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語らい

今日は早朝から船に乗せてもらい、対岸の天草の島へ渡りました。ひかり凪で、鏡のような海でした。ゆらりゆらりと揺られながら、本を読んだり、外を見たり、風に吹かれたりしていました。そうして患者さんのお宅に行って、仏壇にお参りをして体の調子を聞きました。患者さんは朝から刺し身を用意して待っていてくれて、「久米仙」という沖縄の焼酎をすすめてくれました。30度もある焼酎で、私は義理堅くいきたいと心から思いながらも、でも「あとがあるので」といって断ると、「そうか、永野さんな飲めんとかな」といって、悲しそうな顔をしました。ごめんなさいごめんなさいと思いながら、ご家族のこと、退院後の体調や困っていることを、語られるまま聞きました。
帰りの船ではあちらでいう「男ん衆(おとこんし)」が三人並んで私の正面に座って、競うようにして話をします。島言葉の美しいこと。聞き惚れながら、時々聞き取れずに聞き返し、畑のことや漁のこと、台風のことや妻たちのこと、イノシシのことや誰か知らない人の噂話を聞きました。
相思社に戻って、患者の方たちの会議の司会をやりました。司会と言っても中心は患者の人たちで、私は議題を確認したり、決まったことを言葉にするだけの役割りです。語り合うのはすべて患者さんたち。一つの議題に、ああでもない、こうでもないと、時間をたっぷりと使われます。キャッチボールのように言葉が行き交い、最後には、まるで最初から決まっていたようにして物事が決まります。本当にあっけなく。その繰り返しでいくつもの課題が話し合われるのです。それは、私たちが日常繰り広げる「朝ミーティング」や「スタッフ会議」とはまったく違う趣です。
この長い時間をかけて語り合われることに耳を澄ませながら、ことの成り行きを見続けるのが私の仕事です。みなさんの言葉を理解したいと思いながら、時々難しく、頭がいっぱいになります。私はみなさんのように奥行きのある人生を重ねてはいないことを実感します。少しでも気を抜くとすぐに話しの流れを見失います。だからずっと心を研ぎ澄ませているようです。そして、終わるとどっと疲れ果てるのです。それが、今です。

昨日は中学生と、語らいの時間を過ごしました。去年の同じ時期、中学生に話してくれと言われました。当日話しを始めると、中学生たちはみんなそれぞれに我がことを話しはじめ、私は孤独になった気がして、なんだかみじめな気持ちになりました。心が小さくなりながら、最後まで話しをして帰ってきました。
同じようだったらどうしようと、朝から怖くて、中学生との時間まで、周りの人に、こわいこわいと言って、大丈夫と勇気づけてもらったり、改善策を提案してもらったりしていました。
会場に行くと、中学生がずらり。私はなかなか話し始めることができなくて、でも自分が持っている怖いと思う気持ちはそのまま認めてあげようと思いました。それから目の前の人たちを信じたいとも思いました。それは一緒にできることでした。
そうすると、心は慎重になり落ち着きました。とても小さな声で、中学生たちに今日あったことを聞きました。どこへ行ってきましたか?何が印象に残りましたか?と尋ねると、中学生たちはその声に耳を澄ませ、そして「親水護岸(水銀ヘドロが眠る水俣湾埋立地)に行ってきました」「水俣市の資料館に行ってきました」と言いました。六人目の男の子が、「水俣市の資料館の展示が印象的でした。『なぜ廃水は止まらなかったのか』と書いてありました。水俣のチッソで働いていた人たちは原因を知っていたけれど、本当のことを言えなかった」と言いました。
私はそこから、この展示について、私の考えていることを、話しました。「なぜ廃水は止まらなかったのか」、という展示のタイトルのその主語は、主体は誰なのか。なぜ「廃水」を主語にするのか。なぜ人間を、加害者を主語にしないのか。あいまいな言葉でごまかすのではなく、「なぜ、廃水を止められなかったのか」とできなかったのか。私の地域の環境が破壊され、住民の命が奪われても、廃水を止めることをしなかったのは、「水俣に働くチッソの人」ではなく、日本であり、地方行政であり、企業であって、その歴史を、こんなふうに残してほしくはない。なぜそう思うかと言うと……
話を終えた後、隣同士の人たちと話し合ってもらいました。私も中に入って。そして一人ずつ、質問をしてもらいました。すぐに言葉が出る人もいれば、一分、二分、三分と答えを待ってようやく言葉になる人もいました。「待つ」という時間を私は尊く思います。静まり返り、一人ひとりが自分の心の中を考えたり、考える人のことを考えたりします。私はその時間、考えている人の顔や姿や、その人を見つめる隣の人のことをじっと見ています。見れば見るほど、考える人が「一人」の「個」に見えて、近くなる気がして、そうして出た答えに対し、私は心から「応えたい」と思います。どの人も諦めず、全員が、自分の言葉を発して、私は最後に、「話をさせてくださって、話をしてくださって、ありがとうございました」と、深く頭を下げました。お別れの時間、中学生たちが周りに集まって。ひとつ年上のお姉さんに言葉をかけるようにして、質問をしてました。私はきっと、すっかりと心が裸になっていたのだと思います。心安く、質問に応えていきました。
帰り際、先生が「あの子たちが質問をするとは思いませんでした。あんなに考えているとも思いませんでした」と2つ言葉を述べました。私は「考えとらん人はおらんとよ」と、つい口から出てしまいました。それから急いで、私の母はとても早くに亡くなったのだけれど、その母の口癖が、「考えとらん人は、おらんとよ」で、こどもの私は「言葉になること」よりも、言葉にならないことのほうがずっとたくさんあるんだと思ったし、いまも自分を戒めるときに母の言葉を思い出しています、と補足しました。私だって、あんなに怖がっていたくせに。
昨日、講話の前の私の不安の気持ちを静かに受け止めてくれた人たちを、中学生や母と同じようにありがたく思います。
昨日と今日と、まったく違う世代の人たちとの語らいを、私は幸せに思いました。この幸せな日々が、ずっと続くわけではありません。今日という日が終わる今、こうして綴ることで、今日のあの人たちの語らいのそばにいさせてもらったことを噛み締めています。
9月に入って、随分と体に余裕が生まれてきました。こうして日常を綴ることができるまでに。

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