パン職人とデザイン言語1)

自分のお店はパンと洋菓子の製造と販売がメインです。祖父の代からこの地に来て90年ほど経つ店を経営している。大学を終えて跡継ぎで帰郷し現在に至る。経営学部で商売とも関係深い専攻だったが、特に将来的な目標があったわけでなく、身辺の事情も考えつつ入れるところであれば、といった消去法的選択だった。

小さい頃から運動も絵も音楽も得手で、小学校時代は学芸会で独唱、劇の主役、運動会のリレーの選手と活躍続きの児童生活。小学校後半、父と叔母(高校教師に嫁ぐ)の関係で、中学の美術の先生の元、1年間美術の家庭教育を受講した経験がある。絵とか美術、デザインへの興味はそれがきっかけだったろう。

中学に入ってすぐにその先生が担任だった。もちろん美術部への入部を進言されたが、運動が好きだったので先ずは卓球部、剣道、陸上と変遷、美術部とは無縁な中学時代、高校でも3ヶ月弓道部に在籍したあとはバスケット三昧。38歳まで、帰省後も街の一般クラブで活動、バスケ協会々長も解散まで25年も勤め上げた。

パンやお菓子づくりの修行は、もちろん自営業ゆえ、基本的なことは先代から引き継ぐ手習いである程度までは習得できてる。時代の流行を学ぶには、季節ごとに設けられる問屋とメーカー主催の講習会で学ぶことができた。

メーカーは新製品のためのレシピーを用意し、講師の実演を手伝いながら新製品を仕上げ、完成品を持ち帰り自社で復習して身につけ、店頭に並べる訳だ。

帰省して間もない頃、きっかけは町の姉妹都市、ブラジルのバストス市の親善大使で選ばれ、さあ来年と言う時、町の担当者が2名分の予算を1名分しか計上せず中止と相成り、翌年、その余剰金が海外渡航者の助成金に変更されたことを耳にし、運よくフランへの菓子研修旅行案内が届いたのを機に申し込み、半額の助成を受理して海外渡航を経験することができた。

帰国後、海外渡航者の会が設けられ、副会長として数年活動を続けた。先の親善大使は、海外からの大使を持て成す若人集団・二世会の一員だったことから、同じ会から2名が選出されるという経緯があった。

その若人集団でも若手なのに、数年で副会長に選ばれた。理由は、飲み会ばかりで退会したいとゴネたことで、じゃあ、何か希望があるの?との問いに、研修の方をもっと充実させて!と応えたのが運の尽き、毎年、社会勉強を兼ねて、時代の先を学ぶべく様々な研修会を催すことに。

卒業年齢は40才までだったが、当時世界的なコンピューターブームが始まっていて、会に入会したままではその勉強に乗り遅れそうと判断し、38才の春に中途退会。結果的にそれが、その夏、当時の世界最先端のコンピューター、マック(Apple社)にこの田舎で出会えるきっかけになろうとは予想だにしなかった。

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