アニメ版GODZILLA、好き!

 アニメ版GODZILLA『怪獣惑星』『決戦機動増殖都市』『星を喰う者』を、通して一気観してみました。以前から見たい見たいと思ってたのですが、いい機会だなと思って。最初は一日一本くらいで行こうかなと思ったけど、一気に駆け抜けてしまった…(笑)
 俺、この作品は好きですね。
 今日はつらつらと、感想なんかを。

 まずは『怪獣惑星』、のっけからガチのSFな導入部、非常にワクワクさせられますね。地球を脱出した恒星間移民船(目的の惑星はまだ未選定な上に、航海のためのリソースが枯渇気味)という、絶妙な閉塞感からスタート。こういう息苦しさの中、生きる活力に満ちた主人公ハルオが際立ちます。
 二十世紀末、世界を襲った怪獣たち、その王であるゴジラに屈してしまった人類。
 エクシフとビルサルド、二つの宇宙種族と共闘するも、戦いを断念。
 地球を捨てて脱出してはみたものの、新天地が見つからないまま二十年が経過。
 今までのゴジラでは、こうしたある意味での敗北エンドから始まってる作品というのは、ないですね。非常に目新しく、またゴジラ作品が持つ普遍のテーマ(だと俺が個人的に思っているもの)への斬新なアプローチを感じました。

 54年版の初代ゴジラは、ゴジラという怪獣が「戦争や核兵器のメタファー」として描かれてる、個人的にはそう思っています。終戦からまだ、十年経ってない時代の映画ですしね。冷戦構造が加速し、核開発競争がヒートアップする時流が生んだ作品です。
 人類の核実験が、古の恐竜を放射能汚染でゴジラへと突然変異させてしまった。
 そのゴジラに襲われる人類は『因果応報』とも思える被害を被る訳です。
 その後は昭和シリーズでは、ゴジラはヒーローもやって、宇宙人や悪の怪獣とも戦ったりします。そして再び84年版で仕切り直し、そこからのシリーズ、次のミレニアムシリーズと作品の幅を広げてきた歴史があります。
 ゴジラはその時その時で、様々なものの具現化、象徴として描かれてきました。

 本作ではゴジラは『絶対的な万物の霊長』として描かれています。地球の支配者としておごった人類が生み出した、地球に本当に選ばれた支配者ですね。そして人類は、宇宙へと追いやられた。
 俺はアニゴジは、54年版、74年版、そしてシン・ゴジラの系譜だと思っています。
 怪獣VS怪獣よりも、怪獣VS人類をテーマとしてるように感じました。そして、核兵器や環境破壊、東日本大震災のメタファーだったゴジラは…今回は『神や摂理のメタファー』として描かれてるように感じました。
 人類は安住の地を取り返すため、ゴジラに戦いを挑む訳です。

 非常に面白いと思ったのは、この作品でのゴジラは地球意思的な存在であり、大自然そのものでもある。いわゆる『野生の動物の頂点としての、万物の霊長』という描かれ方をしている点です。だから、地球時間で二万年が経過した地球は、全ての生態系がゴジラを中心に作り直されています。

 対して、『かつて万物の霊長と自分たちを謳った人類』はどうでしょうか。
 御存知の通り、人類、人間は野生の動物とは一線を画した存在です。
 『人はパンのみで生きるにあらず』という言葉があるように、人間は衣食住だけでは生きていけません。それは『死んではいない』というだけになってしまいます。人間は強烈な欲とエゴを持ち、生きるためには愛や夢、尊厳がなければいけない珍しい生き物です。

 だから、それらを取り戻すためにゴジラと戦い、地球を取り戻す選択をした。
 人類が本当に取り返したかったのは、地球ではなく『顔を上げて前を向く』という、人間には必要不可欠な普遍の精神性だったように俺には思うのです。

 そう考えると、ハルオの行動や選択、作中でのアクションは全てが一貫しています。同時に、一人の弱い人間でもあるため、描かれ方としても非常に明確さ、わかりやすさがありました。
 ハルオは、幼少期にゴジラに両親を殺され、なにもできずに逃げた記憶があります。
 前述の通り、人間は精神的に豊かでなければ生きていけない生き物です。そして、この敗北はハルオと人類に強烈な敗北感を与え、膿んだ古傷にも等しいトラウマを与えました。

 マクロスシリーズにあるような、新天地を夢見ての船出ではありませんでした。あてもなく放浪を選ぶしかなかった、ただただ逃避するだけの漂流だったのです。
 そんな中で、ハルオは人間性を取り戻そうと立ち上がります。自然環境のない宇宙船の中で、資源として管理される人間ではない。美しさを愛で、喜怒哀楽に笑い泣く、本来の人間を目指して立ち上がるんです。そのためには、ゴジラにリベンジして勝つしかない。これは『人が人らしく生きるための戦い』でもあったように感じました。

 まー、面白かったですね。特に、地球人類と共に共闘した種族、エクシフ……彼等は、神の実在を前提に生きる宇宙人です。現代の地球でもそうですが、いわゆる『非実在の証明』が不可能(これを悪魔の証明といいます…因みにエクシフのメトフィエスは多分、メフィストフェレスをもじった命名かな)なため、一流科学者ほど『逆説的に、非実在を証明できないから、神は実在すると仮定して扱う方が合理的』ってのが多いみたいです。

 神を人が扱う時、切っても切れないのが宗教という概念です。
 宗教は実は、元来は善なるもの、人類を救済する優れたシステムなんです。
 だったんです、と言うのがより正確でしょうか。

 かつて人類は、この地球ではとても弱い生物でした。大自然の中で種を存続させるには、どうしても人類同士が群れを作る必要がありました。群れる動物は多いですが、人間には欲とエゴ、ようするに感情や心があります。野生の動物のように、完全に近い形の弱肉強食社会は築けなかったと思うんですね、
 人類はそれでも、道具を生み出し使うことを覚えて、文明を手にします。それは同時に、人間だけが多く持つ欲とエゴを、文化という形で共有することも成功させました。これによって大きく人類は進歩しましたが、生物としては貧弱なままで、病気や飢えでバタバタ死んでいきます。
 当たり前ですが、人類は既存の野生動物と違う道を歩み始めたことで『弱肉強食の自然の摂理から、ある程度外れてしまった生物』になりました。獣や鳥、虫ならば、弱さ故に死に、弱さ故に滅ぶことは必然で、恐らくどんな動物もそれを悲観はしないでしょう。
 しかし人間は違います。
 運悪く病気になれば、死にたくないと嘆きます。そういう同胞を見ると、見捨てられないと思う仲間がいます。でも、人間は弱い種なのでバタバタ死にます。野生の動物の『弱いから死ぬのはしょうがない』という摂理を、人間は上手く受け入れられない動物になっていったんです。心があるから、文化を知ったから、価値基準が強弱だけじゃなくなっていたんです。

 そんな中で、摂理との齟齬を解決するシステムが誕生しました。
 それが神であり、宗教です。
 文化を持つ人類は、摂理とは別に『死んだけどしょうがない、死ぬけどしょうがない』と納得できるシステムを自分で作り出してしまったんですね。それが信仰です。
 単純に『信じる者は救われる』という、生と死の続きを自分で生み出したんです。
 動物は、死ねば無となり、肉体は生態系の循環の中で強者の血肉となり、排泄されて土に還ります。しかし、人間は基本的に墓を作って埋葬します。宗教という文化的なシステムによって『大自然のサイクルの一部』ではなく『天国へ旅立って幸せに過ごしている』という解釈による救済を得たのです。ほかにも『いつか死者も生き返る』ってのもありますね。
 病気で苦しんで死んだけど、天国に行ったと思うことで人は救われてきたんです。
 また『正しい行いを重ねれば、死後は天国に行ける』という価値観は、人類の倫理観をも育てました。人類は『頑張れば神の救済があるから』という宗教観を得て、世の中の理不尽や不条理、大自然の中での不運に打ち勝つことができるようになったのです。

 しかし、中世を経て近代に至ると、この宗教というシステムから徐々に人類は遠ざかっていいきます。宗教に代わって、新しく現れたシステムが『社会』です。
 人類は『信じる者は救われる』から『国民として納税していれば救われる』という、具体性のある堅実な社会というシステムを手に入れました。それは国家であり自治体です。それらには明文化された金銭やサービスでの保証があり、年金や保険制度がそれに当たります。
 例えば俺のように病気でも、障害年金によって『病気で働けないという不条理』を、金銭的に救済してくれる。宗教は救われると思う自分によって己自身を救ってきましたが、社会は現実的に物品や金銭で救ってくれます。
 これにより、貧乏人(弱者)も最低限の文化的な生活を保証されるようになりました。

 翻って、ゴジラの話。エクシフの民が持つ信仰心もまた、自分たち人類の救済のためにあると思います。しかしそれは、死や滅びを理不尽、不条理ではないと定義して受け入れるものでした。
 簡単に言うと、エクシフの教義って『どうせ最後はみんな死ぬ、諦めようぜ』だと思うんですよね。理不尽や不条理なんて、あって当たり前だからしょうがないじゃん、って話だと思うんですよ。身も蓋もない話ですが、彼等はギドラという『具現化した実在の終焉』を証明されてるので、そうなるんだと思います。そして、その価値観を宇宙に広めようとしている…すげえ迷惑な種族ですね、エクシフ(笑)
 本来の宗教は、この世の理不尽や不条理から、人間を救うためのシステムです。
 逆説的に、人を救わないものは宗教ではありません。だから、世界にひしめくカルト教団は、あれは新興宗教と言われてても実際には宗教ではないんです。言うなれば『宗教を模した奴隷からの搾取サークル』ですね。
 そして、エクシフのギドラ信仰、これは…宗教でありながら宗教ではないという、非常に面白い味付けで作品に貢献しています。滅びを必然と捉えて、だからこそ恐れる必要もないし悲しまないという教義は、それを受け入れた人間の心を安らかにするでしょう。しかし『どうせ滅びるんだから』という前提を布教することは、人間性への挑戦、人間の尊厳の冒涜にも繋がります。ハルオは物理的にはゴジラと戦いながら、後半はエクシフの宗教観とも戦う羽目になりましたね。

 エクシフは高度に発達した精神性で、一種の『悟り』を得ているから、終焉を堂々と受け入れることを救いとし、それを信仰心で布教してきました。しかし、本来の宗教は『悟れないから苦しんでる人を救う』というものであるべきです。
 ハルオたちは、ゴジラへの敗北を受け入れられないから戦っている。勝てない相手に対して、自然の摂理だからと悟れないから足掻いて藻掻く。
 宗教は本来、そんなハルオたちの頑張りを肯定しなければいけないと思うんですよね。
 滅びに抗った、頑張った…だから天国に行けると思えたらよくない? みたいな。
 それを『どうせ滅ぶんだから、みんなで堂々と滅びましょう』では、救われない。
 まして、それを他の種族に押し付けてくるというのは、非常に恐ろしいものですね。

 メカゴジラシティや各種メカの活躍も面白かった。
 ただ、一つだけ気になったのは『対ゴジラ戦闘のワンパターンさ』ですね。一回目は、ハルオのデータ解析から見えた弱点を起点に、人類はみんなで協力して一点突破、ゴジラ(小さい方)を倒します。
 その戦術は、以下の通りです。

1.ゴジラはバリアを持ってるが、それを発する電磁場が一瞬乱れてバリアが消える。
2.なので、まずはゴジラをトラップに誘導して、その身動きを封じる。
3.次に、電磁場の乱れを人為的に外から増幅してやり、バリアを無効化する。
4.その間にバリア発生器官である背ビレを破壊、バリアの発生を不可能にする。
5.最後に生体ジャマー的なものを撃ち込んで、ゴジラの体内の電磁場を暴走させる。
6.制御不能になったゴジラは自爆してしまう。

 これですね。
 具体的に言うと『空中から機動部隊が挑発し、予定ルートへゴジラを誘導』して『用意された地点でトラップ等で身動きを封じて』『まずは背ビレを破壊』からの『最後にデカい一撃をズドン!』です。
 一回目、これは盛り上がったんですが…メカゴジラシティも基本、これでしたよね。
 スケールは大きくなりましたが、やってることは一緒なので、どうしてもアニメの見せ場的に二度目はインパクトが薄れてしまいます。人類を二万年待っていたメカゴジラや、物質文明の合理性だけを先鋭化させたビルサルドという種族のドラマが、ちょっと色あせて見えてしまった。
 勿論、これはハルオが考えた『人類が唯一ゴジラに勝てる作戦』なんですけどね。
 小さいゴジラがいけたから、ゴジラ・アースもこれでいけるべ!みたいな…そのまま同じことをやっちゃうのは、個人的にはちょっとそこだけガッカリ。別に、メカゴジラが出てきてゴジラと格闘しなくてもいいんです。そういう意味では、自分では動けない要塞都市にメカゴジラを変貌させたのは、これはかなり冒険的な演出だったように思えます。
 でも、メカゴジラシティ自体は凄く好きなんですよね…都市は人類文明の象徴ですし。

 あとは、ラストシーンの話。ギドラによる終焉、エクシフの押し付けがましい救いをはねのけた人類は…モスラ由来で環境に適合した人類種、フツアと共存の道を選びます。
 一見してハッピーエンドですよね、これ。
 フツアはゴジラ・アースと、あの地球で共存しているんですから。
 ハルオも、マイナちゃんとラブラブになって、子供も生まれそうでメデタシメデタシ…一見してそう見えるのが、まず上手いんですよ。そして、戦いが終わって新しい道が開かれた、その中で科学者マーティンが機動兵器ヴァルチャーを再起動させてしまう。
 その瞬間が、ハルオの運命を決してしまったんですね。

 ハルオは最後、植物人間となったユウコを抱えたまま、ヴァルチャーでゴジラに特攻し、その命を散らします。一見すると唐突で、彼が何故その選択をしたかがわかりにくいかもしれません。
 それに、正解は製作者しか知らないし、あくまでこれは俺自身の解釈です。
 まず、各所に散りばめられた既存のゴジラ作品へのリスペクト、そしてオマージュ…ラストシーンもまた、俺は『初代ゴジラの芹沢博士へのオマージュ』ではと感じました。芹沢博士は、核兵器が生み出したゴジラを殺すために、核兵器よりも恐ろしいオキシジェン・デストロイヤーを作り出しました。そして、それが核兵器よりも強力な兵器として東西冷戦、ひいてはその後の軍拡競争を増長することを恐れて、自ら命を断つことでオキシジェン・デストロイヤーを封印します。
 ハルオも、平和なフツアの世界で人類が生きていくために、ナノメタル技術の結晶であるヴァルチャーを『これからの世界にあってはならない物』と定義した。これは憶測ですが、まずそういう意図も見て取れるような気がしました。

 次に、ハルオが最後にヴァルチャーで飛び立つ前、妻となったマイナに『ゴジラが憎いか?』と問うシーンがあります。
 あの時のマイナの答えが、ハルオの最期を決定づけたと俺は思いました。
 マイナは『ゴジラは怖い』と言い、嵐や雷と同じ怖いものだと言いました。フツアは独自の文化を持つ種族ですが、文明的には原始時代の狩猟生活をしているように見えます。そして決定的なことなのですが、フツアは二万年の中でモスラ由来の進化をしてきた人類で、そこには『人間だけが強く持つ欲とエゴ』が酷く希薄なのです。
 思い出してください、フツアの民は自分たちの損得を考えていたでしょうか?
 フツアの民は、ハルオたちを攻撃し、捕らえました。
 でも、同時に手当もしたし、必要な情報を与え、邪魔はしなかった。
 ナノメタルという必殺の武器を持ちながらも、それを独占しようという発想がなかった。身を守るための戦い、生きるための狩りはするのでしょうが、基本的に『利己的な発想がない、負の感情を強く持たない種族』として描かれていたように思えます。
 なによりマイナはハルオに『憎しみというのは知らない』と言ったのです。

 これは決定的だと、個人的には思いました。
 ハルオは人間の尊厳を取り戻すため、人類が逃げてしまったゴジラという驚異に立ち向かいました。彼は自分が人間であるために戦い、憎しみや哀しみも人間なればこその感情として否定してこなかった。
 人間だけが欲とエゴを強く持ち、愛も憎悪もそこからやってくるものです。
 しかし、フツアには、マイナにはそれがない。
 だから、当たり前ですがマイナには愛もありません。彼女がハルオと子をもうけたのは、ハルオたちが種族として負けようとしていたから…彼女は『勝つは、命を繋ぐこと』と言っていました。これは野生動物の『本能としての種の保存』とイコールであり、ようするにフツアは『調和の精神を持つモスラ由来の、人間型野生動物(昆虫?)』なのです。
 マイナは、ハルオたち旧人類を、ただの本能で迎い入れ、血を残すことで種を紡ごうとした。それは愛ではなく、そういう本能を遺伝子に刻まれてるからと解釈できます。
 ハルオは、人間として戦い、人間としてゴジラに敗北した。
 人間だから憎しみを原動力にできたし、それを忘れることはできない。
 そして、フツアが美しく優しい種族でも、それが『人間の証である欲やエゴからくる心、感情』を持たないならば、そこに溶け込むことは選べないんです。ハルオが取り戻したいのは、人間の尊厳、人間らしさ、人間性です。それはいいものばかりではなく、憎悪や嫉妬、妬み、そねみ、闘争心…強欲な気持ちや猜疑心も含めて、全部の人間性です。
 フツアにそれがないなら、そこにハルオの居場所はないんですよね。

 最後に、アニゴジがよく『賛否両論の作品』であると言われることについて。
 率直に言って、いいことだと思います。
 例えば、自分はファイブスター物語という作品が好きで、作者の永野護先生の信者を自称してます。いいんです、俺にとっては宗教でもいいんです、FSSは。でも、ファンの中には当然ながら『ファイブスター物語の中の、好きなエピソード』『ファイブスター物語の中の、嫌いなエピソード』があります。
 FSSは端的に言うと『騎士が少女型アンドロイドと共にロボットに乗って戦う、おとぎ話』です。ロボット漫画です。魅力的なキャラとメカ、そして壮大な世界観…でも、広さも奥行きも独特な上に広大なので、多様性が豊かで、故に『読者の好み』もうるさくなるんです。
 ロボがなかなか出撃せず、歩兵や戦車がちまちま戦ってるあの話が嫌い。
 突然別宇宙の話になって、遥か未来のエピソードが始まるのが嫌い。
 よくわからないけど、ロボのデザインが一新されたのが嫌い。
 よくある話で、別にいいんです。賛否両論ってぶっちゃけ『ただの好き嫌い』ですから。で、そういう多様性がある作品やシリーズは、それだけ豊かで素晴らしいと俺は思います。ガンダムシリーズだって、Gガンのあのノリには最初誰もついてけなかった。ミリタリーティストがないガンダムはガンダムじゃないなんて言う人もいた。SEEDが嫌なファンもいる。でも、それだけシリーズの内容が豊富だからこその贅沢ですよね、これは。

 ただ、これは俺なりの話で、俺自身にだけ課して己を戒めたいと思ってる話ですが…世の中には守るべきルールとマナーが存在します。
 ルールは当然ですが、法制度として明文化されてますね。
 問題はマナーです。
 個人的に『ルールは皆で共有するもの』『マナーは己に言い聞かせるもの』と思っています。だから、日本国憲法や民法、刑法、道交法なんかは俺はみんなと共有してるし、みんなが守るように俺も守っている。法を守るから、俺も法によって守られている。
 創作物を楽しむのに、ルールはあまり存在しません。
 無断アップロード等は違法で、それは処罰されるべきですけどね(笑)
 ただ、マナーは少し難しいですよ。俺は、創作物を楽しむ上でのマナーというものがあると思っています。それは特に『不特定多数の人間と接する時』に必要になると思っています。

 例えば、ゴジラ好きな友達とご飯を食べながら、ゴジラの話をするとします。当然ですが、その友人との仲の良さ、互いの人となり、共有する時間の雰囲気を考慮して、楽しい時間を過ごしたいと思うものです。なんでも気兼ねなく言える友達もいるし、その友達が愛してやまない作品の揚げ足取りなんかは、特に必要がない気もしています。
 これは明文化されたルールではなくマナーなので、自分で考えて自分で実践するしかありません。ただ、美味しいご飯を食べながら話せば、結構楽しく過ごせるものです。
 直接顔を合わせて、互いの顔を見て話すからです。
 これがネットでだと、名前も素顔もわからない中でして、結構難しい。ここで『一緒に飯を食いながら話してる感覚』で交流すると、失敗しがち。また逆に、安全な場所から相手に話しかけられるから、攻撃的になる人、酷く陰湿なことを言う人もいるでしょう。
 残念ですが、自分もまた誰かからそういう人と見られてることもあるかもしれません。気をつけていてもそうだし、自分自身も誰かをそういうふうに思ったことがあります。
 だから、ネットではより慎重になる必要があると思います。当たり前ですが、俺はネットでは仲良くしたい人、好きな人に対して気を遣います。誤解を防ぎ、より楽しい時間を共有したいので、慎重になりたいのです。失敗することも多いですが、そういう時は謝罪して許してもらうようにしてます。最近は。上手くいかないことも多いですが。
 同様に、俺も気を遣ってもらってるし、許してもらってる、感謝です。
 で、お互いにそうじゃない人は、ネット上では特に関わる必要がないように思います。必要最低限の礼儀礼節を持って接し、近寄る必要はないと思うんですよね。
 自分を向いてないのに、自分を傷付ける人、これは『貴方の人生の背景』です。
 道端で貴方がつまずいた石ころと一緒です。
 酷い話に聴こえるかもしれませんが、そういうもんです。ネット社会は現実社会と違って『互いに文字でしかやり取りをしない世界で、それによって生まれる齟齬をフォローし合わない人とは仲良く楽しめない』という、一種の特別な世界、異世界です。
 ネットでも楽しく過ごしたい、だから俺は友達や友人知人に優しくありたい。気を遣わせてほしいし、失敗したら謝るから許して欲しい。それが俺なりのマナーですね。

はじめまして!東北でラノベ作家やってるおっさんです。ロボットアニメ等を中心に、ゆるーく楽しくヲタ活してます。よろしくお願いしますね~