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2月18日

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やらかしたのをごまかした。
友達にレターパックを送ろうとして、差し出しシールを「とりあえず保管」の気持ちで手帳に貼っておいたら、全然綺麗に剥がれなかった。
ウェットティッシュを使ってシールを剥がそうとしたら、メタリックの表紙まで剥がれ始める始末…その跡を隠そうと、トムのシールを貼った。けど全部は隠せなかったので、耳の上の部分に剥がれた跡が少し残ったままになった。

キラキラした表紙が気に入っていたのに、ちょっと残念な気持ち。
でもトムは可愛いから、これでもいい。

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昨日は眠すぎて書けなかった。

昨日からインターンシップが始まった。
一応サイトはあるけど、オフィスの雰囲気とかはよくわからなかったので、実際に行ってみたら、オフィスはマンションの一室だし思ったより全然小さい会社だった。
まあそれはそれで居心地は悪くなかったりする。
会社の規模とか、実際に聞いてみた感じでわかったけれど、その会社は採用活動をするつもりはなく、純粋にインターンシップに協力してくださっているだけのようだった。
別に「これをやって」と課題を渡されるわけでもなく、社員さんの仕事をちょっと手伝う感じ。少ない人数で、個々に複数の仕事を進めているわけだし、わざわざ私たちのために仕事を用意して説明して面倒見て…ってするのもちょっと大変だろうなと思う。言われてパッとわかることばかりではないので。
というか、仕事を手伝うと言ってもそんなに託せる仕事がないのか、結構それ以外の時間の方が長かった。その会社が携わった制作物をひたすら見たりしていた。

ただ実際に少し仕事をお手伝いして思ったのが、授業でやっているデザインと実際に仕事でやるデザインは違うということだ。まあその「仕事」の内容にももちろんよるけれど、今回お世話になっている会社は主に広報誌を作っている。今のところ託された仕事は、1コーナーのレイアウトや人物写真の切り抜き、地図の作成などであり、PsやAiの使い方を理解していればこなせる基本的な作業である。
でもそういった実用的な作業を、授業でやる機会はそんなにない。一応PsやAiの操作方法や知識は学んだけれど、例えば人物の切り抜きをやる機会は全然なかったし、画像の形式や解像度もきちんと考えて制作してきていなかった。課題などでPsやAiを使うときも、だいたい自分の作りたいように&使いたいように使うので、きちんとした操作方法や望ましい画像形式ではなくても、なんだかんだモノは出来る。だからこそ、そういう実務的な作業に必要な基本操作にまだあんまり慣れていなかった。
このことは今日話した社員さんも仰っていたけれど、どこかに入社したとしても会社側は「そのくらいは出来る」と思って受け入れているところはあるから、ちゃんとできていた方がいいよということだった。それは本当にそうだ。
もう少しちゃんと確実なスキルにしたいし勉強して、PsやAiの技能検定とか受けようかな〜と思った。まあゴリゴリ制作のところにいくかはわからんけど。

ただ今回お世話になってる会社は、めっちゃ人数少ないし、仕事中は基本個々に作業しているのでめちゃめちゃ静か。ラジオだけが喋ってる。

あと、広報誌とかずっと定期的に発行しているものが多い感じだったけど、そういうものだともうテンプレが出来上がっているから、毎回文章と写真のレイアウトを変えるだけ…みたいな部分はあるんだなと思った(自分が任されたのがそんな感じの仕事だった)。企画性のある仕事が全然ないわけではなさそうだったけど。

全部の仕事を見たわけではないからなんとも言えないけど、本当に作業って感じの仕事ばかりだったら、私長くは続かないかも…と思った。

なんとなく、今の感覚では
・人が少なすぎるのも楽だけど寂しい
・もっとなんか意見交換とかコミュニケーションとか活発な方が楽しそう
・作業に集中できるのは楽しいけど、型がずっと同じだったらいずれ飽きそう

あと、単純に暇よりは仕事ある方が好きなタイプなので、インターン生に託せる仕事が無かっただけだろうけど、もっとやることが欲しい(今の立場での感情)。


これは自分で思うことなんだけど、私って働くこと自体は向いてると思う。
それなりにコミュニケーションとって、向上心と責任感を持ってやれる気がするし、何かをこなすのは嫌いじゃない。忙しいのもわりと好き。
でも、その前段階である就活に対する苦手意識がどうしてもある。
そこは向いてないと思うし、うまくやれる自信が少ない。
だって就活そのものが型にはまりすぎている。模範的、理想的な型があるからこそ、それを自分と比較してしまって自信をなくす。
私自身は悪くない、とでも言うような言い方になってしまったが、やっぱり単純に合わないし納得できないのだ。面接みたいな、形式的なコミュニケーションで何がわかるんだろうと思う。その評価の仕方が、どこに行っても一辺倒なのもよくわからない。普通につまらない。

逆に言えば、私はじっくりコミュニケーションをとりたいタイプなのだと思う。ノリやその場の空気で展開される会話が苦手で、一対一で話すのが好きだ。相手に興味を持って、言葉をやりとりして、理解したい。そっちの方がきっと相手を理解できるし自分も理解してもらえると思っているだけ。


話が戻るけど、今お世話になってる会社の方が「お客さんとやり取りするのが苦手な人もいる。私たちはコミュニケーションツールを作っているのに、コミュニケーションできないってどうなんだって話だけど」みたいなことを仰っていて。「コミュニケーションツールを作っている」っていいなあ、その意識ってきっと大事なんだろうなと思った。

読んだものなど

面白く読んだ。なんかもう、読んでて自分とは絶対違う種類の人間の話だって感じがする。私なんかはすぐ「努力しなきゃ」「頑張ろう」とかって思うけど、そういうこと思ってる時点でマジ凡人なんだよな。「努力」したところで凡人が少し足掻くくらいのことしかできないんだろうな。
そして絵が素敵。ポツンと家が二軒ある絵が好きです。
あと印象的だったのは、こういう絵って、すごくリアルに描き込んだ写実的な絵とは見た感じ対極にあるから、頭のかたい一般人としては「すごい自由に描いてそう」って思っちゃうんですよね。でも、インタビューの中で「すごく緻密に計算して描かれていると思う」と言われていて、美術畑の人の目にはそう見えるんだ!と思った。その視点も新鮮だったけど、その上で、これを計算して描くってどういう思考回路なんだろう…と気になった。多分(ご本人に聞くことは叶わないが)聞いてみたところで、言葉では説明できるものではないのだろうけど。
でも結構、この絵に限らず、もの作る人の思考の過程ってすごく気になるし聞きたい。あわよくば参考にしたい。とか言ってる時点ですごく頭のかたいものしか作れなさそう、自分。

これは常々思っているけど「真面目だよね」って言われるの一番悔しいし「全然つまらない人間だね」って言われているのと同義だと思っている。

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今リビングのテーブルでパチパチ打っているのだけど、ふとそこにあって目に入った。
「くだもの食べよう。」ってさりげなくすごくないか?
グミを見て「くだものだ!食べよう!」って思わないし、グミだからくだものそのものじゃないことはわかってるし、グミ食べて「くだもの食べてる気分」には多分ならないじゃん。そもそも「くだもの食べよう」って思ったら果物売り場いくじゃん。
みんな「グミでも食べるか」って手に取るんだと思うけど、それで「くだもの食べよう。」って書いてあったら「ああそうか、今から食べるのはくだものなのか」って思うし(?)、グミだけど「くだもの」って言い切る覚悟はクオリティを信用できる気がする。
てかそもそも「くだもの食べよう。」って言葉があるとき、「くだもの食べよう。(意志)」の場合と「くだもの食べよう。(誘い)」の場合があるよね。どう捉えるかで伝えたいことも変わってくる気がするね。私は最初見たとき前者かなと思った(結果上の考えに至った)けど、後者だったら「くだものは体にいいし、その代わりとしてグミ食べよ?」って感じがする。


まだようやく週の半分なことに驚きを隠せないけど、明日からも頑張る。

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