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風がある日の船の上は

朝から船の上で、なんとはなしに始まった話。風がある日の船の上は、今日みたいな暑い日でも外よりも家の中よりも、涼しいのよと、船にふたりきりになった時、女性が教えてくれる。
漁師をしている女性の顔や首は漁をしない私より白い。ツバが広く首を覆う帽子に効果があるのだろう。黒く焼けた無骨な手をさすりながら話す。水俣病によって引き起こされる頭痛、身体の痛みのこと。昔父ちゃんが水俣病の運動に一生懸命で家に帰ってこんかった話。家事と漁とで子どものことまでは見やきらんやった。水俣病に父ちゃんば取られて、一人必死で子どもたちば育てた。叱らんちゃ良かとば叱って、かわいそか思いばさせた。精一杯抱きしめてやればよかった。抱きしめてやりたかった。どげんかある子ば産んで、そん子がどげんかあっときは(病気などになった時は)、身ば切られる思いがすっと。そしてその子を失った日から、緑の山は灰色に見えて。自分を責めて責めて責めて。他の子たちがおっとに、親の私が一人で立っとききらんごてなったと。

もう何十年も昔の話を昨日のことのようにして話す。静かに泣きながら、時々汚れたタオルで顔を拭う。ここに私はいるけれど、まるでいないように宙に向かって話す。

子どもば失って、初めて食べ物のことば考えるようになった。野菜に、みかんに農薬ば毒ば撒くていうことがどげんことか。水俣病とは食べ物の病気じゃ。薬はのまん。薬は毒じゃ。

子を思う親の嘆きを前に言葉が出ない。
その仇を取りに出た父は怒りは運動で晴れたのか。家で待つ母の怒りは。彼らの悲しみはどこへ向かうのか。
聞きながら、綴りながら、私はこの人たちの苦しみを本当に知らないなと思う。
普段人の影に隠れているこの人の、どっしりと重い気持ちを初めて聞いた。私の母は若くして亡くなったが、よく小さい頃に聞いた「考えていない人は、いないのよ」という言葉はこの仕事を始めてから特に思い出す。大きな声にはならない声が、マイクの向かない声がある。

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