父を自宅で看取ると決めた日

「人生で困ったことがあったら、社協に連絡しなさい」

社会的養護内容の先生が言った言葉だ。
余り好きな先生ではなかった。
児相の管理職を定年したあとに先生をしている方で、発言の端々に自慢が混ざるような人だった。

こういう困っている人がいたから私はこんな風に助けてあげた、それが当時の私には自慢に聞こえて鼻についた。

そのくらいその時の私は心が荒んでいた。
いや、本当に困った時なんて誰も助けてくれないし。人生経験の薄い若い同級生達なら耳障りのよい感動的な話だろうけど、既に三十代で一人親だった私には先生の授業は苦痛の時間だった。

それでも冒頭の一言は何故か深く心に残った。
それまで困ったことがあったら検索で乗りきってきたので人に助けてもらおうなんて思わないだろうとあの時は思った。

先週の木曜日、ちょうど十年目の3.11の日に社協に電話をしていた。

「私は娘の立場に当たります。きのう父が末期癌と診断されて手術も治療も入院も断られて自宅にいます。相談先が分からなかったので代表番号に掛けました。」

電話が繋がった瞬間に一息で喋り通した。口から一気に不安な気持ちが滑り落ちた。

電話に出てくださった職員の方は少し驚いた様子もありながらすぐに適切な相談窓口の連絡先を教えてくれた。

地域包括支援センターの連絡先だった。
番号を押して繋がった瞬間にまた一息で喋り落とした。状況を説明していく中で話を聞いて下さっている方が優秀な方だと直ぐに気がついた。不安で不安で仕方がないと初めて自分の気持ちを打ち明けた。

直ぐに家まで来てくれた。
このまま自宅で最期まで過ごすのか、ターミナルケアの病院に入るのか、父の話を聞きに来てくれた。

昨日大学病院で雑に余命宣告された父は自宅で過ごすことを選んだ。私は一人娘で一人親だ。母は三年前から意識不明で長期入院している。

大学病院の待合室で父の胸水検査が終わるのをカップコーヒーを飲みながら長い時間待っていた。
コーヒーが覚める頃には気持ちを決めていた。よし、私の家に連れて帰るぞ。自宅で看取ることをそのとき決めたのだ。

地域包括支援センターの方が家に来てくださったあとは流れるように自宅で看取りをする準備が進んだ。

訪問診療、訪問看護、在宅酸素はその日の内に手配をしてくださった。それまで父は要支援2で独居していた。移転の手続き、介護保険の見直し申請と細かいところまで教えてくれた。

この一週間、私は色々な人に助けていただいている。移転前の担当ケアマネさんもとても良い方で父が脳出血で要支援2になった時から十数年とお世話になってきた方だ。この方が父の体調変化に気が付いて入院させて下さらなかったら私は今でも父の咳をいつもの煙草の咳と思っていたことと思う。

また長期休業を許してくださった私の勤務先もとてもありがたい。同僚や上司、管理職の方からは暖かい言葉しか頂いていない。人が抜けたあとの大変さを自分が知っているだけに申し訳なさで一杯だが、今は有り難さに感謝することしかできない。

沢山の人の優しさを持って父はこれから天に行く。父の苦しさを私は隣で見届ける。

一つ決めたことがある。私は私を可哀想がらない。
苦しいのは父であって私ではない。

末期になるまで気が付かなかった怒りを私は自分の中で持ち続ける。父と同居をしないで自分の仕事で精一杯だった。母を管に繋ぐと決めたのも私だ。延命を選択したせいで母は三年間苦しみの中に閉じ込められている。

どれも自分の選択であり後悔であり怒りだ。怒りとともに生きていく。

それでいいと思っているし、それしかないと思っている。

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