見出し画像

人を悼むということ

人を悼むのって難しいね。悲しみへの向き合い方はそれぞれで、どれが正解で、どれが間違いというのはたぶんない。ただ、違うというだけ。

それでも、自分のと違う悼み方をしているのが目に入ってしまうと、それで傷ついたり、モヤモヤしたり、怒りを感じたりする人もいて。

その気持ち、もちろんわかる。

ずっと以前、あるミュージシャンが亡くなったとき、わしの目から見て的外れに見える追悼文にイラッとしたり、その後いろいろ出てくるあれこれに、商売すんなよって思ったりしたこともあった。


最近のことで言えば、例えばわしは、映画は見に行ったけど、スタンディング・発声可能上映には行かなかった。行けなかった。いつもならスクリーンを中央で見られる席を取るけど、端っこの席をわざわざ選んで、1人で泣きながら見た。メッセージを残せるボードがあったけど、そこにも書かなかった。書けなかった。

でも、スタンディング・発声可能上映に行って一緒に歌って、メッセージを残して、悲しみが和らいだ人もいただろう。

そもそも見に行けない、行きたくない人もいるだろう。

それでいい。

例えばわしは、チバが愛したARABAKIにはとても行けない。

きっと多くのミュージシャンが悼んでくれるだろう。チバの歌を歌ってくれたり、思い出を語ってくれたりするミュージシャンもたくさんいるだろう。

ありがたいことだと思う。

それをその場で見て聞いて感じて一緒に歌って、悲しみが和らぐ人もいるだろう。

でも、わしにはその風景が、その場にいることが、耐えられない。

一方で、キュウちゃんやケンジさんのライブには行ってる。どうしてるか心配で。ステージでの姿を見て安心したくて。

ただの自分勝手な思いだ。

でもそれでいい。

どれが正しくて、どれが間違いでもない。それぞれに、それぞれが、自分に合ってると思うやり方でやっていくしかないんだ。


自分のと違う悼み方をしているのが目に入って、傷ついたり、モヤモヤしたり、怒りを感じたりするかもだけど、そのときはチバのことを、チバの笑顔を思い出してよ。

いつも言ってたじゃん。好きなように感じてくれればいいって。何かを感じてくれればいいって。

どんなふうに感じたって、チバは怒ったりしないよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?