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考証館構想の発端は

考証館構想の発端は、相思社職員が漁師=患者が25年間使い続けてきたカキ打ちの道具を見せられたときだった。

「実物の持つ存在感」を実感し、自己の表現力の不足を思い知った職員から、「事実と実物が有する訴求力」を表現するための展示館を作ろう、と持ちかけられた当時の理事長・川本輝夫は、「水俣病を歴史的に問い直すべき」と、まだ見ぬ資料館を「水俣病歴史考証館」と名付けた。

その後、職員は、「不知火海総合学術調査団(※)」の人々を交えたスタッフ会議内で考証館構想について「若い人々に水俣病を伝えることは良い。しかしまずは患者の日常生活に触れ、土に触れるなどの実感のあるものが必要」と意見交換をし、不知火海学術調査団、生活学校生とともに、患者のもとに援農や漁の手伝いに通った。患者から聞き取った暮らしのなかの水俣病や資料収集は、考証館のベースにもなっていった。

考証館の場所についても、「相思社の力量に見合ったものを作るべきではないか。さいわい旧キノコ工場の建物が空き家になっている。改造して、手作りの『第一期 水俣病歴史考証館』を造るべき」との意見を交わされた。キノコ工場は、1974年の相思社の設立と同時に患者の働く場として造られ、83年に経営難のため閉じられていた。6つの小部屋に仕切られ、その天井や壁には断熱用の発泡スチロールが詰められた建物だったが、左官や大工の経験のある患者、関係者、相思社スタッフや来訪者が工事にあたり、屋根と鉄骨とトタン外壁のみの姿にして、壁面はブロック作りにした。

こうした人々は全て利害を度外視し、無償あるいは実費のみで手伝ってくれた。

※不知火海学術調査団:石牟礼道子さんが、社会学者・色川大吉さんが水俣を訪れた際に、「不知火海沿岸一帯の歴史と現在の、取り出しうる限りの復元図を、目に見える形でのこしておかねばならぬ。せめてここ百年間をさかのぼり、生きていた地域の姿をまるまるそっくり、海の底のひだの奥から、山々の心音のひとつひとつにいたるまで、微生物から無生物といわれるものまで、前近代から近代まで、この沿岸一帯から抽出されうる、生物学、社会学、民俗学、海洋形態学、地誌学、歴史学、政治経済学、文化人類学、あらゆる学問の網の目にかけておかねばならない」と調査を依頼、1976年春に「近代化論再検討研究会」の構成メンバーを中心に、結成された。

メンバーには鶴見和子、羽賀しげ子、日高六郎、原田正純、市井三郎、土本典昭、最首悟など。

第2次調査団長は最首悟さんが務めた(敬称略)

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