちもまたおぞましく見えている。言われてみると当たり前なのに、今までそんな意識を持てなかったことが恐ろしかった。朝井リョウは、今まで漫然と見過ごしてきた「当たり前」を簡単にひっくり返してきて、心にダメージを負わせてくる。
「少年の裸を撮影したなどとして、3人の男性が児童ポルノ容疑で逮捕された」というニュース記事から始まり、過去に戻って当事者とその関係者たちの視点が切り替わりながら物語が展開していく。「性的嗜好」という極めて繊細なテーマを取り扱いながら、筆者の書きたいことがダイナミックに表現されている。たった一つのメッセージを最大限に伝えるために、時系列を切り替えたり、人物の視点を切り替えたりしながら、400ページもの紙面を費やす。この書き方がなんとも潔くて心地良い。
「多様性」この言葉を聞くたびに少しずつ少しずつ積もっていった気持ち悪さを、この本は完璧に言語化してくれている。「多様性」は「受け入れる」という言葉とセットで使われるけれど、「受け入れる」という言葉を使っている時点で、もう既に「受け入れられない」ものを排除しているじゃないか、と。自分の認識が及ぶ範囲の中でしかない多様性を謳って無意識にその範囲外のものを排除し、それでいて自分は正しいと主張する、ひどくおぞましくて「おめでたい」と。
その通りだ、自分には理解できない、認識さえできない異物をも尊重して初めて「多様性を受け入れる」と言えるだろう、と思うと同時に、こうも思う。じゃあ、それを実現した社会は幸福なのか?と。
そもそもそんな社会は社会として成り立つのだろうか?社会がないと人間は生存できないわけで、そして社会は「多数の人間」で構成されているわけで。そうなったら、社会のシステムというか、在り方を安定させるためには、どこかのラインで「少数派」を排除しなければならない。特に性欲、性的嗜好といった生殖に直結する分野においては、どこかで線を引いて「ここに分類されない人は尊重されない」という不文律がないと社会が成り立たないんじゃないだろうか。残酷なようだけど、社会幸福のためには一定のライン以下のマイノリティは切り捨てられなければいけないんじゃないだろうか。そんな風に感じた。
もちろんこれは俺が性的嗜好においてマジョリティだから言える横暴なのであって、間違った考えなのかもしれないし「正解」がちゃんと存在するのかもしれない。それでも、どんな考えを持つにしろ、「自分の理解できないもの、認識できないものがこの世にある」という自覚を常に持っておくだけでものの見方が変わるんだろうなと思わされた。
色々まとまらなかったけれど、この時代にめちゃくちゃタイムリーで考えさせられるのでみんなも読んでください。よろしくお願いします。
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