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コスパを追求する人が犠牲にしているもの

コスパ、という言葉が世間に浸透したのはいつ頃だったか。
忘れてしまったけれど、もう大分前のことだというのは覚えている。

コスパが良い、というと良い意味に捉えられることが多い。
○○の服はコスパが良い。
○○の食事はコスパが良い。

少しのコストで、高いパフォーマンスが期待できる。だから、誉め言葉として使われる。しかし、人生を全てコスパで埋め尽くしてしまうのは、どうなのだろう。

人間というものを突き詰めて考えると、最後の最後には「非合理なもの」に行きつくのではないか。例えば、芸術が好きな人に「なぜ芸術が好きなんですか?」と聞いてみたら、多分、それらしい答えが返ってくるだろう。「小さい頃から絵が好きで」とか「岡本太郎の作品に衝撃を受けて」とか。しかし、「では、なぜ小さい頃から絵が好きだったのか?」や、「なぜ岡本太郎の作品に衝撃を受けたのか」という風になぜなぜ分析で話を深めていくと、最終的には「なんでか分からないけど、好きなんだよね」というところに行きつくはずだ。

「理由が分からないのに、好き」という方が、元々の「好き」に近いような気がする。それはきっと、言葉を使って論理的に説明するということ自体に、本来フニャフニャで色んな形をしているものを、正方形のカクカクしたものに加工して伝えるようなニュアンスがあるからだと思う。「本来、アメーバみたいな形をしてたのに、言葉にしてみたら、めっちゃ四角い謎の形になっちゃったじゃん!」的な。全体のカタチを現す枝葉の部分が切り取られてしまっているのだ。そしてそれゆえに、そこに込められる個性や愛着も薄まって伝わってしまう。

そんな感じで、好きとは非合理なものであり、四角ばった言葉で的確に表現できるようなものではない、という私のなかにある謎の信念(?)が、「コスパに傾倒するのは良くない」という警告を発しているのだと思う。(伝われ)

コスパとは予測可能な世界である。なぜなら「これだけコストをかけたら、これだけのパフォーマンスが得られますよ」というのがある程度、予測できるからだ。それに対して、「好き」とは予測が難しい世界だといえる。予測が難しいけれど、それと付き合い続けることで、まるでアメーバが触手を伸ばして新しいカタチに変わっていくように、まだ見ぬ新しい世界が開けるのではないか。そう信じることで、そういうまだ見ぬ世界がその人の生きがいになったりするのが、「好き」なものではないだろうか。

コスパの良さを突き詰めた世界には、均質化されたほどほどの満足はあるが、デコボコした個々人の想いがないような気がする。そして個々の人間もまた、均質化された工業製品のような存在ではなく、デコボコしたそれぞれ個人の想いを持つ存在であることからも、コスパだけの世界は人間らしくなく、味気ないと言える。

私の場合は、こうして文章を書くことが、「好き」な事のひとつなのだと思う。あなたにも、コスパの世界を超えた、好きの世界を大切にして欲しいと思う。

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