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なぜ、京王は乗客の逃げ道のドアを開けなかったのだろうか

越前屋俵太さんのTwitter
京王線の刃物男事件(2021年10月31日発生)で、京王電鉄は車両のドアを開けなかったいきさつを述べている。
なぜ、京王は乗客の逃げ道のドアを開けなかったのだろうか。
そこに働いた「責任者」の判断を推測してみた。

逃げるためのドアを開けて乗客が転落したら京王の責任になるが、ドアを開けないことで乗客が逃げることが出来ず暴漢に刺されても京王の責任ではないと考えて、ドアを開ないという選択をしたのではないだろうか。

以前、武田邦彦教授が話していた、「フォード・ピント事件」を思い出しました。
70年代に米国中を騒然とさせたフォード・ピント事件とは、企業倫理とはどうあるべきかを社会に問いかた大きな事件だったそうです。

その事件とは、リコールすることで発生するコストと放置して欠陥で死ぬ確率を比較して後者を選択したフォードの事です。

事故が起こる事が予想されている車を売っても良い。
実施に死亡事故が起きたらその人だけにお金を払えば良い。
その方が、会社として得だ。

と言う判断です。
後にこの判断は倫理に反すると言うことで社会はフォードを許さなかった。

京王は同じ過ちを犯したのではないかと感じました。
京王は、ドアを開けなければお客は逃げることが出来ず暴漢に殺されるかもしれないと「予想、想像」は出来た。                 それで死んでも京王の責任ではなく暴漢の責任だ。
もし、よかれと思ってドアを開けたことで乗客が転落したら京王の責任を追求されると考えてドアを開けない判断をした。

なぜ、京王は乗客の逃げ道のドアを開けなかったのだろうか。
そのような「責任者」の判断があったとしたら、そのことが日本社会の安全を危うくしているのかもしれません。

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