自分にとっての「救い」を求め続けている

 いつも、自分にとっての「救い」を探した。
 自分の生きづらさの正体はなんなのか、どうやったらこれを飼い慣らすことができるのか。いつも喉が乾いたように、なにかを求めて回っていた。

 いつもうわべだけの付き合いしかできず、本音で人と付き合うことが苦手だった。
 なにをもって「友達」とするのか、いつも考えていた。人間関係は長続きせず、学校を卒業したら疎遠になる人がほとんどだった。表面上は付き合えるけれど、「親友」と呼べる人ができなかった。
 地元の成人式にもいかなかった。同窓会も誘いを断った。

 恋愛感情は昔から薄かった。あこがれの延長のようなものだった。友人らの話についていくことに必死で、異質だと排除されることを恐れた。最初は自分が同性愛者、もしくは両性愛者かと思った時期もあったが、そもそも人に対する「好き」という共通の感情を持ち合わせていないかもしれないという恐怖が襲った。中学の頃に同性愛者の友人ができたのだが、その方たちはやはり特定の人に対する強い愛情を持っており、性別が違うだけで異性愛者の子となんら変わらないように見えた。

高校生になると、排除されることを防ぐために、あえて下ネタを言うキャラになった。性行為は嫌いになった。もともと性欲が薄いせいか、嫌悪感が強くなった。自分を生み出した行為をすることが苦痛になった。性的快感を感じる自分にひどい嫌悪感を覚えた。
 高校の部活では、女であることを後悔させられるばかりだった。自分が望むような、かっこいい姿には一生なれないのだとわからされた。生理不順で子宮を壊しかけた。男尊女卑の伝統が残る部活だったので、女だから人前に立てないと言われた。頑張って努力する自分より、同期のちょっと抜けててかわいげのあるやつのほうが、先輩にかわいがられた。現にわたしは上の役職にはなれなかった。

 臨床心理士になりたくて、大学で心理や福祉を学んだ。困っている人の力になれる人間を目指した。自分は支援する側ではなく、支援される側なのだと、学べば学ぶほどつらくなった。仕事にすることはできなかった。
 
 部活に入ったけれど、純粋にその活動を楽しむというよりも、同じ環境にいる仲間とつるむ心地よさを求めている人が多くて辟易した。運営のシステムに異論を唱えたかったが、馴染んでもいない新人が意義を唱え、排除されるのが怖かった。参加していない合宿の費用を払った。一回きりだったが初めて親に金を催促し、惨めでつらかった。経験者でもないわたしは、怒られ、下手で、なんでここにいるのかわからなくなった。
 
 「HSP」という言葉に出会った。ネットでの診断ではかなり高得点で、共感することも多く、おそらく性質は持っているのだろうと感じた。HSPについての情報発信を見聞きするようになった。最初こそ楽しかったが、だんだんと「HSPは普通の人生を目指さない方がいい」「芸術系などクリエイティブな仕事がいい」「一軒家を買った方が良い、賃貸は騒音問題などで向いてない」「会社勤めは辞めよう」などのアドバイスが、まるで自分は普通に生きていけない、みたいに言われているようでつらかった。また、そこのコメントなどでの「内輪感」がつらく、「私たちは繊細なので」「鈍感さんはひどいですよね」などという、繊細ではない人を排除する姿勢が好きになれなかった。

 近くでコミュニティカフェができたとのことで、興味があって行ってみた。代表の方と打ち解けて、お手伝いさせてもらえることになって嬉しかった。だが、居るうちにつらくなった。まず、代表の方は資格こそもっているが、スピリチュアル系の方だった。複数人で運営していたが、どうもうまくいっていないようだった。違和感が少しづつ積もっていったとき、あるイベントで、「発達障害の人は、私たちや社会になにかを伝えるために産まれてきたのです」と言われ、行くのを止めた。そういった、都合の良い考え方が嫌いだった。

 母親と母方の祖母が、日蓮宗だった。月に一回、日曜にはお寺に連れて行かれ、何時間も正座をして勤行をした。何の意味もわからず、周囲に子どもはほとんどいなかった。お坊さんの話もさっぱりわからなかった。友人からの遊びの誘いも断らなければならず、こんなことをしているなんて言えなかった。私になにかあるたびに「おばあちゃん勤行したからね」と言われ、中学の時に私が足首を捻挫したときは、「勤行してないからバチがあったのだ」と小言を言われ、こころが折れた。静岡の総本山に、1日かけて新幹線と観光バスでつれていかれ、毎食幕の内弁当を食わされ、寺についてから、寝る前、夜中2時、朝起きて、それぞれ勤行をした。(子どもだったので夜中のものは免除された)せっかく静岡に来たのに、観光もできず、それっぽいことはお土産にくりせんべいを買うことぐらいだった。幕の内弁当に入っている煮物の人参が嫌いになった。知り合いはおらず、話の通じない母と祖母と話すしかできない。信仰は私にとって地獄だった。

 「生きづらい」というとよく発達障害や知的障害のことがあげられるけれど、残念ながらわたしにはその傾向がないらしい。中学の時、知能検査を受けたが、「普通よりIQ高いですね」と偉そうな精神科医に言われた。高校の時、母親に「うつ病は二次障害! お前は発達障害だ!」と言われ、地元の大きな児童精神科に連れて行かれたが、ヒアリングを受け、「お子さんの場合ですと、まずうちの先生にかからなくてはならないですし、先生も検査をOKするかどうか…それに検査は6ヶ月待ちですが…」とやんわり断られた。受験もあるしさすがに諦めた。残念ながら、母親の発達障害は遺伝しなかったというわけだ。

 知人に紹介された、「精神障害者に育てられた子どもの会」というものにオンラインで参加してみた。いろいろな人がいて、共感することも多く、満足はした。しかし、どこかで猛烈な虚無感が襲った。なんだか悪い心地がした。自分がしたことは、結局親の悪口大会だったのかもしれないと感じた。そしてなにより、もしわたし自身が子どもを産んだとき、「こんな親に育てられてつらかった!」などと言われることになるのだろうか、と思うと震えた。自分のしたことが恥ずかしく思えた。当事者の会に行くのはやめよう、と思った。

なんのために、いったいどうして、自分は産まれてきてしまったのだろう。
 どうも自分に「これだ」というような、決定的なものが見当たらない。いつもなにかを探している。
 結局、未だに、「救い」は見つからない。

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