「晴れの日も雨の日も」#79 「一流への道」と「幸せへの道」

(22.8.15投稿済み。誤って削除したため、再投稿)

私は、若いころ、一流の男になりたいと願っていた。
そのために自分の能力や枠を大きくするということに関心が強く、自分を磨こうとしてきた。石の上にも3年、とか、継続は力なりというスタイルにしがみつき、オヤジオフクロからのDNAである「我慢」ということを金科玉条にしてここまでやってきた。

で、その結果はどうだったのか。幼少の頃は、取り柄無し兼アカンタレのハナタレ小僧だったので、そこから見れば、ようここまで来たなあ、と感慨深いものはある。「逃げない投げないごまかさない」の精神で得たものもたくさんあるし、それらは、そうしなければ得られなかったものだ。

が、ふと立ち止まって振り返った時、「で、それでオレは幸せになれたのか?」という「一流かどうか」とは別の疑問が時折頭をもたげる。

5人の子に恵まれ、経済面も人並みにはやれているのに、何が不満なのか、といえばその通り。厚かましいもしくは欲深な話なのだろう。が、なんともいえない寂寥感に身を包まれる時がある。

そもそも幸せとは何かという永遠の重たいテーマについて、今はそこまで肩ひじ張って考える気も別にない。ただ漠然とした寂寥感なのだ。

たとえば、誰かに何かを残せただろうか。
腹を割って話せる人が何人いるだろうか。
それは本当に腹を割りきって自分の全部を見せているのだろうか。
サビシイ時にサビシイと言っているのだろうか。
自分の希望と違う時にその自分に嘘をついていないだろうか。
自分が我慢して済むことなら、と本当の自分の気持ちをごまかしていないだろうか。

そう考えてくると、私は一流を目指しての精進はそれなりにしてきたが、自分の感情と向き合うということをなおざりにしてきたことに気付かされる。

満足すること、喜ぶことを大事にせず、自分が本当に満足できるように、心地いい場所を作る努力をしてこなかったような気がするのだ。
孤独への耐性も高く、我慢することにはあまり痛痒を感じない性分だったこともそこには影響している。

昭和の男は、みんな大なり小なりそんなもんだ、とも思う。で、本稿のタイトル「一流への道」と「幸せへの道」は同じなのか違うのか、どこかでつながったり接点があったりするものなのか、一流への道を目指していけば幸せになれるのか、などと考え込んでしまった。

「一流の男」は能力や見識、大きく言えば人間力といった点で、あいまいながらも何となく物差しがある。
一方、幸せについては、相田みつをの「幸せはいつも自分の心が決める」の言葉の通り、物差しはない。自分の心に問うだけだ。
その心に問う時、高揚感とかプラス感情はまだ扱いやすいが、寂しさや孤独感、満たされない感等のマイナス感情は、扱いにくい。

私はここまでそういうものはいわば心にフタをしてやってきた。その方が一流への近道だと思ってきた。そしてその結果今になってそのツケが回り、そういう感情とうまくつきあえずにいる。それが、「幸せ感」のスカートの裾を踏んだ感じになっているのだと思う。

と、ここまでは整理したが、さて、じゃあ、自分はそこをうまく折り合いつけて、幸せへの道に歩みだせるのか。
うーん、わからんなあ。継続宿題です。
一流かどうか、成功したかどうか、幸せかどうか。
少しづつ違うような気もするが、でも幸せになるということは、満足して楽しんで生きることとかなり近く、そのためには、少々ギアシフトがいるのでは、という気がしている。そしてこれこそが究極の問いのような気もしている。

注:サムネ画像は本文と密接な関係があるわけではありません。ただ、何となく。。。

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬長井 克之
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<予告>
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(続く)

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