作る楽しさと鑑賞する楽しさ、どちらも平等に楽しめる時代の到来

最近、趣味で作っているストーリー形式の動画作りがすごく楽しい。

元々昔からマンガやノベルを自分で書いたりもしていたけれど、技術の進歩でこんな動画が数時間で作れてしまうのがすごいと思う。
絵は基本的にAIで書き出して、声もAIの合成音声を使っている。字幕のテロップもAIが半自動入力。
これが全部一から自分で起こすとなると、例えば絵を一枚描くのだって早くて半日は掛かる。当然その能力を身につけるための時間も膨大に必要になる。
でもAIやネットにある素材を使う場合は、基本的にテキストを入力するだけで済む。
そうなると、自分が作っていると言うよりは、自分の思い通りの動画を見ている(選んでいる)感覚にも近くなる。

同じような話で、ピアノも以前より耳コピが出来るようになってきた。
昔は楽譜が無ければ1音も弾けない自分だったし、耳も全然良くなかった。
音感が無いのだなぁと諦めていたけれど、ある日急に音が以前より全然分かるようになってきた。
普通に聴いたり頭の中で流れてる音楽に注目するだけでも、おおよそは再現出来るようになってきた。

そうなってくると、弾くことと聴くことが同時に出来つつある。
もちろん複雑な曲や完成度を求めるとなると、練習や分析、アレンジなどもきちんと必要になってくるのだけれど、これってけっこうすごい変化だと思う。
マンガやアニメなどの絵描きの人でも、描きたいものが自由自在に描けるようになると、絵を見ているのと描いているのが同時進行になって、すごく楽しそう。

それらの状態(ゾーンっていうのかな)は絶え間ない努力をした人や、才能のある人にしか出来ないこと……と思われがちだけど、最近はそうでもない、むしろ工夫次第で誰でも出来るような気がしてきた。

例えば重たいダンベルを持ち上げるには、その重量に耐えられる筋肉をつける必要があって、それには時間がかかる。
でも例えばそれをロボットアームにお願いすれば、誰でもリモコン一つで持ち上げることが出来る。
「ずるじゃないか」と思うかもしれないけれど、この考え方がすごく大事な気がする。

「人間が何にも頼らずに自力で達成する美徳」という考え方が既に古い物になってきていて、むしろ「技術や情報をどう活かすか?」の方が重要になってきている。
ダンベルを持ち上げる話で言えば、ロボットアームでなくても「必要な筋肉をどう身に付けるか?」という点で、筋トレ用の器具や栄養剤、鍛えるためのノウハウなどにきちんと則れば、再現性はかなり高くなる。

特に情報に於いてはネットからAIへと進歩していき、機械が不得意だった『センス』や『自然っぽさ』というのが限りなく再現されつつある。
そうなってくると技術の有無ではなくて、その人らしさ、独自の価値観、観念などが重要になってくる(というか面白さの醍醐味になる)んじゃないだろうか。

分かりやすい例を挙げると、スマホを持っていれば高性能なカメラは誰でも使える。
勿論カメラを扱うテクニックは沢山あるだろうけど、それらが無くても高画素で鮮やかな写真は、誰でも撮影することが出来る。
そうなると「どう撮るか」よりも「何を撮るか」「何故それを撮るか」などの方が、個性や作家性が現れるようになってくる。
写された写真よりも、被写体そのものに興味が湧いてくる。
仕事やSNSで価値を生むためには、技術など、いわゆる高コストの物に高い価値がつくこと自体は、時代が変化しても変わらないと思う。
いくら作家性や個性がどうとか言っても、新聞の見出しや商品のランディングページなど、写真(を通じて商品価値を提供する)場合は、お作法はきちんと守らないといけない。

でも、それが単に自分の楽しみや、人とのコミュニケーションの一環だったら?

写真(を通じてその人を知る)きっかけになってくる。

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カメラに限らず、仕事や家事など、あらゆることが平等に扱いやすくなってきていて、最初に言った「作ることと鑑賞することの同時進行」の敷居もだいぶ下がってきている。
絵を描けない人が一人でマンガやアニメを作れるようになるのも、時間の問題だと思う。
そうなると、絵を描くことは特殊技術では無くなり(コモディティ化する)、文章や写真のように、伝達手段やコミュニケーションツールの一つの選択肢になるのかもしれない。

昨今は経済面や家庭環境などで格差は大きく広がっているのかもしれないが、技術面、芸術面ではむしろ格差は狭まっている、のかもしれない。
……それが故に、天才的な能力者がより目立つという面もあるのだけれど、能力主義に考え過ぎず、自分らしさを持っていれば十分楽しめる。
料理で例えるなら、一流シェフを目指そうとせず、自分の好きな味付けで自炊する感覚で良いんだと思う。

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