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公園通りと道玄坂 〜渋谷という街の歴史〜

※noteはアドベントカレンダー企画「Except imas Advent Calendar 2020 」
https://adventar.org/calendars/5564 12/20分の記事です。

アドベントカレンダーのお作法に従って直前の記事に触れますが、私の直前は、やこさんの都市ゲーのお話でした。

実は私もSimCity2000から都市ゲーを初めて、AⅢ、Ⅳevo、5(PS)、2001、A7、A8、A9をやってる人なんですが、よりによって一昨日、Cities Skylineがキャンペーンでタダだったので、この土日は徹夜でやってました。腰が痛い。
都市ゲーは、自分が思った通りの街が出来たり、もしくはお金とか地形の問題で完成しなかったりするところが楽しいんですよね。

さて、私からは現実世界の街のお話として「渋谷」を題材にお話ししたいと思います。ちなみに「渋谷」と「原宿」についてのお話は、先週、配信でお話ししていますので、よろしければこちらもどうぞ。


「都心」ではなかった135年前の渋谷

渋谷、と聞いてイメージするものは人それぞれだろうと思いますが、少なくとも「人が多い」というのは異論を唱える人はいないはず。

ですが、渋谷に駅が開業した1885年の景色は、今とは全く違っていたようです。 Wikipedia だと「開業日の利用者はいなかった」、東洋経済の記事 だと「1日平均にすると16〜17人/日ほど」と書かれています。そう、1885年の東京の市街地は、今よりずっと範囲が狭かったので、渋谷はまだ郊外だったわけですね。

「渋谷」を作ったのは誰か

では、渋谷が今のように人で溢れるようになったのはなぜか。大きなきっかけとして挙げられることが多いのは、1927年の東急東横線の開業、そして、1938年の地下鉄銀座線の開業です。この時期以降、渋谷は乗換駅として発展していくことになります。

ちなみに、これもよく取り上げられる話題ですが、地下鉄銀座線はもともと渋谷ではなく、品川を目指す計画が立てられていました。それが渋谷発着になったのは、東急を率いていた五島慶太が敵対的買収で銀座線を買収したから。なので、東横線と銀座線を渋谷に通した、という点で、渋谷を作ったのは五島慶太だ、という意見もあります。

しかし、五島慶太の時代の渋谷はまだ、デパートがある乗換駅でしかありませんでした。それが「流行の発信地」とか「若者の街」と言われるようになったのは、もっと時間が経ったころの話です。

「渋谷」を「若者の街」にしたのは誰か

いま、渋谷には2つのデパートがあります。

ひとつは1967年に開店した東急百貨店。駅から道玄坂を進んで、109前のY字路を右手に進んだ先にあります。もともと駅前にあった店舗(再開発により現在は閉店)は残しつつ、新しい本店として建てられたものです。

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もうひとつは1968年にオープンした西武百貨店。駅からスクランブル交差点を渡って原宿方向に歩いたところにあります。

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まず先に話題になったのは西武百貨店のほう。1970年代から、他のデパートでは取り扱っていなかったような海外ブランドを仕入れたり、パルコ、ロフトといった個性的な店をオープンさせたりと、「最先端のもの」「個性的なもの」に興味を持つ人たちを狙う戦略をとりました。

ひとつ面白いのが、当時の西武百貨店の社長で西武百貨店グループ(セゾングループ)の代表でもあった堤清二は、パルコの運営のほうには深入りせず、同級生だった増田通二に任せていた、というエピソードがあります。当時のパルコは斬新な広告などで時代の先端を突っ走っていて、堤清二はそんなパルコを育てた増田通二に嫉妬していた、という話もあります。それでも堤清二は増田通二にパルコを任せ続け、2つの個性的な店が相乗効果を生み出していったのです。堤清二と増田通二、この二人が今の渋谷を作った人、と言ってもいいのではないかと思います。


さて、そんな西武百貨店とセゾングループでしたが、バブル崩壊により負債が膨らみ、最終的にグループ解体に至ります。今は西武百貨店はそごうと合併し、パルコは大丸松坂屋系列に引き取られ、別のグループとなっています。

ちなみにパルコへと続く道は「公園通り」という名前ですが、これは坂を登った先にパルコ(イタリア語で「公園」)があり、さらにその先に代々木公園があることにちなんだ命名です。

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もう一つの坂の話~文化村通り~

ところで渋谷といえば90年代後半にブームになったギャルファッションや、その聖地として注目を集めた「Shibuya109(マルキュー)」を思い出す人もいるかと思います。

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この109の名前や建物のデザインには、当時の東急の社長だった五島昇の意向が反映されたと言われています。官僚出身だった父・五島慶太に対して、昇はセンスの良さで知られる人物。例えば「たまプラーザ」という駅の名前は昇が付けています。社長就任まではゴルフ三昧の日々だった、というエピソードもありますが、遊び人気質がセンスの良さとも繋がっていたような気がします。

ちなみに先ほど紹介した東急百貨店本店には「Bunkamura」という文化施設が併設されていますが、これも昇が心血注いだ建物です。昇は1989年3月に死去したため、同年9月のBunkamuraの完成も109でのギャルファッションの隆盛も目にしていませんが、渋谷にカルチャーの土台を遺していったのは間違いありません。ですので、五島昇と堤清二がよきライバル関係にあったことが渋谷を育てた、とも言えます

公園通りと文化村通り

70年代と80年代の流行を引っ張った西武セゾンの公園通り。そして90年代後半に聖地となった109からBunkamuraまでの文化村通り。どちらも時代の先端を走ったという点では同じですが、ひとつ、大きな違いがあります。

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上の図は、2016年ころに東急の関連施設と西武百貨店、ロフトを塗りつぶした地図です。公園通りは西武セゾン系列の店がずらりと埋め尽くすように並んでいた一方、東急は駅と109と百貨店の3か所を点で抑えるような格好になっています。
また建物の性格という面で考えても、109は若者向け、Bunkamuraはオーケストラのコンサートなど落ち着いた大人な雰囲気を志向していて、毛色が違います。

実はこれが大きな特色だと私は考えています。

なりたい渋谷と現実の渋谷

乗り換え駅としての立場は東急が作り、流行の先端としての立場は西武セゾンが作り、そして90年代後半は再び東急が主導権を取り戻した…という大まかな流れが見えたかな、と思います。そして、東急は若者文化の聖地として名をはせた109を抱えつつ、落ち着いた大人な雰囲気を志向した施設を作ったこともお話ししました。

ところで、東急は渋谷をどうしたいのでしょうか。

渋谷ヒカリエやスクランブルスクエアを見て、何となく思うに、東急が目指したい渋谷はBunkamura的な渋谷なんじゃないかと思います。こちらのほうが、東急が運営している鉄道路線の「高級住宅街」というイメージとも合致する戦略で合理的に見えます。
その一方で、堤清二たちが遺していった「流行の発信地」というレガシーもあって、世間もそういった目線で渋谷を見ている…という、ある意味でジレンマを抱えているような気もします。東急としてやりたいことはありつつ、他からの影響が無視できないほど大きい。公園通りの西武セゾンに比べて、他の資本が入る隙だらけの文化村通り、という情景も、その比喩のように思えます。


今年のハロウィンに「バーチャル渋谷」でのハロウィンイベントというものがあったので「歩いて」みました。

そこには確かにハチ公がいて、109がありました。でも、渋谷ではない。
真っ平な空間で、そして表通りしか歩けない。坂道がなく、裏路地もないバーチャルな渋谷は、確かに歩きやすく理想的な渋谷です。でも、雑踏のせいで歩きにくくて、坂道がちょっと面倒で、汚さや猥雑さがある…東急のコントロールから外れていて、東急が作りたい渋谷とは逆方向のものも存在する。それが混ざり合っているからこそ、渋谷は魅力的なんじゃないか、と思ったりしました。


…冒頭で、ゲームの都市開発は、思った通りになったときも、思った通りにならないときも楽しい、って書きましたけど、現実も同じかもしれません。

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