埼玉大03

今日は公害認定の日

今日は水俣病公害認定の日。そう思いながら一日を過ごし、一日が終わりに向かういま、また考えています。
熊本水俣病が公式確認されたのは1956年ですが、公害認定はその12年後、それも新潟水俣病患者たちの力によるもの。
水俣病公式確認ののち、漁民や患者たちは声をあげました。しかし、原因企業のチッソ(現JNC)は熊本県知事立ち会いのもと、水俣病の原因をあいまいにした低い金額の見舞金契約を患者との間に結び、水俣病事件の収束を図りました。
水俣病の被害拡大を防ぐ機会はいくつもありました。
例えば公式確認の翌年、熊本大学からの「水俣湾の魚が危険」「ある種の重金属が原因」との水俣病の原因の調査報告を受けた熊本県は、厚生省に「食品衛生法」の適用を促します。しかし、厚生省は「水俣湾内すべての魚が有毒化しているという明らかな根拠はないため食品衛生法の適用はできない」と返答し、それ以来、法律による水俣湾内の魚介類の漁獲や摂取の規制が行われることはありませんでした。
翌年、水俣湾周辺での漁業被害と患者発生を受けたチッソ(現JNC)は、もっと広い海に流せば希釈効果が期待できるとし、細川一チッソ附属病院院長の「そんなことをすれば人体実験になる」という反対を聞くことなく、排水口の場所を不知火海へと変更しました。その間にチッソ(現JNC)は、水俣病の原因究明のためのネコ実験(800匹のネコが犠牲)により、水俣病の原因を突き止め、そして隠蔽します。
排水口の変更によって、被害は不知火海全域にひろがります。生業の場を奪われた漁民はチッソに対し、抗議行動を起こします。患者たちは、座り込みを始めます。科学者はチッソ擁護説を打ち出しつづけ、水俣病の原因究明を混乱に導きました。
漁民の止むに止まれぬ暴力行為は、法律によって裁かれ、行政も市民もマスコミも化学界もみんながチッソ(現JNC)に味方する中、漁民や患者は孤立していきました。
それに追い打ちをかけたのは、通産省の「排水口の場所をもとに戻し、水銀除去装置(サイクレーター)を作ること」というチッソへの指導でした。チッソは排水口を戻し、サイクレーターを作りました。そしてお披露目式で、熊本県知事立ち会いのもと、チッソの社長がサイクレーターからの工場排水を飲んでみせたのです。
水俣、そして不知火海全域に報道を通じて知らされ、漁民や患者を含む住民は、これでチッソの排水は安全だ、不知火海の魚は安全だと考え、魚を食べ始めたのです。思いたいですよ。みんな、海とともに暮らしてきたのですから。しかしチッソの社長が飲んだ水は、工場排水ではありませんでした。ただの、水だったのです。それが分かったのは、10年以上もあとのこと、患者が起こした裁判によってでした。
それでも、サイクレーターができたことで工場排水の安全が証明され、水俣病はもう起きないと思われました。チッソは、熊本県知事から促され、熊本日日新聞社長らの立ち会いのもと、患者と見舞金契約を結びました。「原因が何であるか分からないが、近所の貧しい人たちが病気になっているからお見舞いをして差し上げる」というスタンスで。水俣病は終わったことにされ、患者たちは身を潜めるようにしてひっそりと暮らしました。
63年には熊本大学医学部は水俣病の原因を突き止めます。しかし、社会的処理は終わったとされていたため、国がチッソの同業他社、7社8工場について、何ら対策が取ることはありませんでした。
例えば57年に、59年に、63年に、国が、熊本県が、水俣市が、市民が、熊本の水俣病を解決していれば、新潟水俣病は起きなかったはずです。
65年、新潟水俣病が公式確認され、患者は67年に原因企業である昭和電工に損害賠償を求めて提訴しました。公害史上初の提訴でした。しかし、訴訟中、昭和電工はその原因を否定し続けます。
そこで患者たちは68年、水俣を訪ねました。熊本水俣病患者に助けを求めたのです。初めて両方の患者が握手をし、ここで新潟水俣病患者から持ち出されたのが、「国に自分たちの被害を公害と認めさせよう」ということでした。水俣病が終始あいまいにされたことで、新潟水俣病を引き起こされたことに、水俣の患者たちは、責任を感じざるを得ませんでした。双方の患者たちが声を上げたことによって、科学技術庁は新潟水俣病を、厚生省は水俣病を公害として認定します。ただし通産省の傘下にある科学技術庁は新潟水俣病の原因は曖昧なまま認定しましたから、水俣の場合とは状況がまったく違い、その後も新潟の患者たちの原因追求の闘いは続きました。
一方の水俣では、チッソの社長が患者に詫び状を持参し、初めて謝罪しました。
新潟の患者が水俣へ来て、終わりにさせられていた水俣の運動は再開したのです。
いま熊本県は、教育の場で、水俣病の差別や偏見についてばかりを教えます。しかし、住民の権利を最初に奪ったのは誰か。なぜ、差別や偏見が生まれなければならなかったのか。水俣病の原因企業は、戦前から国策会社として機能してきました。敗戦後、戦後復興と高度経済成長の中で、水俣病は発生しています。国はここで、経済成長と被害拡大を天秤にかけ、被害には目をつぶったのです。私の水俣は、環境を破壊され、住民や生きとしいけるものたちの命を奪われ、声をあげてもなお、無視をされ、放置されつづけたのです。
国民の命を守るべき国が、国家権力によって、自ら環境を破壊し命や健康を奪っていったのです。それに加担したのは、熊本県であり、水俣市であり、マスコミであり、化学界であり、そして私たち国民であり。その体質は、いまだ、この国に根付いています。私たちは、その国が二度と人権を侵さないように監視し、「国に人権を守らせる」という義務があるのだと思います。水俣病患者の他にも理不尽な境遇に置かれている人は多くいるはずです。その声は聴こうとしなければ聴こえません。無関心を決め込んできた、自分がいます。
声を聴くことを、声をあげることを恐れるな。消されようとした水俣病の運動が再開したことを思いながらいま、大阪湾を、日本の未来を思っています。

写真は今年来た埼玉の大学生たちが海に出て釣ってきた魚たち。バーベキューで食べました。今日は水俣病公害認定の日。そう思いながら一日を過ごし、一日が終わりに向かういま、また考えています。
熊本水俣病が公式確認されたのは1956年ですが、公害認定はその12年後、それも新潟水俣病患者たちの力によるもの。
水俣病公式確認ののち、漁民や患者たちは声をあげます。しかし、原因企業のチッソ(現JNC)は熊本県知事立ち会いのもと、水俣病の原因をあいまいにした低い金額の見舞金契約を患者との間に結びました。
水俣病を食い止める機会はいくつもあったはずです。例えば公式確認の翌年、熊本大学からの「水俣湾の魚が危険」「ある種の重金属が原因」との水俣病の原因の調査報告を受けた熊本県は、厚生省に「食品衛生法」の適用を促します。しかし、厚生省は「水俣湾内すべての魚が有毒化しているという明らかな根拠はないため食品衛生法の適用はできない」と返答し、それ以来、法律による水俣湾内の魚介類の漁獲や摂取の規制が行われることはありませんでした。放置を受けた不知火海沿岸住民は魚を食べつづけました。
翌年、水俣湾周辺でたくさんの患者が発生したことを受けたチッソ(現JNC)は、もっと広い海に流せば希釈効果が期待できるとし、細川一チッソ附属病院院長の「そんなことをすれば人体実験になる」という反対を聞くことなく、排水口の場所を不知火海へと変更しました。毒は魚介類の食物連鎖によって濃縮され、被害は不知火海全域にひろがります。生業の場を奪われた漁民はチッソに対し、抗議行動を起こします。患者たちは、座り込みを始めます。科学者はチッソ擁護説を打ち出しつづけ、水俣病の原因究明を混乱に導きました。
その間にチッソ(現JNC)は、水俣病の原因究明のためのネコ実験(800匹のネコが犠牲)により、水俣病の原因を突き止め、そして隠蔽します。
漁民の止むに止まれぬ暴力行為はしかし、法律によって裁かれ、行政も市民もマスコミも化学界もみんながチッソ(現JNC)に味方する中、漁民や患者は孤立していきました。
それに追い打ちをかけたのは、通産省の指導でした。チッソ(現JNC)に対し、「排水口の場所をもとに戻し、水銀除去装置(サイクレーター)を作ること」という指導をしたのです。チッソは排水口を戻し、サイクレーターを作りました。そしてお披露目式で、熊本県知事立ち会いのもと、サイクレーターからの工場排水を飲んでみせたのです。
それは水俣、そして不知火海全域に知らされました。これでチッソの排水は安全だ、不知火海の魚は安全だと誰もが思いました。思いたいですよ。みんな、海とともに暮らしてきたのですから。しかしその水は、工場排水ではありませんでした。ただの、水だったのです。それが分かったのはしかし、それから10年以上もあとのことでした。
それでも、サイクレーターができたことでチッソは、熊本県知事や熊本日日新聞社長らの立ち会いのもと、患者と見舞金契約を結びました。「原因が何であるか分からないが、近所の貧しい人たちが病気になっているからお見舞いをして差し上げる」というスタンスで。水俣病は終わったことにされ、患者たちは身を潜めるようにしてひっそりと暮らしました。
63年には熊本大学医学部は水俣病の原因を突き止めます。しかし、社会的処理は終わったとされていたため、国がチッソの同業他社、7社8工場について、何ら対策が取ることはありませんでした。
例えば57年に、59年に、63年に、国が、熊本県が、水俣市が、市民が、熊本の水俣病を解決していれば、新潟水俣病は起きなかった。
65年、新潟水俣病が公式確認され、患者は67年に原因企業である昭和電工に損害賠償を求めて提訴しました。公害史上初の提訴でした。しかし、訴訟中、昭和電工はその原因を否定し続けます。
そこで患者たちは68年、水俣を訪ねました。熊本水俣病患者に助けを求めたのです。初めて両方の患者が握手をし、ここで新潟水俣病患者から持ち出されたのが、「国に自分たちの被害を公害と認めさせよう」ということでした。
水俣病が終始あいまいにされたことで、新潟水俣病を引き起こされたことに、水俣の患者たちは、責任を感じざるを得ませんでした。
双方の患者たちが声を上げたことによって、科学技術庁は新潟水俣病を、厚生省は水俣病を公害として認定します。ただし通産省の傘下にある科学技術庁は新潟水俣病の原因は曖昧なまま認定しましたから、水俣の場合とは状況がまったく違い、その後も新潟の患者たちの原因追求の闘いは続きました。
一方の水俣では、チッソの社長が患者に詫び状を持参し、初めて謝罪しました。
新潟の患者が水俣へ来て、終わりにさせられていた水俣の運動は再開したのです。
いま熊本県は、教育の場で、水俣病の差別や偏見についてばかりを教えます。しかし、住民の権利を最初に奪ったのは誰か。なぜ、差別や偏見が生まれなければならなかったのか。水俣病の原因企業は、戦前から国策会社として機能してきました。敗戦後、戦後復興と高度経済成長の中で、水俣病は発生しています。国はここで、経済成長と被害拡大を天秤にかけ、被害には目をつぶったのです。私の水俣は、環境を破壊され、住民や生きとしいけるものたちの命を奪われ、声をあげてもなお、無視をされ、放置されつづけたのです。
国民の命を守るべき国が、国家権力によって、自ら環境を破壊し命や健康を奪っていったのです。それに加担したのは、熊本県であり、水俣市であり、マスコミであり、化学界であり、そして私たち国民であり。その体質は、いまだ、この国に根付いています。私たちは、その国が二度と人権を侵さないように監視し、「国に人権を守らせる」という義務があるのだと思います。
水俣病患者の他にも理不尽な境遇に置かれている人は多くいるはずです。その声は聴こうとしなければ聴こえません。無関心を決め込んできた、自分がいます。
声を聴くことを、声をあげることを恐れるな。
消されようとした水俣病の運動が再開したことを思いながらいま、大阪湾を、日本の未来を思っています。

写真は今年来た埼玉の大学生たちが海に出て釣ってきた魚たち。バーベキューで食べました。

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