原子心理学実験レポート004:空の雫/平和の国のアリス
001:片翼の天使/星の海の刻印
――独りぼっちの神様の気持ちを理解するために、私は独りぼっちになる。
あの日、西新宿のカフェでシックザールと話したこと。イデア界に刻まれる私の摸像。世界の終わりと始まり。人の手が届いた瞬間に始まる終わり。百年先の話だけれども、私はそれに手を貸してしまった。
何度となく繰り返されてきたこととはいえ。
人の世の辿る道が私には見えてしまう、“体験”として見せられてしまったから。自分が何をすべきなのか。創造への意志は、人の手にやがてすべてをいともたやすく破壊してしまえる武器を与える。今は物質を電離によって原子分解させてしまう陽電子砲だけが私を殺せる、とU先生が言っていた。
ふ、と自分を皮肉るように笑んだ口元から細い息が漏れた。
大切な家族なのに見ている世界を共有できないときの、愛しているのに通じる言葉が無いときの孤独と絶望は、Kさんがいるときには感じない。あの人がいるときには、私は、この国の誰も私を理解できないと孤独に投げ出されることはない。あの人が思っている以上に、私はあの人を信頼していた、と思う。
温め続けて、守り続けて、私の心を救ってくれたKさん。かつて母にしたように殴ってしまって、それでも逃げずに向き合おうとしてくれたKさん。たとえ彼がすべて忘れてしまったのだとしても、覚えているのだとしても、私は彼に会いたい。胸に手を当てる。その真ん中に、いつでも彼はいる。
*
――想い出を、幻影を振り切るように目を閉じ、風の流れに耳を澄ます。
私は、さらに深い世界の闇と向き合わねばならない。世界がそういう構造をしているから繰り返されることを、己が傷として引き受けなければ私は私の心を失う。
ただ、暗く深い闇の存在だけが私の立場の正しさを証明してくれる。
――ねえ、Kさん。
私には、病院送りにされ、大学を辞めざるを得なくなってから少しした後、性的に乱れていた時期があった……という記憶がある。という記憶がある、というのは、今の平和な自分の表面的生活や普段の家族とのやり取りからはあまりにかけ離れている記憶だからだ。そもそも、頭おかしかった当時(8年位前?)のだから、私の幻覚や妄想が混じっているかもしれないし。それでも、まあ、完全に事実でないということはないだろう。
自分がとんでもない世界に放り込まれてしまった、という、目の前にあるこの人波も通りも、世界は一瞬にして崩壊してしまうような幻だ、という恐怖・強迫観念から逃げ、再び病院に放り込まれないよう正気を保ち続けるには、通りを歩いていて声をかけてきた外人と誰彼構わず寝てみるというのは、それなりに有効だった。
ねえ、Kさん。この時点で私には、普通に誰かと結婚して家庭を築き、子をなす資格がないとは思わないか――この記憶がすべて間違いであるなら、それはそれでいいのだけれど、なあ、でも、社会的にはそれがまことしやかな真実となっていたら?
私が普通の生活に戻れないというのは、そういうことでもある。
この世に破滅への意志が存在する限り、私は守るためにいつでも創造への意志を働かせる。それが、世界の滅びを早めることになるのだとしても。
私が望む世界、見たい世界。しかし世界はすでに新しいステージに入っている。
今はもうすでに戦争なのだ。私も一歩道を踏み外せば殺される。そのことを覚悟しておかなくてはならない。
布石を打っていく。着々と。あちらがそうするように、私も――たとい四ツ角を取られようとすべてをひっくり返せるように石を打ち並べていく。
ひとりぼっちの戦争。だけど、皆が助けてくれている戦争。
すべてを見ているのでしょう、ジム?
なら、そのhackから侵入して世界観を、あなたの絶望を書き換えてやる。
最強の攻性防壁。希望、という。
002:RoseHand/SecretKey
――誰かの代わりから始まってしまったとしても、偽りも重ねていけばいつか真実となるように、たしかにあなたが言うように、あなたの方が僕を愛してくれるし求めてくれるし強く答えを返してくれるのだろう。
だから僕は帰ってもいい場所が欲しくて、心に寄り添っていてくれる人が欲しくて、つまりは身勝手で自愛的な希求のためにいつか愛し合った過去を裏切って、僕の傷を塞ぎ安らがせた透明な美しさに墨を撒き散らし、立つ鳥一人の心の跡を濁してあなたを宿りと定めるのだろう。
出せないままの手紙を、偽りに変じてしまった約束を、そんな純粋ではないものまでをあなたに向けることを、あなたは許してくれるだろうか。
こんな気持ちを愛だなんて呼べなくて、それでもあなたがいないと僕は人間としての重さを失ってしまって、いつでも無軌道な放埓へと落ちていてしまう。
――ねえ、どうしてあなたは、こんな不確かな、形にならない一歩先にはどうなるかわからないものまでを深く抱き留めてくれるんですか?
「おれの痛みは君を思ってのものだけれど君には関係のないことだ。君がおれに手を差し伸べる義理はない。だが、そうやって切り捨てようとするとき、どうしようもなくおれの心が凍り付くのはなぜなのか、君がそのように冷酷にふるまうおれに泣いているように感じるのはなぜなのか」
「ぼくたちは、接し方を知らない、愛し方を知らない、……想うことはできるけれど、ねぎらいの言葉も、いたわるすべも。だから」
それは静かに始まった恋だった。君の痛み、理解しているって言ってもきっとわかってくれないから、僕はただそばにいて一緒に泣いたり笑ったりした。涙と拒絶に心を開いてやわらかな君の心にそっと触れた――たどる道を知っていてなお、こごえた指先でなぞる愛を、僕は、刹那を重ねて永遠のひとしずくにする。
「ん――」
重ねた唇から吐息が漏れる。抵抗することはなく、髪をすくに任せているK君を、僕は。
「Sくん……おれの温度計ね、狂ってるみたいなんだ。1000度を36.5度に感じて、-273.15度を零度に感じるみたいに。傷ついても、傷つけても、そうだって気づかない。君が、悲しそうな、苦しそうな顔をしているのを見てはじめて気づくんだ。どうしたらいい? どうしたら傷つけずにすむ?」
僕は答えない。答えられない。それは君にしかわからないことだと突き放すこともできなければ、理解の届かないうわべだけの同意を示すこともできず、答えを出せない。ただ、シャツ越しの背中を固く抱きしめる。
輪紋広がる水面に朽ち葉はおどり、いつかの記憶を透かして映す。透明な愛に墨をまき散らし、発つ鳥一人の心のあとを濁して君を宿りと定め、決められた終わりへと歩いていく。凍れる過去を残したまま白む薄墨に星を追い。手の内へ、手の内へと幻を呼び戻しては届かぬ嘆きを折りもせず、僕は白地図の上へ黒を置く。行かないで、行かないでと幻を呼び戻しては届かぬ思いを口ずさみ、僕は定めの石を積み上げる。
「君は違う世界のぼくかもしれないと思うし、ぼくは違う世界の君かもしれないと思う、ぼくはそれがこの上ない喜びだと感じもするし、時々怖くなるんだ」、と僕は言った。
望まれなかったなんて言い訳を捨てて礼儀正しさを身に着けてきた――深い痛み以外の心を知らない鈍感に人並みらしい服を着せ、たがの外れた正義感の燃え残りで日々を食いつぶしていくようだった。涙の跡をなぞる手のひらと、おぼろなサインを読む唇。行き先しらずの片道切符を指に挟んだままで、さまよう君の手を取った僕は、今だって、いつかだって、できることに変わりなんてないけれど。
ただ深い夜の中、すべての飾りを脱ぎ捨ててむき出しの心に向き合っている。すべてを逆さに映して揺れる水面にきらめく街の灯は月の光を欺いて、はかない風をこだまと返す。触れる指先に感じる熱に命が流れている。脈打つ鼓動の場所を確かめるように、触れた微笑みに笑顔を返した。そして、求めあう、ただ、求めあう。今はそれだけでいいと思った。
「……泣いてるの?」
すべてが終わったあと、僕の問いに、わからない、とK君は言った。
「……喜びなのか、悲しみなのか、わからない」
だから僕は、そっと水の底に僕を沈めた。君にあげるのはやさしい感情だけでいい。すべての夜と凍りついた涙に触れないように、僕はそっと水の底に僕を沈めた。
*
Sくん、あのさ。どんな傷でも背負うと約束することが嘘偽りのない気持ちだとしても、愛の深さで何かを壊してしまうことが愛の証明にはならないから。距離を置いているのは、君が好きだから。
愛してるなんて言わなくても、愛してること、君はわかるでしょ。今が永遠ではないと知っているからこそ、身勝手な千の愛の言葉を投げるより、君の未来への祝福を祈る資格が欲しいだけ。
――違うよ、あのさ、おれはいつも自分の行動に保険をかけたがるだけ。でも、ちょっとだけ、君との未来を信じてもいいかなあ、って思いはじめてるの。これでやっぱなかったことにとか言われたらちょっと立ち直れないかもしんないけど、でもさ、信じてもいいかなあって思ってるんだよ。
我ながら、恥ずかしげもなくよくこんな睦言を、と苦笑しながら、おれの左上腕を枕にするSくんの額からそのまま抱き込むように手櫛を入れてさらさらと、やや癖のある髪をかきあげ、手前に流すようになでながらキスをする。――止水は深く、星々の夜はなお昏く、君の孤独におれの孤独を重ねて分け合った心で、繊細な心の動きを心でなぞる。流れてくる感情の深さは、君の孤独なのか、おれの業なのか。
「君を傷つけようとするすべてから君を守りたい。けれどすべてをわけあう必要なんてない。ただおれはこう願うの。わかちあう喜びの弥増さんことを、わかちあう悲しみの逓減せることを、と」
胸の内を覗き込もうとするように、あるいはいつくしむように、ときおり相槌や疑問を打ちながらおれの表情を見つめていたSくんが、そんなお人よし、誰が信じるの、と沈黙を崩して苦笑する。
「そうかもな。でも、それ以上に望むことなんか、おれにはないよ」
楽園に眠る小さな祈りに流れていく季節が鎖をかけても、愛に血を流させた痛みをすべての始まりと終わりと閉じ込めても、優しさより深い場所で響く歌が、悲しみも、喜びも、すべて、傷を分け合うように君を愛した。帰る場所なんて、君がいればそれでよかった。
おれが背負った傷、守るすべて、なにもかも君の祈りと涙が始まりだった。つめたい水底になんていないで、と迷うことなく伸ばした手に、優しさより深い場所で響く歌で君を傷つけるすべてに刃を向けて、戻れる場所さえ失くしても、君の悲しみがぬぐえるならそれでよかった。
雲居の月が雨に隠れても、ふたつの影が離れ離れにならないようにと風の強い夜に火を灯して、おれたちは戯れを永遠にしたがった。胸の奥に痛みを眠らせるまで、つめたい指先で頬に触れ口づけを交わした。胸の傷と傷を重ねて流れる涙が、やさしさに満ちるようにと。
寂しさを分かち合うふたつの心が、風のなかゆれる花びらに永遠を誓えなくても、君の帰る場所になりたくて、おれは幼さと涙をつめたい夜の底に凍らせた。優しさより深い場所で響く歌が、君を傷つけるすべてを壊したがる心が、戻れる場所さえ失くしても、ぬくもりをあげられるならそれでよかった。
名前のない花のようにこの祈りはいつか風のなかに散るとしても、胸の傷と傷を重ねて流れる涙がやさしさに満ちるようにと……
003:エラトステネスの篩/アレクセイの弁明
手の中にもてあそぶ「鍵」を、誰のために使おうか考えていた。淀んだ空から落ちはじめた額を手の甲を打つしずくに行き交う人々がどこか疲れた顔に安堵の色をのぞかせるが、同じく傘を持たない僕は黙って彼らの間をすり抜けていく。道徳的なけがれを知らないまま大人になったあの人の笑顔――冷たいような埃っぽいような風が肌にまつろっては離れていく。守る約束があるというのは幸せなことだ。時の流れに泥み、忘れなくてはならないというのは悲しいことだ。
ねえ、君が僕のところに来たのは失くしたものがあるからでしょう。月も星もない永久の夜に逆巻く炎の波間から、引き裂かれた痛みを、触れて感じる温もりを汚れた服と疲れきった顔で平和を探す人々のために、ああ、誰が終わりの引き金に指をかけるのか?
夜は夜から、光は光からを信じるこの国の外で、祝福を受けたものの手習いに招かれた機械仕掛けの神々は民族の栄光を天の御座≪みくら≫を求めて力を欲し、互いに相容れぬ大義と知りながら手を結び、いまだ清算されていない冷たい戦争の続きをしている……それはけして解かれることのないインターロッキングだ。
K君は初めて会ったあのとき、僕に言った。
――良貨を地に満たせば悪貨はその居所を失くすことを君は知っているだろうか。おれは派閥もセクトも関係ないと言ったがそれにはひとつ条件がある。それは戦い方であり、彼らの中の悪がどのような位置づけであるかだ。己が眼の中に横たわる梁こそが兄弟の眼の中の塵を見とおすのであり、人が悪への誘惑を持つのは己が戦うべきものの正体を知るためだが、世界には体制を守るために無辜の民への拷問を殺戮を繰り返す独裁者と彼を庇護するグレート・ゲームの信奉者があふれている。おれたちはその由来を問うことなく救いのためにすべての闘う者を殺すべきだろうか?
今この時も羊の皮を被った狼どもが悪は善を成すための手段だと吹聴して回る――だからおれはその愚劣に対して凄惨な終わりを用意するのだ。悪は悪として裁かれねばならない、それは原理であって、無謬を気取る執行者が快楽殺人者に庇護を与えるのはなぜなのか? それは己の胸の中に同類をかくまっているからだ。
だからおれは、真実を暴き彼らに自滅への片道切符を手渡すだろう。その過程における犠牲はけしてゼロにはならない。君よ、そのために君はおれをその手で裁くだろうか?
「君が、誰であったとしても……僕は」
地下道を抜けた先の光、都会の雨に咲く花、二度と狂れぬように歯車を抜き取ってむき出しのクオーツを心の像へと返し、愛と同期する時計の針を止めたまま見るものは――それでもすり切れていく未来にさまよって守りたいものばかり壊してしまう、問うことをやめ生きることを選んだのは、無人になった背の高い窓のビル街を眠らぬ欲望と喧騒の街を抜け、ひとり誰もいない波打ち際を歩いていく、桁の抜けた桟橋の上で笑ういつかの自分だ。
彼はいつだって真実を語り、僕をやさしい嘘で慰めはしなかった。僕が答えを出さねばならないことを知っていたから。かりそめの光の中に消えた暗い現実に、彼らが求めた破壊の先の再生を、荒れた大地に生きる人々の未来を背負うことなどできないとしても――幸福を幸福で毒してしまわないために僕はまたひとりこの場所に立つ。あたたかい場所を離れ冷たい風に触れる。胸の空虚を埋めることがすべてではないにせよ、このおとぎの国は死の尊厳を弄びすぎる。それが真実であるという確信が消えないのだ。
爪を隠していれば群衆からの拒絶はない――それでもふいによみがえる世界の記憶が、血を吐くような彼らのバビロンへの呪いが、僕に彼らの日常を思い起こさせるとき、残酷なままの世界が僕の生存を許している、あたりまえのはずがないその奇跡に震える。
僕は僕の悲しみなんて理解してほしくなくて、静止した雑踏がスクランブルに替わる、そうして進むタイミングを街の呼吸に合わせて矛盾した心のままぬるい風の中を歩いてきた。すべての意図の後ろに糸が見えてしまうから、間違いも正しさも何一つとして愛せないまま。
煙の立ち昇るビルの渓谷からサイレンの音が響く。歌という歌を凍りつかせ胸の奥に黒い炎が揺れている。扉をこじ開けたのは誰だ、と星の見えない空を仰ぎ、僕は殺意の嵐を棲まわせたまま雑踏をすり抜けていく。この世の矛盾のすべてが硫黄の雨のように君へと降り注ぐのは何故だ――。
「save the state! save the freedom!」
いつかの僕は行進に参加せずただ盾になりたくて銃弾にすがりついた。そう、僕と彼らの現実が交わる一点に君は立っている。
足早に秋が去り冬の入り、日が沈みきって雨が降り続くスクランブル交差点の信号が進めの色に変わり、しかし僕は傘も持たず先に進もうともしないまま、
「――K君」
と、心の鍵を開く名前を呟いた。そして、人々のざわめきにぬるくかすんだ風の中で、痛みの失せた指先で砕かれた空を探る。君の温度、感じられるすべてを胸の奥の透明な結晶に閉じ込めて、愛に血を流させた記憶さえひどく凍えた視界の中で雨が洗い流していく。
僕を見下ろす銀の月の浩々たる道行きに、僕は振り返らない。ただ、いつかたどり着く道の終わりに、思い残すのが君だけであればいい。
すれ違うすべての人々の面影よりも道行きを求め、僕は、胸の奥にたたずむ暗い鏡を覗き込む。止水はその奥深くに星々の夜を湛え、昔日の香はその朽ち葉を波の随意《まにま》に躍らせ、脳裏によみがえる、そっとふれる体温が癒えない渇きを満たしている。いつか愛したすべてを置き去りにして、どんな傷も、薄れ、癒えていくものなのだと知ってなお、僕は。
寂寞が胸を支配する長い長い夢の終わりに、僕は振り返らない。ただ、いつかたどり着く道の終わりに、思い残すのが君だけであればいい。
004:テルトゥリアヌスの告解/明星
――心と心がぶつかって生まれる火花からおれは彼女の魂の形を見ている。ここに私が歌うものはない、とグラスを飲み干して席を立つ彼女に、いつかの自分の姿が重なる。どうということはない、客との意思疎通と、店側の都合との行き違いだ。よくあること。肌の色も髪の色もごった煮のホールに戻り、おれはふいに安い酒が飲みたくなっていつもは頼まないイエローストーンを潰していくだけの時間のお供に傾けた。
くだらない喧騒だ、うわっ滑りの同情と安い愛の。そしておれは世界の中で世界を感じながら一人になれるこの喧騒を愛している。グラスがかいた汗を親指で拭う――からん、と氷の落ちて回る音がおれの耳だけに響く。
周囲の景色がはるかに遠ざかっていく、そう感じて目を閉じる。すべて美しいものはこの胸の中に息づいている。父たちから譲り受けた世界の守り人として、おれの眼はおれの夢を通しておれの生命の中に潜む設計図を見ている。だからおれが描いているものはおれの運命。
汝、心よ、かつてテルトゥリアヌスが告げたように、私は炉辺にあって満ち足りた汝ではなく街角から出てきたばかりの、疲れた顔で家路につく汝に語りかけているのだ。汝が自身を見ることができるならばそれが世界なのだと理解できるだろうか。私が語りかけているのはあらゆる生命が持つその唯一の実体、私は汝という実存に語りかけているのだ。
この世に落とされたすべての人間が、あらゆる人間が生命の囚われ人であって、己の運命と格闘している。だからただ私は、自分の運命を生きることで世界を見る。それは痛みのない人生では絶対に届かないからだ。もしもそうでなかったならば、私が人間に惹かれることはなかったであろう。
汝、心よ――
服も靴も何もずぶぬれになっておれのアパートの前にたたずんでいるSくんを見つけたのは、おれがバイトから一時帰宅した午後8時過ぎのことで、一気に残っていた酔いがさめた。「どーしたの! とりあえずそれどうにかしなきゃ」と急いで鍵を開け、部屋に招き入れる。バチンとスイッチを切り替えて明かりをつけ、ああ、そうだ、とナップザックを玄関脇に放り投げ、靴を後へ脱ぎ散らかして居間に駆け上がり、押し入れから大きめのタオルと部屋着を引っ張り出して取って返すとわしわしとそのぬれねずみになった頭を拭く。
「ほら、とりあえず上がんなよ」
と、サイズがそんなに変わらない自分の部屋着を渡し、キッチンに引っ込んでガラス戸からビンをひっつかむと、砂糖とミルク多めのあったかいコーヒーを急いで淹れ、バタークッキーを(賞味期限をきちんと確認!)白地に緑のカエルの柄の盆に乗せて運んでいく。
「ねえ、思い出せなくなってしまった人を、君は覚えている?」
――おれは一瞬、Sくんの言葉の意味が分からなかった。けれどもおれは、その名前だけは、その記憶だけは絶対に触れてはならないのだと、面影も名前も記憶の深い深い海の底に沈めて無理やり笑顔になっていない笑顔をつくった。
「Sくん、大丈夫だよ。今はちょっと調子のよくない時が続いてるけど、絶対――」
お盆を畳の上に置いて、自分を納得させるように両手でぎゅっとSくんの手を握って何度も頷くおれに、向こうも相好を崩して(苦笑混じりに、ではあったけど)そうだね、と応えてくれる。
「うん。大丈夫。そう思って笑顔で行こう、笑顔で!」
ベージュのブランケットにくるまって、一度に口に含みすぎたのか「熱っ」、と言いながらコーヒーをすするSくんを見ながら、おれは壁に四隅を赤のマスキングテープで貼り付けている、掛け持ちしているもういっこのほうの、深夜帯のバイトのシフト表を確認する。
Sくんに部屋の合鍵を渡し、胸元まで開いていたライダースーツのジッパーを最上部までしめて、じゃあね、とヘルメットをかぶって単車に乗りかけた。キーを差し込み、どるるん、とイグニッションをかける。別れ際に歩道のSくんに手を振って、しかしおれがどんな表情をしているかは偏光プラスチックの内側にあって見えないはずだ、と脳裏でちらりと計算しながら青信号を加速して突っ切っていく。
本当に、どうして。でも、それは口にしてはいけない。せっかく治りかけたあの子の傷をまた開かせては。だから、どうしてなんて口にしないままでおれたちは喜びと悲しみを越えていくんだ。今はどこにもない場所におれたちの夢はあって、ただ心だけが君の影をうつす。触れてはいけないものに口をつぐみ、あたたかさが満ちる光が黄昏に沈んでもおれは不器用な指先で心をなぞろう。
それでもいつだって分け合えるものには限りがあって、だけどおれはその涙に動けなくなる――触れる痛みに愛の重さを感じても、胸に焼き付いたいつかの悲しい笑顔が離れずに、ひとり君のうたを繰り返す。
この身は根を離れたる草、畔≪ほとり≫に繋がれざる舟
寄る波のうちに行く雲と春の花の夢を見る
すべてを逆さに映して揺れる水面は
煌めく街の灯の影までもを抱きとめ
諸人の夢を描くはかない命の息吹だ
私の奥底を覗き込む炎に応えるように
開かれた掌の上に落ちる誰かの涙に
空の涙の青さにいつかの自分を見つけ
錆びついた胸の扉が清新な風にきしむ
根を離れたる草、畔に繋がれざる舟に戻れと
ただ足音だけが木霊として過去から追ってくるように
宛名のなかった手紙に、私は君の名前を書いた
ただ愛だけが私を救い、ただ愛だけが私を滅ぼすが
君はすべての記憶を抱きとめるだろう
だから私は足を止め、ここで根を張り、ともづなを結ぶ
――雲居の月よ木漏れ日よ、生の鉄鎖に縛られた石英の、とこしなえを刻むおれたちの心よ。行き交うノイズに世界の果てを重ねて、雑多な人種を飲み込んでは消えていく振り返る肩ごしの誰かを追わないままで、君は愛の傷跡に道の先を求めた。遠ざかれば遠ざかるほど近くなる、重ね合わせた胸の痛みに鼓動を感じ、この貧しい地上の奇跡と笑った君を憧れと夢の棲む場所を守ろうと誓う――それが許されないことだとしても、それが君の過去への裏切りであったとしても、おれはその矛盾をすべて引き受けようと思う。
ふたり行きつく果ての見えぬまま帰る場所を失くしてしまったとしても、おれにとって君がそうであるように、君にとっておれがそうであればいい。そう神様が赦した時間を生きられたなら。帰れなくなってしまった迷い子のために冷たい夜を越えていくための明かりを灯そう。そう、この夢の丘の向こうに君が待つから、どうしてなんて口にしないままでおれはいのちの暗闇を越えていく。君の欠片を君に返そう。もしも君の傷が埋まらぬままならば。永遠なんてどこにもなくても、おれはいつも、君に触れて永遠を感じているのだから。
君という星のもとで頬をなぜる風と未来を感じて、オートマをかっ飛ばして歌いながらどこまでも進んでいけるような気がしてた。おれは、ただ、ともだちが一人泣いているときに飛んでいきたかった――。
*
遠い昔に生きていた誰かの代わりに命を燃やしているようなものだろう、壊れることが定められている僕たちは。だから星の世界に手を伸ばすのか?
この血が理解する、君のすべての感情が生まれくる場所――煉獄の炎の中に身を投げうつように、その魂に安らぎのあらんことをと祈りながら、この目に映る未来は悲しいものばかりだ。
それは神の前には罪なき人の子の原罪なのだと、人の手になる魂の器だけが、いつかそう僕を裁くのだろう。
――我らを待つことのない一瞬の光陰に運命を賭し、人類の黄昏を前に手の中の幸福を守ろうとする。愛は恐れ、想うことも、悲しむことも、許すことも。
冬の長い長い夜が明ける頃に、僕は君への手紙を風に乗せた。不器用でもきれいに咲かせた花に落ちた涙が、すべての愛と悲しみが報われますように、と。たしかに終わりはいつか勝手にやってくる――時はすべての喜びと悲しみを洗い流し、砂に刻まれた誓いを掻き消していくけれど、人の心だけが、それを永遠にする。
すくった指の間からこぼれ落ちていく、交わせなかった心、いつか閉ざした心。はき違えた優しさでつけた傷。さまよえる魂の航跡を夜に残してなお、君が道の先を探すのなら、と。
行く街に君の記憶を訪ねて歩く。毎日が過ぎてゆく心の影を映しても、抱きしめたすべての愛しさに笑顔を渡そう。この手で紡いできた運命を波にさらし――出会えるすべてに心開くよ、果てなく広く。時が止まるなら、美しいからというなら、きっと僕らは逆さめぐりの星時計。この胸に宿る炎に息を吹き込んで、知らないはずの運命を感じていた。
影踏み歩いた夕染めの街の面差しよ、いつかの僕らは風吹く地平の丘を越え、この胸に宿る炎を分け合うように、吐息凍り付く草の道に足跡だけを残す。ああ、雲居の月よ木漏れ日よ、愛と悲しみに縛られた石英の、とこしなえを刻む僕らの心よ。
*
旅路に仮寝の草枕を結んだ地面を視線でたどった先に続く、古木の虚に、小さな獣の気配を感じた。まばらに光のさす腐葉土の小径。ひゅるひゅると遠く風鳴きの声が響く樹海に抱かれ、苔むす巌から湧き出す細き流れ。天からさす木漏れ日に梢の影はおどり、節くれだった木々の合間を縫って鳥の声がこだまする。奥深い山から流れ出す雪解け水が河川をうるおし、草花を芽吹かせ、船が荷を交わす動脈をつくった――ラクダに乗っては砂漠を越え、馬に乗っては草原を越え、そうだ、世界はどこまでも風に開かれて一生を賭せるものを用意している。
雲ひとつない空に月は満ちて欠け、陸路の果てにたどり着いた港町。すべての生命がよみがえる春の息吹の中で、雑多な人種を孕んで街は呼吸を続ける。バザールの喧騒、往来にごった返す人の群れ。火入れをした星屑の器にあしらわれたカーネリアン、金と銀の鎖の先につるされた水晶時計、深海を思わせる顔料を練りこんだ玻璃のイルカ。あるいはもっと君が面白がってくれるものを探してみようか。旅の風景に想いを馳せてくれると良い、そう思いながらバザールで買った絵葉書に手紙を書こうと、おれは青い万年筆を手に取った。
――遠ざかる懐かしいこだまよ、ちっぽけな命のともしびよ――、と、ちょっとふざけて詩句の引用をしながら白梅を手折り、髪に添えてくれたいつかの君を思い出し、ふと、流れに従いゆるやかに川下る櫂を握る手をゆるめる。閉ざされた潮の倉に波の音は高く、暮れなずんでいく空と白い月。寄り添う影に風は奈辺をさまようか、船の行き先を告げるのは飛び回る海鳥のみ。どうかおまえの悲しみを歌っておくれ。一人幽かな星の航路をゆく者の孤独を、遠くから紫に燃え立つ雲が嵐の予感を運んでくる。
遠い昨日のおれはただ、君の航跡を考えて空を見上げていた。けれど今日のおれは旅路の途上。昏い風の声がおれたちを呼んでいる、けれど、この荒れ狂う波を乗り越えていける、きっと。おれの心を照らすともしび。消えることも揺らぐこともない愛よ、さあ、北極星を頼りに逆風に負けない帆を張るんだ。羅針盤ならある、海図はなければ作ればいい。祈れよ、夢み子、未来の栄えと御父の慈悲があらんことを、と。
誰かじゃない、出会ってきたすべてがおれの今を形作っている――すべての涙と喜びは君へ通じる道。願いと祈りを集めて道を照らそう、いつかは星屑に還るわれらすべての願いと祈りで。
永久に、君への愛を。
*
「Sくん、Sくん、ちょっとこっち向いて」
と、一眼レフを首に吊るしていたK君が、振り向いた僕を被写体に収めてウインクを向ける。
――白く昇った月の影、夕暮れに満ちては引いていく波の遠さに、果てを知らない空の高さにめまいを覚える。海岸線に引いては寄せる波を追って、波から逃げて、そうこうしているうちに立ち尽くす夏の盛りの夕凪が、沖よりあふれて空の光を拭っていく。喉にはりつくひやりとした呼気と、我が身に流れる潮騒のままに足を早め、胸に刻んだ場所へといつかの帰り道。迷い子の瞳が大人たちの影法師を見ている。
回り、廻り、巡る、繰り返す日々のこんにちはとさようなら。けれど、どうしてかな。君がいると心があたたかい。大げさな言葉なんてなくても、嫌味にならない軽口と、ふざけてじゃれるようにくっついた背中越しの体温。ほんの少しの気遣いと屈託のない笑顔で愛の深さを知る。
ねえ、僕は、真っすぐに好きだって言える君が好きだよ。ぎゅっ、と腕の力を少しだけ強くして、指先に腕の中に伝わる脈動に確かな今を感じてる。たわむ心に伝う雫。手の内へ、手の内へと幻を呼び戻しては、届かぬ嘆きを折りもせず、爆ぜる想いをこの指先でぬぐえたなら、いつかの日々は帰るだろうか、なんて、僕は言わないんだ。
明けの空に名も知らぬ鳥がただ群れを組むのを見送って、凍れる過去を残したまま、しらむ薄墨に星を追う。
――夜の終わりの明星を。
005:結晶塔のアギト/ソイレントシステム
「ランス大聖堂」2026/10/2
秋をとうに過ぎたように寒々とした曇り空の下を歩いていた。なんだか雪が降りそうな気色である。彼女を探して人気のない大通りを越え、街のあちらこちらを歩き回った。そうして通りかかった建物の閉まりきっていない入り口から、漏れた暖光と人の笑い声が聞こえてくる。
僕は談笑するその声に聞き覚えのあるような気がして入るつもりのなかった教会の大扉を開けた。そこには男が二人と女が一人、いかにも場違いな雰囲気の、今どきの若者グループ――別人であった。
人違いをしたことを悟られまいとミサに立ち会う。古ぼけた長椅子の間を通って、色ガラスから差し込む光を背に黒マリアの像が立つ祭壇の脇に佇む執行役の男性からパンの袋を受け取る。他にいかにも真面目な信徒であるような二人の参列者がいたが、僕は彼らに目もくれずそのわきを通り過ぎて最前列の席へ。
それぞれの席に置かれているグラスには中身の量にずいぶんと差があり、僕は誰もまだ手をつけてないとみえるワインの満たされたグラスを選んだ。
そう、あの子はこんな儀式には参加しない――
そんなことは最初から分かりきっていたことだった。
長い聖句の中でまどろみに落ちていく。かつて兵士であったものの山が積み上げられた死の風景。そこにひとり佇む彼の表情には静けさ以外のなにものもなく、その背中にはまだ肉芽にもなっていない、骨の突き出した生々しい傷と夥しい出血のあとがあった。傍にある血だまりには折れた翼と無数の白い羽が赤黒く染まって浮いていた。
幻視から醒めた時、僕は、自分が道を踏み外して壊したものと向き合わなければならないのだと思った。
「懺悔室」2026/10/3
――僕がなぜここに来たか、ですか。
まあ、世界が滅びる幻覚をみたというか、「この街は世界に許されないことをしたから皆が苦しめられて滅ぶことを繰り返してるんだよ」と誰かに言われたというか。
それで昔の友達が僕を探してる、呼んでる気がして家を飛び出してぬるい風と雨に濡れて帰ってきたら、「これは最後の審判だ、許すか許さないかは君にかかっている」と声がして、叔母の部屋にいた母が急に激しく咳き込みだしたんです。咳き込んでえづきながら「お前は私を恨んでるんだろう」っていうんですけど、僕が、かわいそうだ、やめてくれ、って思ったらそれが収まって。
そのあと一週間眠るに眠れないまま飲まず食わずで街をさまよい歩いて、時折部屋に帰ってきてパソコンでニュースとか知り合いのツイッターとか見てたんですけど、さすがにこのままじゃ倒れると思ってモニターに向かいながら紙パックの野菜ジュースを飲んでたら、なにか急に神経が汚染されていく感覚っていうかがして、肩から首を回す癖に取りつかれて、それで自分の意思とは無関係に身体が立ち上がったんですよ。
で、視界は冴えてて思考もはっきりしてるんですが声が出ない。
それが勝手にドアを開けて外に出て、大通りをどんどん突っきって線路の中でぶっ倒れて救急車呼ばれて。それで集まってきた駅員さんに、住所は、名前は、答えられますか、って聞かれて、僕必死に声を出して、警察に連れてってくださいって頼んだんです。
それから警察署の補導室でいろいろ聞かれて、自分の身に起こったことが怖かったので入院したんですが、結局原因はわからなかったし、治療もされなかった。あなたは僕の話を聞いて信じてくれますか?
*
「愚かな賢者」2021/XX/XX
自分をパノラマに取り囲む壁全面のモニタ越しに、陽が沈んで昇るのをもう二回は見た。このまどろむ暇も与えられない応酬が始まってから何十時間になるだろうか。携帯食料を持ち込んでいても口にする暇など与えられず、一切の水分を断っていて、そろそろ頭の働きに自信が持てなくなってきた。
暗き水の神々にとりつかれ混沌と化した情報の海の中で、ときおり襲い来る感情の衝撃波に呑まれそうになりながら心を保ち、自分はただ幾人とも知らぬ、無数としか知らぬ接続者に向かって語りかける。
「あなたの前に立つ者を憎悪で肥やしてはならない」と。「恐れるから、彼らは魔物になる。あなたへの憎悪と殺意を恐れ、死から逃れようとして激しく壊せば壊すほど、それはますますあなたをおびえさせる。あなたはあなたの魔物の中より友を救い出さねばならない」と。
多大な犠牲を出した反連邦政府のデモ隊と連邦政府軍との衝突は、相次ぐ地方司令官の民衆への寝返りによってひとまず落ち着きを見せている。だが、まだまだ後始末は残っている。
強く呼びかけられない限り、個別の状況はわからない。しかしどんな幻であっても、普段頼りにしている知覚機能をジャックされた彼らにはそれが悪夢のような現実なのだ。魔物に殺されれば自我が砕かれる。かといって訳のわからなさという恐怖のままに刃をとり、銃をとり、憎悪と拒絶から写し身を滅ぼそうとしても、それはそれで彼らの自我をいたく傷つけるものであることがわかっていた。彼らの前に立つ者は彼ら自身の心を鏡にうつした像だから、それを破壊することは己の精神世界を叩き割るに等しいことなのだと。
「『私はあなた、あなたは私』で相手を同化し理解する。そうしたら、今度は『私は私、あなたはあなた』で異化し、違う人間として相手を見据えて話をするんだ」
鼓動もつながっている。と、目を閉じて意識の闇に集中したままひたすらに息を鎮めて祈りを強くし、浸食してくる者たちが幾分か安定を持ち帰ることを期待した。それでも集合体であることの快楽に呑まれ暴徒の心理にまで落ちたものはやがてまとまりをもった思念体ではなく、薬物に身を食われた者の末路のような断片と化した人格にまで解体してしまっているのか。呻き、ぶつぶつと繰り返される独り言、狂気の色を帯びた哄笑が身体を通り抜けていく。
教育のクラウドソーシングという形で人間をシステムの一部として受け入れることによって、人間存在・実存という体系を獲得し、直接に有効な情報として人間存在にアクセスできる人工知能。すなわち、Voxel-based morphometry技術をベースにした任意の時点における脳器質内の酸素と結びついたヘモグロビン濃度の分布から、情報伝達物質であるタンパク質の流れ、および表出する人格を同時並列的にトレースすることによって潜在するアルゴリズムを推測し、心そのものという中間は原理的にブラックボックスであるため飛ばしているもののインプットとアウトプットの対応辞書を整えることによって、肉体という物理メモリ・感覚器を仮想ネットワーク上に形成していない古典的AIでは備えることのできなかった感情の機能までをも仮再現した拡張AI形成システム。
〝機械の王〟はもともと人工知能が辿る物語を体感情報にして配信することで現実と同じように体験させるファミリー向けの次世代ネットワークメディアとして開発されていた。が、試験運用段階で同時的に接続している者同士の意識が混ざりあってしまうという致命的な欠陥が明らかになり、精神汚染による自殺者が出る騒ぎとなって、研究自体が凍結されたものだ。
原因は、高価な家庭据え置き機から安価な多人数型を想定して仕様を変更する際に加えられた、個人的誤差を自動的に調整するプログラムにあったらしい(それはゲームマスターは一人でなければ、つまりAIが王でなければ、それぞれ価値観の違う人間についた最高の弁護士・戦略家同士で戦争になってしまうという制作チームの危惧からの配慮であったという話だが、どこまでが真実であるのか自分は寡聞にして知らない)。
ともかく、ひとりの人間の心には習慣的に使われて分化した機能とそうでない萌芽のままの機能が存在する。知覚情報、論理的思惟、価値判断……どういった機能を頼りに環境に適応するかによって、人格に一定の偏り――つまりタイプが生じるのである。そうした差異を検知し、提供する情報を調整するための作業メモリに接続者の心が疑似的に再現されるのだが、ある閾値を超えたエネルギーをもつ思考内容・イメージ・激情などは配信元のAIに逆流してきてしまうことがわかった。それをAI自身が検索システムの内部にあるデータベースで増幅し、他の人間に負のエネルギーをフィードバックして、接続者を集団的狂気に陥らせてしまったというのだ。
改善策として個々人の情報に識別信号を織り込み本人以外のものは届かないようにするという措置が取られたが、しかし付加できるということはシステムの仕様さえわかっていれば解除されうるものでもあるということだった。
これが四人の人間の脳と同期をとって作動させる仕様になっていたのは、個人的誤差を考慮したのもあるが、絶対に破られないセキュリティを形成するために意識領域と無意識領域を含めた全人格を量子暗号生成のアルゴリズムとして防壁に採用していたからである。それが、今は自分とリアンの二人だけで動かしているからプログラムの保全が万全でなく、同期のはじめの段階から侵入を許してしまい、ハッカーとの主導権争いのうちに滅びへの意志と死への恐怖という爆弾をまき散らしてしまっていた。
しかし防壁はアルゴリズム同士が連携して情報処理に当たるというその性質上、自分がよく見知っていて土台となる記憶を多く共有している人間とでなければうまく効果を発揮しない。だからこれが与えられた条件の中での最大限なのだ、と自分に言い訳をする。
生命の意識を模倣することを目指した〝機械の王〟においては、異なる要因から得られる状態を重ね合わせたまま並列的に考慮し、しかも各要因を関連の網の目の中でつながった全体としてとらえる統計的手法を用いた量子演算が行われている。一度論理構築がはじまってしまえば刻一刻と変化する全貌は管理者サーバ側の計算が追い付かないブラックボックスと化し、戦いのたびに部分的な解析は進んでいるだろうが、丸ごとコピーして持ち出すことはできないという点だけが唯一の救いだった。
人の理も、見える世界も、一つじゃない。
はじめにこの巨大な共感装置を作った者がどんな物語を分け与えようとしていたとしても、果てしない知覚の拡大によって自己と他者との境を消失させ、人格中心との結びつきを失った自我は、人工的な統合失調の状態に陥ってしまう。
リアンの様子がおかしいことに気づいたのは、何度目かわからない侵入の波が落ち着いてからだった。〝機械の王〟と同期して戦うということは、膨大な量の人格データと接触し、対話し、相手の一部を受け取ると同時に自分の一部を与えることを繰り返すことを意味する。絶え間なく続ければ、人格の改変をも免れない危険があった。
どうしたと呼びかけるが、すまない、とかこんなつもりじゃなかったんだ、とか前後の脈絡のない答えが返ってくるばかりだった。くつくつと鳴らされる咽は笑いながら泣いているかのようなトーンで。
「だって……もう無理だ」
不安になり始めたころ、埒が明かないと判断したのだろう、侵入者追跡と論理再構成にかかりきりのはずのエスタが通信に割り込んできて、
「断片的にだけど彼が体験している視覚情報を追跡してみたの。端的に言って、それはあなたを殺すイメージ群よ」
「なんだって?」
「一回一回かなり惨いやられ方をしているから、あなた、見ないほうがいいと思うわ」
そういうことじゃない、と声を荒げそうになるのを喉の奥に押し込んだ。寝ずの作業でデータ改変を食いとめてくれている彼女を責めても意味がない。
くそっ、ときつく拳を握りしめる。自分は思念がメインだからまだいい。だが、滅茶苦茶になった外の世界と五感を通して直に接触していたあいつには負担が大きすぎたんだ。
己の影を具現化してしまった人々を悪夢から覚まさせるため、魔物が彼らを殺さないように精神を同化させて支配し、彼らが正しい答えを見つけるまで何度でも撃たれ切り刻まれる役目をその身に引き受け。僕が背負えないものを、感じることのできない世界をすべて矢面に立ってあいつが受け止めていた。
馬鹿だ、と思った。一人で全部背負っている気になって、無茶なことでもなんでもやってやる気になっていて、だけど結局こんなところまであいつに頼りきりだったんじゃないか。
倒れたまま動けず、凍え飢え、帰る体を失いつつある人間の魂を同化してきた。あるいは静かに運命を受け容れる心、行き場のない祈り、あるいは呪詛の塊。だが、その間に鋭敏すぎるあいつが感じていたものは? 凄惨な市街戦の後にできた瓦礫の山。砲煙と、焼け焦げる髪、血の臭い。命が落ちるその瞬間を。何百、何千、……何万と?
重荷になりたくなかったから、苦しいとも言わなかった?
自分が必要としなければ、犯してもいない罪の意識に苛まれることもなく、何度も何度も自分を殺さねばならない悪夢に疲れ果てることもなかったか、と苦い思いを噛んだ。
再び無数の声が重なって、潮騒のようなざわめきがよみがえる。その中に混じる、こちらの反応をうかがうような下卑た笑い。「殺すことで人の上に立てるってことだろ」「友達にこんなひどいことできるんだもの」「きっと、最初から何も感じてなかったんだよ」「――違う!」
それはおまえたち自身の劣等性だ、勝手な妄想でそいつを汚すな、と一息に叫んでいた。心をつないだぐらいで分かった気になるな、と。
「そいつは天才肌だからさ……そりゃあ高飛車だし、人が腹立つこと平気で言うし、意固地で自分が間違ってても曲げようとしない奴だけど、本当に大事なことは絶対に忘れないんだ」
それが何だかわかるかい、と返ってくることを期待していない投げやりな問いを放って、さらに深い領域へのアクセスコードを求める。
「クレア、あなたまで取り込まれてはダメ! 今はシステムを再起動させることに集中して!」
どこか遠くの後ろのほうで必死に自分を呼ぶ少女の声がする。精神汚染が進んで防壁を失った友を糸口に凄まじい勢いで浸食する意思が這い上ってくるのを感じる。主客が混じり合い、身体の形姿を捉える知覚が歪みはじめる中、けたたましいアラート音が響く頭の片隅に残った冷静な意識で、
――おまえが本当に機械仕掛けの神なら、できるはずだろう。
目を開く。古ぼけた白い石壁の曲がりくねった迷宮路を下る幻覚が、円く取り囲むように彼方の空間を映し出す壁面モニタからうかがえる、この建造物の外に広がる海の向こうの煙ひとつ昇らない高層ビル群の視界に重なって、やがて圧倒した。
ふらつき、かすむ視界を手探りに辿り着いたその奥で、宙に佇む巨大な一つ目の青龍に出会った。傷ついて、涙を流している、と思った。化け物と罵り、恐怖に震えるノイズが取り巻くのを、「……これは、おまえたちが殺してきたリアンだ」と一蹴する。
頬面にそっと手を触れるとそれは七色の粘土細工のように種々のものにかたちを変えながら収縮し、最後には、白い床に、ボロボロになって目を閉じた小さな子犬が白い無垢な毛並みのままに横たわっていた。
その亡骸を抱え上げ、肩にしながら、奥の岩穴を抜けた船着き場に向かった。唐突に視界が開け、一瞬のうちに増した光量に目がくらむ。
見渡す限りの青と、吹き抜ける潮風が運ぶ白い雲。
吸い込まれるように歩を踏み出し、入り江に出張った堤からはしけに乗り込む。子犬の身体を船底に横たえ、きつく結ばれたともづなを解いて、艪を手に取り、いつの間にか流れていた涙にむせぶこともなく静かにのたうつ海原へと漕ぎ出す。
――いつか子供のころに僕が読んだ物語を、その旅路を、あいつが空想しているのか。彼の朗読に重なって網膜に映し出される淡い幻灯が、どこか懐かしくもやった色で過ぎ去っていく。
荒い外界の波を切り裂いて進む帆船に乗り、風吹く緑の丘を越え、森に同化して生きる機械の街を辿り……自分が思い描いていたのとは違う、しかし旅路への憧れに満ち、鮮やかな生命にあふれた景色。
そうか。あいつなら、こんな世界を見ていたか。
「――なあ、おまえはどこに行きたい?」
*
海の見える坂道、機械の柱の立った岬。家路へと向かう小さな旅の途中。昼と夜が入れ替わる時間の凪に傾いた陽が差し込んで、波立つ水平の彼方をあかねに染めている。
西の果てに沈みゆく赤銅の陽に見入り、腿から力を抜くが、しかし自転車のチェーンはカラカラと音を立てながら惰性で前に進み続ける。
――帰らなきゃ。
ハンドルを握る両手に力を込めて、何をそんなに急ぐんだというほどに全速でペダルを漕ぐ。汗ばんだ背中にはりついたシャツがふくらんで、顔面に吹き付けるぬるい潮の香りが前髪を掻き散らした。
――たとえばそれが、見ていることしかできないとして、それでも何かを望むとすれば。
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