原子心理学実験レポート003:機械の王
――あの日、僕が世界から消えたあの日。
海の見える坂道、機械の柱の立った岬……昔、小さな旅の途中で見た風景。何度も何度も繰り返して見た風景。墓石のようなオベリスク。
暗雲と、暴風と、海を渡る飛行機と。全てを拒絶しようとしたバベルの塔。
ありふれた冒険の終わりに空は闇に包まれ、天を貫く虹の柱は解き放たれて、世界は変革の時を迎える。変化を免れない生物と、人類すべてを無限の円環の中に閉じ込める――。
闘う理由があるなら躊躇うな、と遠くで誰かの声がする。震える照門に定まらない照星。熱くて冷たい何かが激しく胸を掻き乱す。それでも引き金を絞る指は止まらなかった。
さよなら、と。乾いた音が響く。
左手に拳銃を握りしめたまま、深く息を吐きながら、右手で肩を抱く。いつの間にか呼吸が荒くなっていた。目の前には、塵ひとつない室内に整然と並べられた薄い機械の箱の列と、それを透かし見せる光学スクリーンが更新されてゆく情報を流し続ける下の、金属デスクの脚に首をあずけてだらりと力なく座りこんだ白衣の男。弾丸はその額を正確に貫いていて、ただ、伝い落ちる血潮にぼやけた白色が少しずつ赤くにじんでゆくさまを凝視していた。
――これで、もう後戻りはできない。武器を放り、硬質な音が滑ってゆくのに踵を返して駆け出す。
たとえばそれが、見ていることしかできないとして、それでも何かを望むとすれば。
あの日、僕が世界から消えたあの日。
001:Frozen Green
深く生い茂る原生林の海が途切れて、唐突に開けた窪地があらわれる。剥き出しになった岩塊と、錆びて落ちた何か建物の残骸と、翼の骨組みのように空に向かって手を伸ばす鉄の柱。横足を平行にそろえてブレーキをかけながら土埃を舞わせ斜面を下りてみると、その場所は見通しが悪かった。
短くはねた夕暮の空に近い髪の色と、深紅の瞳。皮革のブーツに枯れ草色の防塵マントをまとった少年は、静かに目を閉じて周囲の気配をさぐった。見渡すかぎりにえぐられた岩盤の迷路で、大気そのものに神経をつなげ〝それ〟を探す。
(――存在が、近いのか)
確かに得られた手応えにさらに深く集中しようとすると、おかしなノイズが入った。誰かの話し声が聞こえる。こんなところに人が、と思う暇はなかった。横手から現れた黒い残像を身をひねってかわし、あっ、と声が聞こえた時にはもう遅い。次の瞬間、少年は現れたもう一つの何かと側面衝突し、肩から強かに地面に叩きつけられた。
「っ痛ぅー…ご、ごめん、君、大丈夫?」
いきなり派手にぶつかってきたその人は、尻もちをついた姿勢からあわてて膝立ちになってにじり寄りながら、脇に変な機械人形を連れていた。頭をさすり、なんとか、と言って起き上がろうとすると、目の前、というかすぐ鼻先に顔がある。
きれいな翡翠の瞳が、こちらを見ていた。
木々の緑と当間隔をあけて立ち並ぶ、四つ脚にねずみ返しの付いた高床式の家々。その間に時折、苔に覆われた、もとは鈍色や錆色であったであろう機械タンクとおぼしきものが見える。そして洗い物の水桶が出しっぱなしになっていたり、タンクからタンクへと伝う細いパイプダクトが物干し竿代わりになっていたりと、高度な文明に包まれているはずなのに妙に生活臭を感じる。
自分のように外から来た人間なら少なからず驚きをおぼえずにはいられないだろうとは思うが、ここに暮らす人々にとってはこれが当たり前の風景なのか。
「おねえさんは、何で機械を作っているの?」
少年は、ふと訊ねてみた。
彼女の家まで案内されて、その辺にあるものを好きに使っていいと言われたので、電気ポットから淹れたお茶のカップを渡し、自分ももう一つのカップを口元に運んだ。彼女はありがと、と受け取ってそのまま作業に戻る。
――なんというか、雑多なところだな、と思った。
部屋の中には何に使うのかよくわからない部品が散乱し、床の上には黒く太いコードが何本も這って、そのすべてが集中する先には今現在彼女が向かっている鉄の塊があった。
「ある人はなぜ山に行くのか聞かれて、そこに山があるからだと答えたそうだけど……」
なにやら工具を片手にしながら唐突に話しはじめる。
「私の場合はさしずめ、そこに謎があるから、でしょうね」
言われて、さっきの続きだと少年は思い当った。
「謎?」
「そう。この子だって、何も一から全てを私が創ったわけじゃないのよ。壊れたパーツ、欠けてしまったパーツ、そんなものをあちこちから集めて、分解して、整備して……あれは駄目だな、これは使えるかな、って思いながらひとつの形にしていくの。だから部品そのものを製造することはできないし、本当のところはこれが何で動いているのかわかっていない」
でもね、と彼女はとびきりの笑顔を少年に向けた。
「始めから全部わかっていたら、そんなの面白くもなんともないわ。いつかこの謎を自分で解いてやるんだ、って、いつもそう思ってる」
調整のためにバラバラに分かたれた目の前の鉄塊を、愛おしそうに撫でながら言う。
「ここに確かに存在するのに、正体はわからない。素敵だと思わない?」
少年は頷いた。
「うん。なんだかとても楽しそうだ。おねえさんならきっと解けると思うよ。その謎を解いたら、次はどうする?」
その反応が予想外だったのか、
「……えっ? うーん、そうね。そうしたら、また次の謎に挑戦するわ。わからない事、知りたい事なんてこの世に山ほどあるし。生きてるうちに謎が無くなる、なんて私が心配する必要はなさそうよ」
と、彼女は肩をすくめておどけたように言って笑う。
「でも、あなた変わってる。だって、私のことを変だって言わないもの」
少年は、話の間にすでに空になっていたカップを、脚の長いちいさな円机に置いた。
「おねえさんは自分が変わっていると思うの?」
「まあ、かなり……奇妙な部類に入ると自負してるわ」
少し複雑な顔で、その人は答えた。
彼の半身がこの地にあるのは間違いない。だが、反応が微弱にしか感じられないのはどうしたことか。
(まだ、目覚めの時が遠いということか――)
少年は、慣れた手つきで機械人形を扱う少女を視界の端に捉えながら、深みへと意識を延ばし、さらに範囲を広げて空間を走査する。
――と、再びノイズが走った。
星の大海に黒いインクを一滴落としたような、光を呑み込む黒い影。
「……来る」
少年は顔を振り上げた。どうしたの、という声とほぼ同時に、外から何か大きなものが羽ばたくようなくぐもった音が聞こえた。椅子から立ち上がり、段を飛ばして表に降り立つと、見上げればそこには血の色よりも深く紅い異形の生物が開けた樹海の空を旋回していた。
大きな一つ目の、翼をもった蛇のようなそれは、ぎょろりと周囲を睨みまわしながら――概観して二十尺は下らないであろうか――少年の背丈など物ともせぬというように家々の屋根をかすめて飛んでいる。広がる翼が陽の光を遮り、歪な十字の影を地に運ぶ。
「な――何事?」
少年の後を追ってきた亜麻色の髪の少女は、何かを言おうとして、しかしそれ以上何も出ないほど驚いて口を開けている。下がって、と声をかけるが、怪物を凝視したまま動かない。仕方がないのでその肩をつかんでまわれ右をさせ、
「ここはオレに任せて、早く!」
でも、と留まろうとするその人を半ば突き飛ばすように押し出した。
「人がいたら、離れるように言って!」
どこか安全なところへ、という指示に彼女はようやく頷いて走り出す。それを見届けると少年も逆方向に通りを駆け抜けて、敵を開けた場所まで誘導する。
「ヨミ……またお前の力を貸してもらうぞ」
じゃっ、と地面を踏みつけ背後へ返り、鋭い眼光で異形の者を睨めば、その手に一振りの太刀を携える。傍から見れば何もない空間から現れたそれは、振るう者の身の丈とほぼ変わりがない。
赤熱にゆらめく刀身。やがて冷えて、白銀の様を呈する。名を、炎と夜の剣という。
――構えると同時に大蛇が突っ込んでくる。それを、躊躇うことなく踏み込んで気合とともに払った。軌道に乗った刃が細い牙の並ぶ口蓋に吸い込まれ、少年の身体ごと転回させた一撃と自身の勢いによって顎からすっぱりと真っ二つにされた大蛇は、わずかに痙攣しながら辺りに体液を撒き散らし、巨躯で地面を叩いた。轟音と余波に木々が揺れ、鳥が一斉に飛び立つ。そうして引き裂かれた深紅の体内から流れ出した血には、しかし色がなかった。
その死骸がぐずぐずと崩れてやがて赤い砂へと変わってゆく様を、少年は息ひとつ乱さずただ黙って静かに見つめていた。
*
ざわざわと、木漏れ日の差す隙間から風が流れ込む静寂。少年を、少女は見ていた。彼の前で地に伏した深紅の蛇が赤銅の砂に変わってゆくその様を。少年が気配に振り返る。
君、と発せられた呟きはしかし後に続かなかった。
「あの化け物はたしかに存在したし、オレもここにいる。ここで起こったこと、あなたがその目で見たことは事実だ。……それ以上のことを説明するのは、難しい」
はぐらかしてしまえばいいものを、彼は真摯に答える。世界がそう回ったのだ、としか言いようがない。あれが顕現しなければならなかった理由の如何と、その因果の結びつきを何かの形で証明してやることは難しい。
少年が黙りこくってしまうと、歩み寄ってきた少女はおもむろにその肩をつかんだ。
「夢……、じゃない。――私も行くわ」
がしっ、と指先に力を込めて、真顔でそんなことを口走る。え、と少年の何か奇異なものを見るような視線にも負けず、
「決めたの。ううん、もしかしたら決まっていたのかもしれないけど、私、そう、君よ!」
もはや完全に相手を置いてけぼりにして、だんだん勢いに火がついてくる。しかしそこで彼女は何かにはた、気づいたように止まった。
「――あ! そういえば、まだ名乗ってなかったわ。私はエスタ。君の名前はなんていうの?」
少年は困惑の色を隠せない。普通なら他にも疑問に思うべきことはあるだろうに、あいだのすべてをすっ飛ばして、まるでそれが一番重要なことだとでもいうかのように訊ねるのだ。
――名前。そんなものは。
(…………いや)
少年はひとつ間を置いて、はっきりと答えた。
「オレは……ヨミ」
エスタは大きく頷いた。
「ヨミね。うん、憶えたわ! それで、これからどこへ行くの? 行き先とか、決めてる?」
「具体的な場所は決めてないよ。ただ、今はあちこちにある遺跡を探して回ってる」
どうして、とはやはり聞いてこなかった。遺跡の探索。ヨミの言葉を、エスタは口の中で反芻する。
「あっ……! ち、ちょっと待ってて!」
と、今度は何を思い出したのか、彼女はそれだけを言い残すと、いつの間にか背後の森に待機していた機械人形と一緒にいずこかへと駆けていってしまう。その足取りには一切の淀みがない。踵を返した瞬間の瞳がやけにきらきらと輝いていて、それはまるで宝探しの地図を見つけた子供のようだった。
「うん……たしかに、変わってる」
待ってて、と言われてもこんな樹海の中ではどうしようもないので、少年は彼女のあとを追って歩き出した。
002:Ash Gray
機甲技師見習いのエスタは、かつて小国の下士官であった父とともに、幼い時分、人口一万に満たないこの国に移民としてやってきた。広大な樹海と山腹を越えたその地を、龍の国という。正式な名称は他にあるのだが、今では誰もがそう呼んでいるのでそちらの方が定着している。
ほとんどの人々が国を出ずに一生を過ごすことが多いなかで、エスタは中央政府の役割を果たしている城の書庫でいろいろ読み漁っていたときに見つけた外世界の遺跡の地図を、まあ本当はいけないのだが無断で写して持ち出していた。
それは古めかしい本が多い書庫にあっても格別に古かった。
この国と古城の成り立ちについて書かれたものらしく、本文は判読できない文字でつづられていたが、ところどころに誰かが訳したと思われる現代語の文がつけられていて、その注釈があるいくつかのページに図版として描かれていた。現実として行ける場所など限られているとはいえ、密かに(だろう、多分)続ける研究の為、今もそれは役立っている。
あまり上等な資料とはいえないが、樹海の外について触れられているのを思い出したので急いで家捜しをして戻ってくると、玄関で鉢合わせとなった少年が彼女を見上げて不意にもらした。
「おねえさん……やっぱり変わってる。だって、オレの事見て変だって言わないもの」
大真面目にそんなことを言われるので、しばらくぽかんとしていたが、やがて堪えきれなくなって最後は二人して笑ってしまった。
それから少年が、そんなにあっさり決めてしまって本当にいいのか、などと覚悟のほどをたずねてきたのち、彼女らは旅に出ることを願い出るために湖を臨む古城へ、龍の国の長の許へと向かった。
*
「この国っていろいろあって、もう知ってると思うけど、あの機甲兵とか、技術の流出を防ぐために面倒なしきたりがあってうるさいのよ。黙って出ていっちゃってもいいんだけど、こそこそしたりするの、あんまり好きじゃないし」
やっぱり旅立ちっていうくらいなんだから堂々と胸を張っていきたいじゃない、とエスタは言う。
「ふうん……そんなに面倒なら、オレ、勝手に入っちゃったみたいだけどいいのかな」
出してはならないなら、入れてもならない。迷宮のみならず、流通を封鎖するときの定石である。しかしエスタはさして深刻な様子もなく、
「大丈夫じゃない? 時々、森に迷い込んで入ってきちゃう人がいるみたいだし……ってか、私もそのクチだし。ちゃんと事情を話せば、悪いようにはならないよ」
ザルワーン様がいれば、いいように取り計らってくれると思うんだけどね、と付け足した。
ヨミは、そういうものでもないんじゃないかな、とは口に出さなかった。
話が断片的で分かりづらいのだが、彼女の言うザルワーン様というのはこの国の衛士たちを束ねる偉い人で、城でもかなり高い地位にあるらしい。緑の鱗に覆われた異形の生物〝龍〟を駆り、長らく樹海と人々を守り続けてきた彼は民衆の信頼厚く、国の政府に当たる長老議会においてもその発言は最も尊重されるとかされないとか。
この辺はエスタの妄想、もとい憧れに近い感情が入ってきているので多少は差し引いて考えねばなるまいが、強い影響力をもった人物である、というのは間違いないようだった。
「さ、着いたわ。くれぐれも、そそうのないようにね」
そう言うと彼女は慣れた様子で門衛となにがしか話をしたのち、ひんやりとした石壁の、三叉に分かれた通路を左に折れた奥へと進んでいく。ヨミもその後に続き、途中ですれ違った人々――おそらくは城勤めの参事や衛士たち――がエスタと短い挨拶を交わすうち、その中の何人かが「今日はどうしたの」とか「また何かやらかした?」と笑いながら言うのを見るに、彼女は本当にしょっちゅうこの場所に来ているらしい。ということは、普段からそそうをしているということか。
広間へ続く扉の前に立つ取り次ぎの衛士に頼むと、ややあって中から「入りなさい」というさびてよく通る老人の声が聞こえた。出てくる衛士と入れ違いに呼びかけに従い扉をくぐると、そこには三人の男たちがそれぞれの席に着いて待っていた。
――そこには全ての地獄と全ての楽園があって、だから私はそこに始まりの火を封じたのだ。
いつか誰かが辿り着くその日まで、彼らは待ちつづける。
そして、私もまた。
彼は、薄ぼんやりとした闇の中に立っていた。明るいか暗いかはよくわからなかったが、どこまで遠くを見ても何も無かったので自分は闇の中にいるのだと思った。
自分は、何故ここにいるのだろう?
ふと、そんなことを考えた。どうやってここまで来たのか、思い出せない。そもそも、ここは何処なのだろう? 記憶の糸をたぐってみても、ある場所からふっつりと闇の中へ沈む。……結局のところ今の彼にはここでない場所というのが解らなかったし、だからここが何処なのかも解らなかった。彼にとってこの場所は、全てが入り混じるただの混沌でしかなかったのだから。
もしかしたらそれは彼に与えられた罰なのかもしれず、あるいはこうしてその場所を見守りつづけねばならぬという使命なのかもしれなかった。
とおいまどろみのなか、長い永い時を、彼はさまよっている。
003:Jet Black
――第一の条件。樹海の外に出たらけっして龍の国の民を名乗ることなく、彼らと水面下で交流のあるイェルムンレク市の学生の身分で行動すること。第二の条件。しかるべき手段によって、最低でも月に一度は家族の者と連絡をとること。少年の不法入国罪については不問に付された。
詳しいことは現地に着いてから伝えられる。それまでの身分を証明するものとして、彼女は芸術的にはそれほど価値のあるとは思われない、細い金属の幾何学模様の入った腕輪を渡された。
尋問とも呼べないあっさり加減といい、その段取りの良さといい、もしかしたら大樹海を飛び回る昆虫型飛行監視ユニットによって一部始終を見られていたのかもしれない。相応の覚悟はしていったつもりだったので、肩透かしをくらわなかった気分でもないが、それより今は期待に逸る気持ちの方が大きい。
まだ日が天頂に昇りきってもいない時間だったので、あるだけの身支度を手早く整えると、彼女らは境界地を越えるために樹海へと向かった。
*
境界地の半ばまでは、ホバークラフト航行型に似た機動単車で向かう。険しい樹海に走る根や段差をものともせず、すいすいと最短距離をすり抜けていく様はなかなかに心地よかった。その気になればかなりの高度を出せるらしいが、丁重にお断りして遠慮してもらった。大気を熱して飛び飛びにプラズマ化させた線形磁界誘導によるリニアモーターがどうのこうの、と言われたがよくわからない。
そこから先は徒歩だ。
「エスタはどうして、旅に出たいと思ったの?」
少年が訊ねると、彼女はそれまで見せたこともないような真剣な表情で眉をひそめ、ぽつりと呟いた。
「……足りないのよ」
「え?」
「パーツが足りないの。あの国にあるだけじゃ……遺跡も樹海も城の地下も、私、全部探し回ったけど、あの子を完成させるために必要な何かがどうしても欠けてるの。とても大切なもののはずなのに、それが何なのかはどうしても分からなかった……」
と、彼らから少し離れて歩く、しんがりの鉄騎兵をかえりみる。黒に近い、深海の青をモチーフにしたというカラーリング。今はエスタの父に借りた、古ぼけた駱駝色のマントを頭からすっぽりと被っているので、傍目には少々怪しいが鉄仮面の鎧武者に見えないこともない。
エスタはそうして、少年の問いに答えようと続ける。
パズルのような研究所を読んだり、実際に手に入れたものを組み合わせて試験を繰り返したり、時には他の完成品と内部の構造を見比べたりもした。そうやって向かい合っている時間というのは確かに楽しかったのだけれど、作業を進めれば進めるほどに、何かが足りないという思いも胸の中ではっきりとした形をとるようになっていった。ならばこれは、自分の手で探し出さなければならないのだ、と。
「今のままでも機甲兵としては十分に動くし、きっと周りのみんなもそう言うと思うわ。でもね、私、もっとちゃんとしてあげたいっていうか、この子に与えられた可能性を可能性のままで終わらせたくなかったの。それを作ってどうこう、っていうんじゃなくってね。だからきっと、あなたに出会わなかったとしてもいつかはこの子と旅に出ていたと思う。馬鹿みたいな話だけど、そういう性分だって自覚してるもの」
笑う? と、どこか楽しげで、理解を求めるものではない複雑な笑顔を向ける少女に、少年はいいやとかぶりを振った。
そんなことはない、と胸の奥に風を吹き込んで、心中で言葉を返した。もしも世界に存在する理由が必要なら、それは世界を望み、未知と謎を求める人間がいるからっだ。
生への意志、世界が生まれる原動力。それが世界にとってどれだけ危険なものであるとしても、それなくしては人も、国家も、それを取り巻くすべてのものも、そもそも存在することを許されまい。
(何故なら――世界そのものは、自分が必要かなどとは考えたこともないのだからな)
だけど君は一方だ、エスタ。不完全な人間よ。だからこそ、この世を望もうとしたのだろう?
少年の無言の問いかけのむこうに、澄んだ瞳が映す先に、道の先を指差して走る少女の姿がある。そんなに急いだら疲れてしまうよ、と言いながら、彼はまた自分も後を追って駈け出した。
――人の身である自分に、人を哀れむことなど傲慢だ。彼女は明日の行方を知らない。だが、神ならざる人の身の一体誰がこの人間を哀れむことができるというのか。
畏れる者に幸いあれ。背筋を這う不気味な寒さを引き連れた心を、旅立つ者だけが希望と呼ぶのだ。
*
「……よろしかったのですか?」
国長はまた別の要件で公務に戻り、残されたのは彼らだけとなった。窓を背にした男が、卓に着いて腕組みをする男に訪ねた。
「あの少年が何者であろうと、我々に彼女を止めることなどできんよ。あれは、多くを知りすぎた――いずれこうなることは、目に見えていたことだ」
「……国を出たい、とそなたは申すのか?」
優しげな眼をした灰色の髭の老公が、少女の言葉に問い返した。はい、と淀みなく言い切った彼女に、今度は壮年の、がっちりとした体格の衛士が呆れたような声を上げた。
「何を言い出すかと思えば――お前はまたそんな馬鹿なことを」
お前はこの国の民としての自覚がないのか、と頭を抱える彼に、少女はなおも押しを重ねる。
「お父さん、いえ衛士長。龍の国の民、失われた技術を持てる者……その事実が何を意味するか、私だって分からないわけじゃないわ。でも、ヨミだっていつまでもここに留まる訳にはいかないんだし、それに私、一度でいいから外の世界に何があるのか自分の眼で確かめてみたいの。お父さんはいろいろ知ってるのかもしれないけど、私、ほとんど覚えてないもの」
テーブルに身を乗り出しながら、後ろで待つ少年の様子を窺い、ふたたび目一杯力を込めて嘆願に戻る。父親は娘をどう説得したものか、困り果てた表情をさらに深め、長と顔を見合わせた。
答えは出なかった。
「まったく、あの子にも困ったものだ」
窓を背にした男は、深々と溜め息をついた。
――確かに、薄々感づいてはいたのだ。あの子が機甲技術の研究に手を染めたと聞いた時から、いつかはこうなるのではないかという予感があった。
失われた文明、前時代の機械たち。自然の要素と区別がつけられないほど高度に発達したそれは、この国の防衛力と社会基盤を支えるものとして、絶え間なく訓練を受けた人々の手によって整備・調整が行われている。
その技術自体はありふれていて、むしろ必要なものだし、学ぼうとすることには何の問題もない。何故ならそれ以上は望むべくもないから――機械の構造が複雑すぎて、現在に残された技術レベルではまったく理解不能であり、半分は人の手がなくても勝手に動いているようなものだからだ。
我々はそれを利用し、そして生活する。それで十分だし、誰もそれ以上を望みはしない。だがあの子は、皆と同じ材料を扱っていながらいともたやすく本質を見抜いてしまう……ともすればそれは、人が触れてはならない危険な領域にまで再び時代を近づけることになりはすまいか。そう先行きを危ぶまずにはいられないのだ。
「彼女の腕は大したものだと、私は思うよ。気付いているか? あの機甲兵、意思を持っているようだった」
「意思? まさか」
「むろん、彼女自身が作ったものではないだろう。我々にも隠したがっているようだったしね……どういう理由かは知らんが、あれは我々がよく知っている機械とは、何かが違う」
いや、よく知っているというのも間違いか、とテーブルの男は言った。自ら考え、行動する機械。遥かな太古には、そういうものも存在していたという。
「だがそれは、今や星の世界よりも遠い……目の前に、確かに存在しているというのにな。我々は彼の時代の残り火によって生きているが、もしかするとあの子は、自らのうちに火を見つけてしまったのかもしれん」
「ならば、あれを連れていかせるのは――」
いよいよもって問題があるのではないかという指摘に、テーブルの男は、どうせあんなものは複雑すぎて他の人間には扱えまい、と笑った。
「あれは外の世界ではエスタを守る力となろう。身を守る術もなく、他国に捕われでもすれば、そちらのほうが困ったことになる。……それとも、牢にでも縛りつけて、鎖に繋いでおくかね?」
それ以外に彼女を止める方法はないが、そんなことはこの国の誰もが望んでいない。それだけは、ひとつ確実に出せる結論だった。
「エスタ、君はこの国の掟を忘れた訳ではないだろう?」
銀髪と、血のように深い色をした深紅の双眸をもつ男が、卓の上に指を組み落ち着いた様子で少女に語りかける。
「はい、もちろんです。世界の力の均衡を崩さないために、龍の国は外界との接触を避けなければならない……ですがザルワーン様、たとえこの国がどうあろうと、世界は一時たりとも動きを休めてはいません。技術は伝播するものです」
「エスタ! お前は何を――」
とがめる父の声を、少女の視線を受け止める彼が片手を上げてさえぎった。
「機甲技術は、この国の中だけにあるのではないのでしょう? ここは平和だけれど、外は平和じゃない。完全に流出を防いだとしても、彼らは彼らで独自の発達を遂げるはずです。たしかに、それをほぼ完全な形で保っているのはこの国だけですが……」
わずかに目を伏せ、しかし彼女は絶対にゆずらないと深紅の双眸を見据える。
「ですがそうやってすべての接触を断ってしまえば、どうしようもない危機が起こったとき、私たちは何も対処できなくなるのではありませんか? 外の世界の事を何も知らなければ、対処のしようがありません。ザルワーン様……絶対は、ないと思います」
「我々の理想が、どの世界でも通用するとは限らない――私は、エスタの言う事にも一理あると思うよ。世界は確かに動き始めている。そのことと関係があるのかどうかはわからんが……」
「あの娘のことですか?」
「彼女が目を覚まさない限り、本当のところは何が起こっているのかも分からないままだ。ただ、もう一つ中央できな臭い話を聞いた。コヨーテが行方不明になったそうだ」
「王室騎士団のハインリヒが? それはまた……都市連邦も荒れるでしょうね。良くない事が起こらなければいいんですが」
国の他の者が聞けば全く内容の分からない会話だが、男はぱっと言葉を返す。エスタに言われるまでもなく、情報収集は怠っていない。ただ、表立って皆に知らせていないだけで。
「さてな。それもまた、眠り姫が目覚めなければわからないことだ。未来は神のみぞ識る……人の身である我らに、知りえないことなど知りようがない」
――ワスプの一体が映像を捉えているだろう。後で見てくるといい。と、銀の髪の男は娘の父に言った。
*
まずは辺境守備隊の街サバドを通り、そこから亜人と人間とが行き交う都、大陸中東部にあるイェルムンレクへと向かう。
「わあ――」
苔むす大樹の根と梢の群れが途切れて唐突に視界が開け、木漏れ日とは違う清新な光が差し込んできた。左手に岩の台地をしたがえて遥か眼下に見渡す平原は、さあっ、と霧ひとつない空の下で駆け抜ける風の跡を色の薄い枯れ草の合間に残していく。
裾なびく外套に立つ襟をくぐっては冷たく頬をなでる笛の音。高緯度特有の、短い夏の終わり。秋が過ぎて、やがて冬がくる。
そうして二人と一体は樹海の護りを越えて、時々刻々と目まぐるしく色を変える人の地へと降り立った。
――さかもどり、さかもどり。折り返すのは、はじまりの七種に足されたUltra-Violet。時計回りのブラフマンと、逆さ回りのアートマンと。
火は風へ、風は水へ、水は土へ、そして再び土は水へ、水は風へ、風は火へ。永久に万物は流転する。
点対象に螺旋を描きながら縁どられていくのは双子のジェミニ、透明なグラスのうちに色とりどりの宝石を散りばめた、合わせ円錐の星時計。虚数領域と実数領域、数学世界と物理学世界、幻想と現実の光学異性体。
時を運ぶ原点Oは、ひとりぼっちの誰かを真似して彼を諭した友達の心。
そは弥先の弥果て、弥果ての弥先、アルバにしてオメガなり。
004:Inky Blue
――そうだな。
僕は最近、CRISPRに興味を持っているんだけどね。遺伝子治療やゲノム編集技術と絡めてよく語られるから、編集技術そのものと勘違いされやすいんだけれど、そうじゃなくて、HIVなどのレトロウイルスが自分のRNAをバクテリアなんかに挿入した後に残された繰り返し配列群のことだ。
それは原核生物の免疫反応において重要な役割を果たしているDNA群で、遺伝子と違ってタンパク質をコードするのではないけれど、自分に記録されているそのウイルスの断片の配列群(CRISPR)を基に排除すべきウイルスを感知しているようだ。自分のゲノムの中に辞書を作って敵を検索する感じだね。
遺伝子治療は(正常にタンパク質を生成できないなど)DNAの機能不全を起こしている原因の箇所に、何らかの手段で特定の遺伝子を挿入することで行われる。
エイズウイルスなんかもヒトのDNAに自身の遺伝情報を挿入して改変する逆転写酵素を持つレトロウイルス(RNAウイルス)だけど、たとえばアデノ随伴ウイルスは病原性が低く、遺伝子治療によく用いられているね。
ただ、問題は、遺伝子を挿入した細胞は代謝で徐々に失われていってしまい、治療を繰り返す際に(タンパク質の表面の形かRNA片かで認識する)人体の免疫機能に引っかかってウイルスの活動が無効化されることだった。
使えるウイルスの種類も限られているので、進化の系譜をさかのぼって、現在生きている人間が誰も経験したことのない、共通の祖先と思われているウイルスを蘇らせればいいのではないか……と、そういう研究は僕の同僚がしていたよ。
だけどこういう知識が正確に広まっていないと、知識に抜けがあると、何かあったときに正しい情報を流しているつもりでも正確に伝わらなくて混乱が起こるよね。安心を得ようとする大衆心理に付け込んで、混乱に乗じて荒利を稼ごうとする輩も出る。あるいは……
あるいは?
……。本題に入る前に、とりあえず、ウイルスについて基礎知識をおさらいしておこうか。まず第一に、細菌は細胞(厳密には原核細胞である単細胞の微生物)だけど、ウイルスは細胞じゃない。
ウイルスは宿主のATPやアミノ酸を奪って増殖する本体であるRNAと、骨格であるタンパク質で構成されているけど、種によってはさらにその外側に、外包≪エンベロープ≫という脂質の膜がある(武漢発のCOVIDウイルスにはエンベロープがある)。
このエンベロープは脂質だから、植物油脂のでも動物油脂のでもいいけど、とにかく油脂でできている石鹸で成分中の疎水基を引きつけて構造を解体することができる。洗剤で食器の油汚れを落とすのと同じだね。
骨格のタンパク質なら度数が高めのアルコールで破壊できるし(焼酎のように度数が低いと漬けておく時間を長くしなければいけない)、外包と骨格を壊してしまえば、半生物としてのウイルスは活動を停止する。つまり死ぬ。
だから石鹸やアルコールでの手洗いは感染予防に非常に効果的。
ただし、糖の一種であるリボースおよびそれぞれ二種ずつのプリン塩基とピリミジン塩基で構成されている増殖の本体、RNAは破壊されずに残ることもある。RNAが壊されずに残っていると、他の生物のRNAの断片と整合するかチェックをするPCR検査で(ウイルス自体は死んでいても)擬陽性の結果が出ることがある。
擬陽性……ああ、日本の政治家に一番理解されなかったポイントね。
そうだね。とにかく、人間の免疫は一度マクロファージが免疫グロブリンかキラーT細胞に破壊されたウイルスのRNA断片を回収して個体のゲノム配列中のCRISPR領域に保存しない限り、つまり個体が一度そのウイルスそのものか類似物の感染を経験しない限り形成されない。
つまり、人体はウイルスの遺伝子全体、ゲノム全体を見ているのではなくその断片で判断している(PCR検査も特徴的なその断片で判断している)。天然痘予防のために牛痘を接種させたことが始まりとなった「ワクチン」とは免疫系と遺伝子のこの機構を利用したものだ。
ただ、このマクロファージやグロブリン、T細胞などの免疫機構のパーツを体内で作るのにもエネルギーであるATPや「素材」は必要だし、酵素や細胞が働きやすい温度というのもあるから(ある程度の熱は免疫系の酵素と細胞の活性化に必要だが、39度を超えると人体のタンパク質が変成してしまう)……
栄養状態が悪かったり、何か基礎疾患があってウイルスとの闘いとは別の代謝に素材を回していたりする状態だといわゆる「免疫力」は落ちるね。でも何も基礎疾患がないなら、毎日よく食べ、よく寝て、よく笑い、毎日軽い運動をして過ごすのがウイルスに対する免疫力を高めるのに一番だという結論になる。
――そうね。外出禁止令で運動不足だとみんな基礎代謝が落ちてウイルスに対する「免疫力」が多少落ちそうだけど、どうでしょうね。両者のリスクをどう秤にかけるか、なかなか考えるところね。
まあね。ある程度考慮に入れる要素を絞れば数値化はできるけど、それはあくまで概算値や参考値、つまり統計的な確率であって、丸バツでは答えは出せないね。
……あのね。私が世の中のどこを見渡しても感じていることはね、それは限りあるパイの分配や、民族間の風習の些細な違いに起因するものであっても、それこそが常に争いの火種になってきたということ。つまり「移民問題は本当に難しい」ということ。
たとえば五世紀の西ローマ帝国の崩壊は、傭兵として受け入れた移民への食糧政策が汚職や民族差別によって機能しなかったことで各地で起きた反乱に対して力負けしたために、帝国側が寛大な処置をとったことが主因であるらしいわ。つまり、内部から民族が置き換わっていき帝国が形骸化したのだということ。
当時の東ローマ皇帝Valensはもともとササン朝ペルシアとの戦いの渦中にあったためゲルマン人傭兵を受け入れたのだけれど、食料生産能力の限られている戦地の小さな領域に大勢の人が住むということが人々に飢えをもたらした(生産性が向上しないと誰から優先的に配分していくかという問題もその時点で起こる)。
ローマ軍の兵站担当は飢えはじめたゲルマン人傭兵に食料を配給しようとしたけれど、地方司令官のLupicinusが横流しをしたために闇市で価格が高騰し、犬一頭を手に入れるために子供一人をローマ人の奴隷として売り渡さなければならないほどの相場だったらしいわね……。
ちなみに、アドリアノープルの戦いに至る直接的な反乱の発端は、Lupicinusから宴席に招待されたゲルマン部族Fritigernの長Alavivusのお付きで街に入った部下が、ローマ人の市場で食料を売り買いすることを許されず、ローマ兵士を殺したことから対立が激化したためだというわ。
私はこの話の現代版として、移民受け入れ枠を拒否するかが根にあるEU脱退の是非で、イギリスの女性議員が殺されるまでの事件が起こったように、国内の世論の分断と混乱の根になるのは、国家を崩壊させるものはいつの時代も移民問題であることは変わらないのか、という感慨を持ったの。
ちなみにローマ帝国民と古ゲルマン人との対立の根にあったのは、前者が325年のニカイア公会議で決定されたcredo・父なる神とキリストとの同一本質・を信仰していたのに対して、後者がキリストがあくまで神の被造物であることを強調し神性を認めないアリウス派を信仰していたことであるといわれているけれどね。
ああ……なるほど。教会大分裂≪シスマ≫の根本的な原因になった話か。シスマなら温暖化問題でも起こっているよ。僕は太陽活動の変遷が地球環境の変遷の最大の要因だという、地球物理学をもとにした理論のほうの支持者だけど。
太陽は水素+水素=ヘリウムの核融合反応によるエネルギーをもろもろの電磁波(光も電磁波の一種)として宇宙に放出しているわけだけれど……
太陽活動が活発になればなるほど周囲にできる磁場や電場は強力かつ複雑になるんだが、黒点というのは、太陽の光球面より少し上空にできた強力な磁場の塊で、周囲の光の軌道を変えてしまうんだ。だから、ブラックホールみたいにそこだけが暗く落ち込んで見える。
磁場の強いところにコロナ(百万度に熱せられてプラズマ化した大気。ちなみに光球表面は六千度、黒点は四千度)が発生し、コロナの中で太陽フレアが起こって、大量の電磁波を放出する。磁気嵐や、地球の極地で見られるオーロラはこれが原因。
黒点とコロナのくわしい関係はまだ研究中らしいんだが、とにかく「黒点が多ければ多いほど、太陽が全体として放出するエネルギーの量は増える」みたいだね。つまりその分だけ地球が受け取る光量は増えて、気温は上昇するはずなんだが……
しかしたとえそれらの原理を完璧に理解できたとしても、科学者として誠実であろうとするなら、程度の問題には何も条件を絞らない丸バツでは答えられない。少なくとも、僕はね。
うーん、なるほど……もしかすると、だから手っとり早い答えを求める大衆と科学者コミュニティとの間に乖離が生まれるのかもね。
まあ、解析法についての無理解もあるのかな。たとえばいろいろな年代や産地の解析法……と言って僕は大別して二系統しか知らないし、絵画の顔料とか衣料品の染料の製法にはまったく詳しくないけれど、たとえばX線解析の遺伝子解析なら、植物や動物由来の天然染料ならは細胞核の中の遺伝子があるから確実に地域差をたどれるし、多分、人工物だとしても混合化合物の染料や顔料なら追跡できると思うよ。
地域や画家によって求める色合いって違うから、各化合物の配合度合いが違うと思うので(紺青なら酸化コバルトに蝋石を配合して焼成するなど、複数製法があるようだ)。逆に、本当の純銀とか純金の顔料とかだと混ぜ物による違いがないから産地の区別が難しいかもね。
もう一つの放射性炭素年代測定法は、わりと昔からあるスタンダードな方法だ。生き物って生まれたらかならず食事や呼吸をするよね。僕たちヒトも含めた動物は酸素を循環させて二酸化炭素にするけど、光合成をおこなうラン藻類や植物は、二酸化炭素を循環させて酸素にする。
C14(炭素原子の、中性子が標準より二つ多い放射性同位体)はもともと太陽フレア由来の(中性子線が地球の大気上層で窒素分子と激しい衝突をし、窒素原子の二つの陽子が中性子に置換され、生成される)自然の放射性物質なんだけれど、これをまず植物が光合成によって取り込む。
そして、その植物の実であるのか茎であるのか葉であるのかを草食獣が食べ、その草食獣を僕らヒトや肉食獣が食べ……というようにあらゆる生体に取り込まれていく。
C14はデンプンなどの分子を構成するけど生体の死後細菌やバクテリアによって解体される有機物ではなく、有機物に含まれる放射性原子だから、宿主の生き物が死んでも存在し続け、電子線を放出する原子崩壊を起こしその量が半減するまでに5730年、四分の一になるまでは11460年、八分の一になるまでは22920年かかる。
だから万年とか億年単位のおおざっぱな年代を見るには適しているのだけど、つまり化石や遺骨の年代とか、樹木の各年輪ができた時代とかを調べるには向いてるのだけど、千年とかの短いスパンだと向かないんだよね。
だから、僕、奈良女子大の論文を初めて読んだときものすごく感動したんだよ。これはものすごいブレークスルーだ! って。
なるほど。確かにとても面白い話だわ。でも、あなた本当に科学が好きなのね。
そうかもな。しかしまあ、要するにだ、僕らにとって神というのは化学・物理法則なんだよ。「化学・物理法則抜きの」デジタルな宇宙で生きるか、神がいる宇宙で生きるかは、神がいる世界で生きるか神が死んだ世界で生きるかというのと同じ。そして風がどこから来るのかは知らないが、僕らは風とともに生きているだろう。
たとえるなら通貨発行権と関税自主権と議会の消え去った不随の政府のように、彼らが、重力と電磁と心の次元の消え去った物理への不随の理解で作られた量子コンピュータの中で永遠の生を生きたいというのなら好きにすればいいだろうさ。信仰、あるいは怠惰の補完としての狂信に生きて生命を失うのも個人の自由だからね。
あいつらには「神を作れない」から、神が死んだことにしてその薄っぺらな権威を保とうとしているだけだ。
神が死んだ世界っていうのは、次元、つまりレイヤー一層一層は完璧に見えるように描かれていても、レイヤーとレイヤーの相互干渉の設計が消えた世界だ。つまり、モノがあってもクーロン力や重力は働かない、素粒子はあっても原子を構成しない、だからそれ以上もそれ以下もない「血肉の詰まった革袋」だけがある世界。
はっきり言って、そんな薄っぺらな宇宙を作って「自分は神になりました」とかいう人ってさ、頭悪いんだよ。そんな薄い理解の似非物理学の理論から借用して論理構成してるから、いつまでたっても似非経済学なんだろう。せめて生データ取りに行くくらいすればいいのにと思うけど、それをしないのは彼らにとってそれが“習慣”だからなんだろうね。
――習慣。じゃあ、あなたは今の世界で起こっている混乱や障害の原因も習慣だと思っている? それはちょっと短絡的じゃないかな。
――そうかもね。少し間の論理を飛ばしてしまったようだ。
これは、外部環境の内在化、あるいは内面の外部環境化という問題に行きあたる。それを媒介するのが心だ、だから心を分析しなければいけない、という議論にね。しかし、物理学的なアプローチだけではそれが必ず頓挫する。
何故かというと、だ。
いいかい、ニューラルネットワークの障害というものはね、経験と経験への対応の仕方が積み重なってできるものなんだよ。つまりは偏差だ。さもなければ学習という現象はそもそもありえなくなる。僕らが生きるのに都合の悪いものは障害と呼び、都合の良いものを進化と呼んでいる、それだけのことなんだよ。
精神の“構造”というものは神経伝達物質の受容体の翻訳の仕方――翻訳後の情報を物理的装置で確かめる手段のないこの翻訳方法こそ真正のブラックボックスだけれど――これを、この“要素”をただかき集めて成り立つものではなくて、要素の配置のされ方や各要素間の関係性といった、それらを秩序ある全体としている“何か”を捉えてはじめて理解できるものだ。そしてそれができるような装置は、心の現象をすべて解明しない限り心以外には存在しない。わかるかい。これは解きえない方程式なんだよ。
あるいは、解いてはいけない?
――――。
そう、そうかもね。
君は生まれ変わりを信じる? 僕はね、あるともないとも証明不可能だけどあるんじゃないかと思ってるんだよ。
というのは、人間の意識の肉体的な座は大脳だけど、僕達が直接に経験できるのは心が認識する情報だけ。僕らが機器を使って観察できるのは情報伝達物質群が受容体に受容されるところまで。
化学的なものでない純粋な情報に変換されたあとはどこでそれが処理されているのか? というのが人工知能のフレーム問題を生物の心との比較のうちに考え始めた頃からの僕の疑問だったんだ。
つまりコンピュータはすべての処理の経過が、遺伝子に対応するRNAをタンパク質の形をとった指令に変換させゴルジ体のタグ付けによって特定の体の部位に運ぶ経過のように、三次元空間のメモリと出力機器の中で行われているから追跡可能だけど、生物の心には主体の問題がある。
生物が経験するものは光の波長ではなく色、疎密波の振動数ではなく音であるという問題だ。
立体空間と時間をはじめとする次元の概念をひも理論に倣ってさらに拡張して、この四次元空間と同期した別の次元で心の処理は行われていると考えると、連続的な開かれたプログラムとしての、統一された物理学的宇宙観としてしっくりくるのだけれど、その心の次元、情報の次元を調べる観測機器がない以上これは永遠に仮説にすぎない。
だけどこの次元で人の心と心は重なる部分があったり繋がっていたりするんじゃないかとか、三次元空間の肉体が滅び次元と次元を繋いで対応させる刺激が失われても残る魂(情報)やその連続性、生まれ変わりがあるんじゃないかとか、この概念を利用してキリストは神が人間の形に受肉したものだという教義を物理学的に解釈すればということや、彼の血のあがないによって人々に遣わされた聖霊は今もそこでまどろんでいるんじゃないかとか、色々なことを考えるんだ。
……もしかしたら君と僕はずっと昔どこかで会っていたかもしれないね、なんてね。
……あはは、口説いてる?
いや、そんなつもりは。
……そうだな、はじめ、僕が量子力学に興味をもったのは、それが西洋の哲学概念とともに体系的にとある日本のアニメの世界観の中に織り込まれていたからだった。物語にちりばめられ骨組みとして宿されたその形に洗練された美しさを感じたんだ。
たとえば、およそ自然科学の理論は、実測の手段を考えたうえでその結果がどう出るかという問いにも意味が生じてくるのであって、測りようがないものについて議論しても意味がない。けれどそうした理論が与えてくれるのは個々の測定結果についての占い師的な予言ではなく、一定の法則に従う確率分布だけなんだ。
――これは何を言っているのかというと、代表的なところとして、ボーアの電子雲モデルについてを話すことで説明に代えてみるよ。
電子のような極めて質量の小さい微視的粒子は、光(質量はないがこれもエネルギーをもつ粒子である)を当てて観測しようとすると、反射する際に作用を受けて軌道・存在位置を変えてしまうため、理論的には確率的にしか位置を割り出せない。
つまり、光を当てなかったとき(観測手段なし)には僕たちは電子がはじめにあった位置などというものを測定もできなければ、辿ったであろう道筋を運動方程式より逆算することもできないので、何十、何百と試行を繰り返した後に描かれる観測点の分布図(電子雲モデル)から確率統計的にしか導き出すことができない。
そのように僕たちの観測手段に限界があって、それ以上の方法が発見されていないことが、原子核を取り巻く電子の位置は存在の確率しか求められないといわれる所以なんだ。この原理は今の僕たちの生活インフラを支えている量子暗号通信に応用されているね。
――そう、君の国の最高の発明だ。
お褒めにあずかり光栄だわ。そうね、でも……それは、量子転送技術が実用化されるまでの戦間期の平和じゃない?
たとえば紛争が起こる原因の大半は、古代から現代まで、民族・宗派の対立や経済的利害の対立があることだろうけど、そういう形勢から国際社会の顕在的あるいは潜在的な同盟・敵対関係を読みとって、集団の将来のために戦略を立てなければならない指導者層じゃなければ、そしてかつテロなんかの行動に出ないで思想を持つだけなら、私は別にその人が狂信やイデオロギーで目が曇っていても許していいんじゃないかとは思う。
国に助けを求めてきた難民と、すべて国民は、国家に守られて幸福に生きる権利がある。そして指導者はその日常を守ることが使命だから、本当はみんなに理解してほしいけど後世の判断に任せて今必要なことをする、って、実質的には資産に余裕がないと完遂できないわけだけれども、理想としてはそれを目指そうとする。
だけどこれは民主主義国家におけるパラドックスよね。
パラドックス?
そう。それは為政者がどこから生まれてくるのかという問題。彼が誰のどういう望みをかなえるのかという問題。
なぜなら権力が権力として成り立ち、存続できるか否かは、彼の思想なり政策がその国、あるいは支配しようとしている領域に歴史的条件として存在している経済的な基盤を担う層と共鳴できるかに依るでしょう。彼の武力を維持するために必要な経済的基盤に。
だから彼の権力の現在の性質、そしてその将来というものは、経済的基盤が何であるか、その産業を担う人々の心理的・政治的性質に左右されると思うわ。議会制民主主義を選んだ私たちの国では民意を示す選挙を経ることによって権力に正当性が付加されているけれど。
だけどたしかに、国民の大多数が憲法と法律の違いもわかってない状態だと議論そのものができない……それは、大きいかもしれない。国民側の勉強不足。憲法学者をはじめとする現代日本の「形而上学者」は、大衆社会での炎上を恐れてる。
でも、人間に与えられた時間は皆ひとしく一日二十四時間なのだから、それは分業社会での高度な専門分化に伴う必然的な帰結というよりは、自分の専門に対して誠実でない人が増える方向に社会的な圧力がかかることに問題がある。たしかにそれはたまりにたまってきた、人々が本物に出会える確率を下げ続ける怠惰な知的活動のツケ、それこそあなたの言う長い長い習慣の結果だ、と言えるかもしれないけれど。
それにたとえば多民族をどう統治するかの問題。
インドでは補助公用語が英語なんだけど、それは大戦中の宗主国の影響だけじゃなくて、もともとカーストとか部族とかで言語が細かくばらばらにわかれていて、近代的な行政や高等教育の現場で共通の言語が必要だったからでしょう。少数民族を弾圧したり浄化したりやり方に大きな問題はあるけれど、中国が漢語で国家を統一しようとしているのも半分は同じような理由で、意思疎通を円滑にして不安定な支配体制を強固にするためだと思う。
だから私の日本やあなたのドイツみたいにひとつの言語で統一されていて、先人たちの努力でその言語文化の上に乗った知的財産の蓄積もある国なら、私は母国語によく通じて教養を積んだり考える力を鍛える方が大事だと思う。そこで必要なのは一般国民に対して正確な情報を提示し、資料の目利きを手伝ってくれる人々だってね。
指導者層と一般国民を教育の種別から分けて身分制国家にしようっていう人の主張も……、身分を世襲で固定するなら下層の人々の現実を理解する必要がなくなる、下層民の仕事が抱える現実問題を理解できなくなり彼らが支配層であるそもそもの意味が無くなるという理由で害にしかならないから正しくないと思うけど、そういう意味でなら私は半分は理解できるかな。それも、結んでしまった条約を踏み倒せる立場にない、いわゆる“互いの信頼”のために門戸を閉ざせない私たちが移民の扱いをどうするか、という問題にはノータッチで、だから教育者の教育という民主主義国家のパラドックス、あるいは移民政策のトリレンマという話に戻るわけだけど。
ああ。そういうパラドックスなら僕にもわかる。
というより、僕の本題はそれだ。
例えばスタンドアロンの電子機器に対するハッキングの有無を物理的に調べるというために人間の視覚を拡張してAM波からサブミリ波まで感知できるようになったら、よほどの適性や訓練があっても混乱はまぬかれないよね。その周波数帯の広さと感度の鋭さをEMC兵器がdDOS攻撃をかけるようにして敵も利用することができるためだ。
市街地や人口密集地におけるゲリラ戦・テロ対策に伴う、主に警戒に当たる戦闘員の被攻撃判定・敵と一般人を識別する能力についての技術の発展によって人間の能力を拡張してきたこの世界ではそういう不幸な例もあったけど、一番は、集団統合失調症はペースメーカーとなっている部位を物理的に壊したり停止させることで発生させることが可能であって、それにどう対策をとるか、つまり誰がどう技術を独占するかだろう。つまりすべての図面にアクセスできる権利を持つ指導層が技術競争で悪意あるアノニマスの先を取りつづけなければならないという。
けれどね、僕は悪夢を見るんだ。
今よりはるかに発展した科学の力を独占した“一般意志”たちが、科学を忘れさせられた人々の上に神と称して君臨し、専制国家を築く悪夢をね。
そこでは遺伝子操作によって生殖能力を失った人々は人工子宮によって生み出され、その工場の中で身体的なタグつけが済まされ国家によるID・GPS管理の土台が整えられ、人類としての自然な進化は止まったまま、支配階級はただただ娯楽として与えられた脳内パルスをコントロールして過去の他人の人生を体験するゲームにふける、実際はそれで他の国にクラッキングをしかけている……
そしてこの国の下層民は何千年も世界から孤立したまま、科学が生み出した製品によるテロリズムの横行と内乱によって転落した生活レベルのまま、ただひとりの現人神とその取り巻きのもとでずさんな統治をうける、という。
現代科学の体系から、どの知識をどう消せばそれができるか、僕はそれが分かるんだよ。だから……
「歴史の教えるところでは、人民の友といった仮面のほうが、強力な政治権力よりもはるかに専制主義を導入するに確実な道程だったのである。事実、共和国の自由を転覆するにいたった連中の大多数のものは、その政治的過程を人民へのこびへつらいから始めている。すなわち、扇動家たることから始まり、専制者として終わっているのである」
……ね。ロベスピエールの名を出すまでもないわ。あなたと私の一致点よ。
005:Deep Crimson
2012/9/24
主題:学生が神の真似ごとをする世界に鎖された少女。
学校の授業の途中で呼び出された私は、今すぐ俺と帰るようにと広瀬先生から告げられる。肩に鞄を引っかけて、何なのだろうと後を追いながらも事情が分からなかったのでいつになく真剣な顔つきのまま車を走らせる彼の隣にちょこんと収まっていたが、特に変わりばえもせず流れていく景色が急なブレーキで静止したとき、ずっとむこうの曲がり角になっている路地の先に襲撃者の影を見て転進しようとしているのだと悟って、私は「そのまま進んでください」と拳銃を取り出し、にがしそうになって思わず出てきてしまったのであろうスーツの男へとフロントガラス越しに狙いを定めて何ら心を動かすことなく肩を撃ち抜いた。
……それから罠と分かりきっている道を進むはずもなく、すぐに現場を離脱したあとは彼の運転に任せ、都市部からは大分離れた郊外に用意されていた隠れ家へと連れてこられた。
……違う時代で生まれ、薄茶けた機械都市しか知らなかった男が、派遣業務でまだ本当の自然が生きている世界を目の当たりにし、感嘆の声をもらした。機動アーマーで広葉樹の梢が重ねられたアーチを潜り、冷たく澄んだ空気が木漏れ日の熱をかき混ぜていくのを肌に感じながら、所々が水中に没して行き止まりになっている粗末な木の橋を渡っていく。
しばらくすると土手を越えた窪地の入り口でたむろしている集団に出くわした。出で立ちには統一感がなく男女ともに一般市民という風であったが、何らかの組織に属するにせよ――機動アーマーの進路を防ぐ女の視線には軽薄な悪意があり、また退く気もない人間のために長いことエンジンを空ぶかしするつもりのなかった彼はそのまま彼女の足を踏み潰して進んだ。世界も現実も一枚岩ではないために単純に映る現実ほど多くの幻が含まれているものだが、ふと予感を抱いて途中で振り返ると同行していた仲間の何名かが何者かにさらわれていたことに気づく。
2012/10/3
主題:いつかそこにある場所。少女は汽車の中で殺されたのではなく、その旅の果て――星の塔の頂で殺された。
妙に手慣れた女プレイヤーが一周目のプレイで毒(易)~死(難)の状態異常耐性に数値を振り分けて備えていた。足りなかった数値は“トーナ”と共用のパラメータをいくらか下げることによって確保していた。
――気圧と温度の極端に低い、星の世界に近い高高度の空を飛ぶ飛空艇の貨物載積・搬入口で剣聖たちとともに最後の戦い。状態異常耐性が万全でなかったためにやられた者を見て、ああ、このために彼女は能力値より優先したのかと私は思ったが、首領とおぼしき黒衣の魔道師がvanishという見たことも聞いたこともない付加効果で仲間の一人を消し去ったとき、これは対策不能の技である以上勝利条件は全員消える前に倒せ――なるほど(無理ゲーだ)と理解した。
メモ:脳科学的な解析が進み、思念誘導コンピュータが普遍的なものとして広まれば世界が変わる。敵対者を葬る最も広範囲で有効な方法が、核や生物・化学兵器から認知撹乱(vanish)になる。……教育者の教育という課題も克服できるように見せかけることができるため、人類種の自然な発達可能性はこれで閉ざされる。
2013/10/XX
主題:人間の集合的性質を示す基盤について
以下はコンラート・ローレンツの古典「鏡の背面」を読んでの雑感である。
生まれたばかりの赤子がタブラ・ラサ《白紙》である、あるいは社会主義が夢想したように人間というものがその本性を離れいかようにも教育できる、つまり種として規定された学習のための基盤(たとえば人工知能のフレーム問題を思い起こせば、学習という行為の前提となる現実界知覚のための生理的器官が、その中枢神経系に与える情報を定義し制限することによって、必然的に学習の方向性と限界を決定していることが明確にわかるだろうが)など存在せず、学習のための基盤は全て後天的に学習によってつくられる、という論理は人間を知らない似非科学的人類学者の妄言であると思う。
彼らは、我々人類とゴリラやチンパンジーとの間にはおよそ1%しかDNA構成の違いがない、すなわち99%は人類種を形作る因子が共通であるという事実を否定するだろうか。その1%でおそらく我々は言語を支えとする明晰な概念体系を組み立てる能力を発達させ、獲得形質の伝統を積み重ねていく用をなしたとはいえ、上述のゲノム解析プロジェクトによる事実認識はユングの「元型論」が先端科学によって裏づけられる可能性を含んでいると言えないだろうか(ユング自身は彼の患者たちと古代人とに共通して表れた神話的イメージ言語の観察から、治療方針を決める基礎認識を他の医師たちと共有するために、この集合的無意識と名付けた層の理論を構築する必要に迫られたわけだが)。
また、時代や地域を隔てた異なる言語間で翻訳が可能であるということも、概念的思考や論理発達の仕方(すなわち1%うちの幾分か)に共通の基礎があることを示している。たとえば、「だけれども」「nonetheless」「dennnoch」といった主体が前節の正しさを認めながら後節でそれに反した態度をとる〝逆接〟詞と、「しかし」「but」「aber」といった前節の正しさは必ずしも問わず単純に後節で反することを述べる〝逆接〟詞は、その機能の複雑さにもかかわらず、また両者の区別をされて複数の言語(といって私は三種類しか知らないが)で存在する。
私が述べたいのは、およそあらゆる文化を維持するために必要な教育者の教育という課題はたとえその文化の理想とする価値が示されていても人間の集合・自然的性質への洞察を欠いては成功しえないだろうという忠言と、また物理法則から始まって生命が自らの秩序を形成・発展させていくために必要な可能性の種がすべて銀河が形成される以前に準備されていたということ(形而上学的に言えば進化を創造した神の御業)に対する驚嘆である。
ちなみに後者は経験科学の徒のはしくれとしての私が神を想う、そう言いたければ信仰の根拠であり、これは人間の心的活動の物理的基盤をなす脳の働き(神経の結ばれ方と化学物質の翻訳のされ方に依存する)を完全に解明して外部から操作をくわえることができるような時代になったとしても変わる事はないと思うが(もっとも私は、主体の認識する文字や映像や音声にfunctionalMRIで観測した神経ネットワークの活動部位を対置することで翻訳辞書を作れても、ミクロの現象の集積が自動的にマクロの秩序を導くわけではない以上限界があると疑っているが)、いずれにせよ今の私の経験と学識の狭さではどれも十分に語ることが出来ないのが残念だ。
20XX/10/XX
主題:Myplace
20XX年10月現在、世界は揃って内政立て直しの時期に入っている。この神秘的融即の状態から先に脱した国が競争に有利になるが、個人的に発達しただけでは鼻つまみ者になるだけであるし、いずれにせよ無限に開かれた可能性から進む道を選びとるのは自分自身の意志のみである。
イ・ビョンハさん(当時45)は理系へと進んだ私の鏡合わせの相似形で、絶望を研究への熱意に変えひたすらに走り続けてきて眠りたかった人だった。彼女は4基能と男性女性、実体と影――即ち個人の内向外向または外交内向の対として表れる鏡合わせの相似形――の組み合わせにより選択された16人格をプログラミングしていたチームのディレクターだった。去年の私との接触以降、自国の闇に深入りしすぎて分裂病とでも診断されたのか薬物を投与されつづけて植物状態に追い込まれたのか。その状態から復活することはないだろう、と彼女の同僚らしき人々(同じく脳を人格プログラムの実験材料にされた)が言っていたことが真実なら。彼らはMyplaceから研究者としての未来を奪った彼女の敵は狐の皮を被った狼であると告げていた。人間の脳を利用したVRゲームプロジェクトという道をとる以外、指導層が殺されずに人心を陶冶し、内政を立て直す方法がなかった彼の国の資源外交・海洋戦略を見極めていく必要がある。破綻が先か、立て直されるのが先かを。
――中野桜の兄になりたくて、私の歌が一番好きだと言って眠ったイ・パクハさん。双子の兄の彼は植物状態から眼を覚ます余地が残されていると彼の同僚が言ったが、妹が私に内情らしきものを伝えてしまった以上、そして私がそれを記してしまった以上、おそらく目覚める日は来ないのであろう。元の人生が消去された人格となって、永久にゲーム内の世界をさまよいつづけるのだろうか。あるいは、シックザールとして――イデア界を支配する戦略の歯車として?
20XX/XX/XX
主題:date of rebirth
罰による罪の贖い
1.酵素の働きを止めて死ぬ(風邪)
2.全身の電気信号(電子の運動)を止めて死ぬ(心筋梗塞、または心不全)
3.ドーパミンの放出のしすぎで死ぬ(麻薬中毒)
4.ヘモグロビンに一酸化炭素を結合させて死ぬ(喘息)
5.一生悪夢の中で中共的な拷問を受けつづけてショック死(心身喪失→植物状態→脳死)
6.塩基配列を組み変えないよう水素結合を切る
7.全原子を素粒子分解
8.街角で、取り巻きから順番に炭素原子のみ指定して圧縮(ヨハネ黙示録)
20XX/XX/XX
Theme : paradise I returned
Lay flat on my back, I feel around for my shattered sky. now pains are lost away, still stars blinking chilly, with no sound, among swishes of warm night breeze.
Though I pray for nothing, have conviction that the cosmos consists of vice or my activities are meaningless. and my attitude may seems having piety and sympathy with people in spite of having no sense actually. there's being lost morally responsible for society thus.
In other words――I live in Sin.
so, naturally, I came from abyss in depth and go across the street with horrow deepend. anyway.
Though I know can save humans are human.
幕は落ちない 悪夢も夢には違いなく、終わったと告げるのは言葉ではなく、
愛に血を流させた痛みも失せてしまうくらいなら――
仮現の身にいつに実を求めんとや
――我ダビデに誓えり。口に乗せし約束に偽りなしと。
永劫に繰り返される煉獄の中でヨブの罪悪を清めんことを。
006:Pigment Gold
「――解離性同一性障害」
「え?」
「僕の診断名」
「…………」
「君はわかるんだね。でも、僕は信じてない。というより、精神科医を信用できない。だけれど、だったらこのノートは何なのだろう、と思う」
「そう……いずれにせよ、私にとってのあなたは今こうして目の前にいるあなただわ」
――それに私、あんまり運命とかって信じない質なの。何を見せられてもね。
これまで面白い話を聞かせてくれたお礼だといって人もまばらなカフェテラスの席を立つ少女がくれたそれを、青年は手の中にまじまじと見つめる。
「黄金の……鍵?」
「ん――っていうかね、実はそれ、鍍金なの。本当はその鍵がどんな色をしているのか、誰も知らないわ。……なんて、表面がはげちゃえばわかるんだけどね」
と、彼女はまじめな話を茶化すような調子で言った。
「それはあなたにとって必要となるかもしれないし、ならないかもしれない――まあ、餞別だと思って受け取って」
餞別、という言葉に反応した青年が顔を振り上げる。私、もう行かなきゃ、と告げる少女に、
「どこかへ行ってしまうのか?」
「そうね。遠いところよ。多分、会おうと思ってもすぐには会えないわ」
青年は、そうか、と息をついて、わずかのあいだ目を閉じた。
「いつか君が言っていた使命――果たせる日が来ることを、僕も願うよ」
すると彼女は今度こそ、屈託なく笑った。
「使命なんて、そんな大げさなものじゃないってば。しいて言うなら、そう、研究よ。あなたとおんなじ、ね」
と、いたずらっぽくウインクをしてみせた。
「研究か……しかし、僕のは」
自分が既に監視対象となっていることがわかっていた彼は、漠然と抱えていた不安を見透かされたくなくて、まっすぐに彼女の目を見ていられない気がして、ほんの少しだけ視線を伏せる。
「……あのね、これだけは覚えておいてほしいんだけど。たとえ選べる道がひとつしかなかったとしても、結果までがいつも同じになるとは限らないわ」
――ずしりと重い感触。鈍く、力強く、沈みかけた陽光の色に輝く小さな鍵を見ながら、彼は。
「その重さは、あなたの心の重さ。背負うものが大きければ大きいほどより重く、そうでなければより軽く。想いの強さに応じて、その鍵はあなたに世界を開いてくれる」
そう、呪文のような言葉を呟いて少女は立ち去った。――それじゃあまたね。機会があったら、いつかまたどこかで会いましょう。彼女は後ろ背に手を振りながら、もはや返り見ることもなく去っていった。
それを見送ったあとで、彼はふと、我に返る。記憶の中に呼びかけようとしたところで、自分が少女の名を思い出せないことに気づいたのだ。
どんな表情で笑うか、呼びかけた時の仕草、こちらの質問にどう切り返すかまで、まざまざと印象に蘇るのに、どんな人間だったかは憶えているのに、彼女の名前だけがどうしても思い出せない。
名前のないひと。目覚めてしまったあとの夢のように、意識の背景へと遠ざかっていく――テーブルに残された二つのコーヒーカップが、彼女がたしかにここにいたのだと教えてくれているのに。そのカップのように中身だけが奪い去られて、もうどんな話をしたのかさえ心の在り処から薄れてゆく。
唯一残された、存在の証明は。
鍵は、青年の手の中にあった。
〝Recht,Nicht,Macht〟und〝im Fluss sein〟Sie sind gegenward...
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