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寺尾紗穂さんとの対談

去る7月27日、寺尾紗穂さんという方と対談をしました。
その朝、私は高知空港の到着出口で、タナベヨシカさんとふたり、寺尾さんを待っていました。降りてくる人びとの中に寺尾さんを見つけたとき、娘だと思いました。私の娘本人が、「寺尾さんって私とそっくりね」と言うのですから、本当に似ているのです。
かと思うと母のような空気を醸し出す寺尾さんに、知らない土地で不安と期待がないまぜになっている私は次々と話しかけました。それも自分勝手に。水俣病事件やその現状を、車のなかで、彼女の娘と三人きりでうどんを食べる間、そのあとも。話したくなったのです。寺尾さんは静かに聞いて、時々鋭く、または面白く、または何も言わずに、相槌をうちました。ちゃんと、聞いてくれている寺尾さんに、私はすっかり気を許しました。
到着後の打ち合わせでは、イベントは慣れっこですという人たちが、同じく慣れっこの主催のひとり、タナベヨシカさんに、サクサクと愛のツッコミを入れるところがとても素敵でした。
会場には、四国じゅうや、関西からやってこられた、よく知っている人、インターネットで知ってずっと会いたかった人、これから知り合いになるであろう人たちが大集合していました。私ははじまりの時間まで、少しの間ずつ、いろいろな人たちと話をすることができました。差別に抗ってきた人や、水俣との思い出を大切に抱えてきた人、ビキニの被害者のご家族や、長いあいだ運動をしてきた人、寺尾さんが大好きという人。
対談が始まり、寺尾さんと私には、20分ずつの自己紹介の時間が与えられました。打ち合わせで、寺尾さんと私はじゃんけんをして順番を決めていたので、勝った私が先に話をはじめました。生い立ちや、差別者であり被差別者であった自分が水俣病事件の真実を知ったときのこと、水俣の現状を。そのあとの寺尾さんの話のなかで印象的だったのは、戦争の記憶やそこに加担したご自身の家族のこと、学生時代に山谷を訪れたことがきっかけになり、日雇労働者や路上生活者との関わりを持ち始めたこと。そして、タナベヨシカさんがふたりを招くに至った熱い思いを語り、森明日さんが水俣の基礎情報を語ってくれました。
対談は、対談というのにも関わらず、朝に会って寺尾さんにいつかしじゅう話を聞いてもらった、そのままの流れで私のほうがたくさん話しをしてしまいました。話の内容は、高知新聞の天野弘幹記者が大きな記事になさり、その後も追い続けてくださっています。
夜は、寺尾さんのステージを聞きました。私は寺尾さんとははじめて会いましたが、歌は毎日、繰り返し聞いていました。歌のなかで、私が一番好きだったのは、「アジアの汗」でした。日雇い労働の人たちのことを歌っています。
寺尾さんは、「ビッグイシュー」という、野宿の人たちが販売をしてその収益の一部を得る雑誌の応援をしたり、ソケリッサという野宿の人たちのダンスグループと全国を回ったりしたりしています。動画で見た体の内側から出てくる彼らの表現と寺尾さんの声のセッションがおもしろいなーと思っていたし、私自身が路上で生活してビッグイシューを売っていたこともあったので、とても好感を持って、寺尾さんの言動を受け止めていました。
寺尾さんと会って、あの頃のことを思い出しました。自分がこうして高知で話をしていることや、寺尾さんと対談をしていることが、不思議でした。住む家もお金も食べるものもなかったあの時代、人の優しさがあって、私は生きていけたから。同じ頃、同じ年頃の彼女が、私のような人間を支えようとしてくれていたことを思って、心のなかで泣きました。
高知での出会いから、すっかり寺尾さんの人柄が好きになった私はいま、寺尾紗穂を守る会(高知で作りました!)の会員として、ときどき、寺尾さん元気かな、幸せかな、と遠くから思い出しています。いつかまた、会えたらいいな。
そして次の対談は、11月24日(日)。福岡県の糸島にある、龍国禅寺にて13時から。アーサー・ビナードさんと対談をします。アーサーさんは、アメリカのミシガン州生まれ。日本に住んで30年近くが経つようですが、日本社会のとっても良くないところを、歯に衣着せぬ言い方で、言葉にしていく人でした。彼の手にかかれば、またたく間に物事は丸裸にされ、その本質が見えてきます。
世の中にはいろんな人たちがいて、水俣という小さな世界で生きる私は、その水俣を通じて社会とつながります。どうか、この一つひとつの小さな語らいが、その営みが、私たちの社会を少しでも、優しく豊かにしてくれますように。これ以上、誰も悲しまない虐げられない社会になってゆけますように。

龍谷寺の案内
https://www.crossroadfukuoka.jp/event/…

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