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新潟と水俣の患者が成立させた公害認定

今年は新潟と熊本の水俣病公害認定から50年ということで、新潟日報から今週取材を受け、改めて、両水俣病の公害認定に至った経緯を考えました。一部では、「国はよくやった」とか「公害認定されて良かった」といった評価がありますが、これは患者が声をあげた結果であって、国の積極的姿勢ではありません。
熊本水俣病が公式確認されたのは1956年です。患者たちは声をあげますが、原因企業のチッソは59年、熊本県知事立ち会いのもと、水俣病の原因をあいまいにした低い金額の見舞金契約を患者との間に結びました。水俣病は終わったことにされ、患者たちは隠れるようにして暮らしました。
63年には熊本大学医学部は水俣病の原因を突き止めます。しかし、社会的処理は終わったとされていたため、国がチッソの同業他社、7社8工場について、何ら対策が取ることはありませんでした。
例えば59年に、例えば63年に、国が、熊本県が、水俣市が、市民が、熊本の水俣病をきちんと解決していれば、新潟水俣病は起きなかったのですから、水俣は、新潟に謝罪しなければなりません。
65年、新潟水俣病が公式確認され、患者は67年に原因企業である昭和電工に損害賠償を求めて提訴しました。公害史上初の提訴でした。しかし、訴訟中、昭和電工はその原因を否定し続けます。
そこで患者たちは68年、水俣を訪ねました。熊本水俣病患者に助けを求めたのです。初めて両方の患者が握手をし、ここで新潟水俣病患者から持ち出されたのが、「国に自分たちの被害を公害と認めさせよう」ということでした。
水俣病が終始あいまいにされたことで、新潟水俣病を引き起こされたことに、水俣の患者たちは、責任を感じざるを得ませんでした。
双方の患者たちが声を上げたことによって、科学技術庁は新潟水俣病を、厚生省は水俣病を公害として認定します。ただし通産省の傘下にある科学技術庁は新潟水俣病の原因は曖昧なまま認定しましたから、水俣の場合とは状況がまったく違い、その後も新潟の患者たちの原因追求の闘いは続きました。
一方の水俣では、チッソの社長は患者に詫び状を持参し、初めて謝罪しました。 新潟の患者が水俣へ来て、終わりにさせられていた水俣の運動は再開したのです。
私は今、水俣病センター相思社で患者の話を聞く機会があります。内容は様々で、現在闘っている人もおられれば、すでに補償をもらった人からの相談もあります。補償を受けると他者は「解決した」と思いがちですが、共通する相談の内容は、体を奪われたことです。治すように努力するとか、同僚にさとられないように元気に振る舞うつらさは他者には分かりません。苦しみは生きている間、続くのです。差別、偏見によって受けた心の傷も語られますが、いつも患者との「距離」に気をつけようと思っています。患者の気持ちを簡単に分かったつもりになりたくありません。これまで何度も失敗をしてきました。それでも、またここに来てくれる人の話は聴き続けたいと思います。
水俣病患者の他にも理不尽な境遇に置かれている人は多くいると思います。その声は聴こうとしなければ聴こえません。患者の話を聞くたびに、そういったことに無関心を決め込んできた自分に気付きます。声をあげること、それを聴くことの双方が重要だと思います。
今年は、新潟水俣病患者と水俣病患者がともに声をあげてから50年。消されようとした水俣病の運動が再開して50年です。

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