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【公述人9】

私は今までずっと発言をされた方々の話を聞いていまして、少し変わった発言をしてみたいというふうに思います。

何故ならば、私は生まれ落ちての漁師でございます。今もやっぱり漁師です。漁師でたまに出ているわけでありますが、そこで、不知火海、海と山、こういったことから一つ話をしてみたいというふうに思いますが、まずはじめに結論から申し上げますと、私はこの処分場建設に対しては、絶対反対でございます。これが私の結論でございますが、その理由を少し述べさせていただきたいというふうに思います。

そこで、皆様方の中には恐らくご存知の方は、もう少ないんじゃないかなというふうに私は思うわけでありますが、ここ50年ぐらい前にチッソ工場に、私達が不知火海沿岸漁民が大体数千人とその当時言われておったわけでありますけれども、チッソ工場に対しまして抗議行動を行ったことがあります。それに私も参加した者の一人でありますけれども、もうまだまだ私が若かったわけでありますけれども、もう今ではこんな形になってしまった。あれからもう50年になるわけであります。何のためにチッソに抗議行動を行ったかと言いますと、ちょうどその頃日にちもまだ私は覚えておりますが、昭和34年の11月2日でございます。その頃「水俣に奇病というのが流行ったげな」というふうな話が出てまいりまして、ここから女島までは約20キロぐらい離れておりますので「それは何だろうか。何の原因だろか」というふうな話になりまして、それはそれでよかったにしましても、不知火海がそもそも汚染されてしまったんだというふうなことを私達は年配の方々から、あるいはまた役員の方々から聞かされまして、これは黙っておけんばいと、そうこうする内に捕った魚も売れんごつなってしもた。そうすると、今度はまた、その中で魚が不知火海一円死んで浮くようになってしもたというふうなことで、こうしてたんじゃ我々は生活はできんぞというふうなことで、私達はチッソに「我々の生活はどうしてくれるんだ」と「補償はどうしてくれるんだ」というふうなことと、それからその原因がチッソから垂れ流されておる汚水であるというふうなことも耳にしたわけであります。

そういったことでこれを止めるように、また、我々に補償をしてくれというふうなことで不知火海沿岸漁民が総出でチッソ工場に抗議行動を行ったことを、私は今更のように覚えております。また、私も参加した者の一人でございますので、そういったことでしたわけでありますが、考えてみますと、他の方々からも水俣病の話もありましたけれども、現在のような時。代が今日来るであろうということをチッソ及び行政の方々が想像をされたであったろうか今から100年前想像されたであったろうか。決してそれはなかったというふうに私は思います。それが私達の先輩の人達はほとんどこの世にはおりません。おったにしても私達が若い方でございます。先輩の人達がこれを一生懸命考えながら、何とか止めさせようというふうな事を努力されながら、私達を引っ張って、その抗議行動に参加をしたわけでありますけれども、さて皆さん今、現在のところいかがでございましょう。まだ、未だに何にも片づいてないじゃないですか。

そういうふうなことで考えますと、この処分場が湯の鶴の上に出来るというふうな話を私は聞いておりますが あの辺に出来たとしますならばその周辺が汚染されるその汚染物質が流れ出たとしますとどこへ行くか。いいますと、これは知れたことでありますね、湯出川に流れて出る。湯出川に流れて出たならば、その汚水はやはり水俣川に来る。水俣川に来たならば、また、不知火海に流れて出てくるんだということは、皆さん誰が考えても分かりきったことではないかというふうにこう思うわけであります。そういったことで、私はもう二度と不知火海を汚染するような、汚染されるようなことは絶対止めてもらいたい。止めてもらいたいよりも、止めるべきだというふうに考えておるわけであります。

また この水俣病で皆さん方が非常に苦しんでおられる私も水俣病患者でもあります苦しんでおられるその中に事もあろうに水俣にもってきて処分場を作ると、どこを考えればそういったことが考え出されるのであろうかというふうに私は思うわけであります。これは絶対そういったことで止めていただきたい。止めるべきというふうなことを繰り返し訴えをしておきたいというふうに思います。また、今私は漁民の立場でということで申し上げたわけですけれども、今度は水俣病被害者としての立場で少し触れてみたいというふうに思います。

さっき言いましたように、こういった悲劇が起きるということを誰も想像していなかったであろう事でございますけれども、今皆がこうやって苦しんでおるわけでありますし、また、不知火海が汚染されたということになりますと、私達の子孫、漁師、子孫はまた何をやって生活をしていけばいいんだろうかというふうなことが、私は思われてならんわけであります。ですから、そういったことで絶対この建設というのは止めてもらいたいというのが私の本音であります。それから、もう一つ申し上げますと、私は、いつもどこでも話をする時に水俣湾の埋立地、あれは水銀処理場だというふうに私は言っております。そうしますと、今度出来るのは、これはゴミ処理場じゃないですか。そうしますと、やはりこの狭い水俣地域がその二つの大きな処分場を背負って将来歩いていかんばならんというふうなことに皆さんなるのではないでしょうか。そういったことを許していいのかということでございます。そういうようなわけで、私はこの処分場というのは、もう決して、決して許すわけにはいかない。

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