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漁師ばしとります

雨のなか一人で、考証館当番をしていた。ひどい雨で、きっと今日は誰も来ないだろうなと思いながら事務棟の台所で片付けをしていると、玄関に人影があり、見ると背広を着た男性が立っていて、「やっと来ました」と言う。
とにかく招き入れ、台所に座ってもらい、お茶をいれて男性の対面に座った。どちらからですか、と尋ねると、男性はくぐもった声で、「天草からです。漁師ばしとります」とか、「新聞で知って、永野さんの本ば読みました」とか、「読むのが嫌だったです、でも全部読みました」とか、「来たい来たいと思いながら、なかなか来られんですみません」とか言った。
いまから70年近く前、漁師の家に、8人兄弟の真ん中に生まれた。幼い頃、チッソの廃液によって家や周りの猫たちが狂いはじめ、魚がとれなくなった。生活の、生業の場を汚染されたお父さんたち漁民は怒り、チッソに対して抗議に行った。
++当時の様子++
チッソ(現JNC)は操業以来、多量の重金属や有毒物を含む工場排水をほとんど無処理で不知火海に流し続け、魚が卵を産み、稚魚が育っていくアジロが、水俣湾周辺だけでも32ヵ所あったものが、チッソのカーバイド残滓埋立てや水銀廃水などによって全滅させられている。大正時代から漁民とのあいだで、漁業被害を巡る補償問題を何度も起こしていた。
1958年から、チッソは水俣川河口へ、膨大な毒水が無処理のまま放出し、水俣川の流れにのった廃水は、不知火海全域を汚染、対岸の天草の島々にも広がった。鳥が落ち、猫が発病し、魚が浮かび、ついには人間を殺していった水銀の影響は、水俣及びその周辺の人々の暮らしを破壊していった。追い詰められた漁民たちは、チッソと闘うことを決めた。
1959年、県漁連のうち和解済みであった水俣漁協以外の4,000人の不知火海の漁民は水俣市公会堂に集結し、総決起大会を開いた。主な要求は「浄化設備完成まで操業を中止せよ。水俣湾一帯の沈澱物を完全に除去せよ。漁業被害に対して経済的補償をせよ。患者家族に見舞金を支払え」というもの。これに対してチッソは面会すら拒否した。漁民たちの怒りが爆発し、制止しようとする保安係と衝突した。操業停止を受け入れようとしないチッソ工場に乱入をした。
++当時の様子おわり+++

男性はぽつりぽつりと語った。「我が家は警察から家宅捜索されたですもんな」、「家には、チッソと父ちゃんが交わした契約書があります」、「それで父ちゃんは手を打たされた。不知火海では魚がとれず、とれても売れず、誰かにあげても断られ、結局父ちゃんは、対馬のイカ釣り漁に、出稼ぎに行きました」、と、悲しそうに、笑いながら言って、私はなんと言っていいか分からなくて、「そうでしたか」「そうですか」と相槌を打つだけだった。

++当時の様子+++

漁民の闘いに対して、「暴力反対・工場を守れ」の市長・市議会議長・商工会・農協・新日窒労組などのオール・ミナマタが組まれた。彼らは県知事に対して「工場排水の即時全面停止は水俣市民全体にとって死活問題」と陳情した。こうした動きはその後の水俣病闘争においても、そして現在までも、チッソ城下町を擁護する市民運動(と呼ぶのは若干の迷いがありますが)となっていく基礎を作る。
熊本県知事は、不知火海漁業紛争調停委員会(県知事、県議会議長、水俣市長、町村会長、熊本日日新聞社長)を発足させた。県魚連は漁業被害補償25億円を要求した。チッソの工場長は、聞こうとはしなかった。調停委員会は全員がチッソ擁護の立場であった。こうした中でのチッソの回答は3,500万円の損害補償と6,500万円の特別融資というものだった。調停委はチッソと一緒になって、県漁連にこの回答の受諾をせまり、漁民は受け入れざるをえなくなった。ここで悔しいのは、工場乱入の被害額1,000万円を支払額からチッソが差し引いたことだ。
水俣がチッソの城下町であったということは比喩でない。創業者の名前をつけた町名、水俣工場長が市長になること、自分が流した残滓で埋まった港を公費で浚渫させること、そしてなによりも「チッソあっての水俣」という意識を市民の間に形成していることである。そうした状況のなかでは、一握りの漁民や患者たちの困窮や生命の危機などはたいした問題ではなく、逆にチッソの存続を危うくするような事態をもたらす存在と考えられていた。
++当時の様子おわり++

男性の家は、魚が売れなくなり、海でとれた魚をたらふく食べる豊かな暮らしは一変し、困窮しただろう。海が汚染されたことでお父さんたちが出稼ぎに出なければならなくなり、一家が離散したことを思う。被害は水俣だけではなくて、海でつながっている、対岸の天草にまで広がっている。そんな当然のことにまでは、漁師さんたちの家族にまでは、思いが至っていなかった。男性が来てくれたことで、私は知れた。知りたいと思った。
男性が何かのきっかけで本を読み、痛かったり苦しかったりする経験と向かい合い、こうしてはるばる水俣まで来てくれたことが、嬉しかった。小さくても、ここでこうして動き続けること、発信を続けることは決して無駄ではないと思った。
ここ数週間、政府や地方行政からの言論統制や検閲を受けるような状況をどう整理したらいいか分からない、怖い、発言を控えたほうがいいのかもしれないと思ったりしてしまっていたけど、そんなことはしなくていい。水俣病事件がなかったことにならないように、漁師さんや患者さんたちがいなかった人になっていかないように。
政府は一支援者にわざわざ圧力をかけにくるようなことはやめて、頼むから、その時間を一分でも患者に使って。声をあげた患者の人たちの存在や訴えを、真摯に受け止めて。先日はその場に相思社の仲間たちがいて、それぞれの言葉で守ってくれて、心配ないと信頼に満ちた。孤独ではなかった。「発言を控えようなんて思わないこと」と釘を刺された。
水俣病事件がなかったことにはならないと思う。だけれども。水俣病事件に関するそれぞれのデキゴトが漂白され、塗り替えられるということはある。廃液の投棄、その事実の隠蔽、政府によるチッソ擁護、差別、弾圧などの水俣が背負ってきた歴史や風土が。周到に。誰も気づないうちに。
だから自分の言葉を持って、誰にも支配されずに、発言を続けていく。漁師さんに出会って、そんな当たり前のことを思った。だから、そのことに気づき続けるために、ちゃんと、漁師さんに、患者の人に、出会い続けよう。

※写真は不知火海、対岸は天草の島々。私はこの夏、漁師さんのところに、漁を見に行こうと、ひそかに計画を立てはじめた。私が元気でいよう。私が幸せでいよう。

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