一人の男性が死にました
一人の男性が死んだ。最初の記憶は小学生の頃、眼の前の海で、家族みんなで魚をとったこと。きょうだい5人の中で、自分は特に釣りがうまく、褒められた。大きくなると父と一緒に、水俣市の百間まで行った。母は毎日、おいしい魚を食べさせた。同じ頃、父の手が震えはじめ、しばらくして父は死んだ。中学を卒業後、東京に出て仕事をした。
東京に出てすぐの頃から、手が父と同じようにして震えることが気になり始めた。細かい作業が困難だと気がついた。手足がしびれていて感覚が分からない。体がだるくて疲れやすい、めまいや立ちくらみでしゃがみ込む。つまずいて転倒しそうになる。手の指先が利かず、脱力で物を取り落とす。ボタンがかけられない。ワンワンという耳鳴り。足がつって、痛みで夜間に覚醒する。
日常生活に支障を来たすため、神経内科を受診し画像診断などを受けたが、原因不明で、病名はつけられなかった。それでも働くことはやめなかった。自分で会社を立ち上げて、70歳まで頑張って、息子に後を任せた。
そして、四年前、生まれて初めて「水俣病」について助けを求めた先が相思社だった。実際に、お会いしたのは、東京の検診会場、ニコライ堂で、妻に付き添われて、杖をついて現れた。
症状を聞かれるたびに構音障害でもつれる本人の舌を補うように、妻が補足して説明をした。
妻は東京生まれで、「夫と付き合ってる時、水俣病の男とは結婚させんって言って、両親から大反対されて。それを押し切って、駆け落ちするみたいにして結婚したんですよ。それが本当に水俣病の症状が重くなってきて。結婚しなきゃよかったわ」と笑いながら話した。言葉とは裏腹に、そこには愛が詰まっている感じがした。お連れ合いは、夫の「原因不明」に長年苦しんでおられて、機関銃のように話をし、そして水俣病を長年診てきた緒方俊一郎医師の言葉に熱心に耳を傾けた。
それからも時々、お連れ合いと電話で話をした。散歩してリハビリに励んでいたら、公園で立ち上がれなくなり、近所の人たちに抱えられて帰ってきた。おもらしをするようになって、いまは私が下の世話をしている。杖をついても歩けなくなって、車椅子に乗せるようになった。段々と症状が重くなり、自宅でのリハビリからデイサービスに通うようになり、最近は入院をしていた。
お連れ合いと、蒲島政権についてよく話をした。認定をされるべき人が、棄却されていく不条理や。それよりもタチが悪いのが、システムに絡め取られた現場の担当者の、目の前の「人」が見えなくなってしまって、何の疑問も持たずに平気で私たちを傷つける発言の数々。それでも彼らは家に帰れば善き父親であり、善き市民なのだろうということや。
お連れ合いに対し、死んでしまった男性に対し、自分が何もできなかったことは、結構な強さで私を打ちのめし、亡くなったという電話があったと伝え聞いて涙が止まらなくなって、お連れ合いに電話してますます止まらなくなって。それで今日は働きすぎていた分の代休を取って、泣きながらご飯を食べて、好きな場所で、好きな人たちと時を過ごした。
過ごしながら、ぼんやりと、申請途中に死んでしまったってことは、きっと、水俣病を訴えた男性の存在は、行政的にはいなかったことになるんだろう。そう思って、たったの一部だけれども知った私は、男性のことを記したいと思って、机に向かっている。
助けてと言ってくれてありがとうございました。たくさんのことを知らせてくれて、教えてくれて、ありがとうございました。私は何もできなかったけれど、出会わなかったよりも、ずっと良かった。あなたがここに生きたということを、記し、残し、伝えます。
一人の男性が死んだ。彼の最初の記憶は幸せの海と、母が作った魚のご飯。
こんど東京へ行ったら、男性の家に、お参りに行こうと思う。