「かわいそう」と言わないで

 私の娘は生まれつきの障害児なので、NICUを卒業した生後4ヶ月の頃から、継続的に大きな病院にお世話になっている。病院から借りた、娘の体にはまだ大き過ぎるバギー(ベビーカー型子ども用車椅子)に、小さな小さな娘と、おむつと着替えと経管栄養のグッズと、吸引機と酸素ボンベとそれからパルスオキシメーター、という土曜日のあおむしもびっくりの大荷物を乗っけて歩くことは、大変だったけれど私にはとても嬉しく、誇らしいことでもあった。だって私の娘は、私の念願の赤ちゃんで、大学病院の患者の中でもひときわ小さくて可愛いから。

 娘は経鼻経管栄養をしていたので、鼻から細い管が出ていて、それをほっぺのところに医療用テープで留めている。一目で「医療用の何かがついている」とわかる見た目だ。けれどそれが何なのか、何のためのものなのかを知っている人は、それを使う必要がある人を除いては、あまりいないのではないかと思う。

 たいていの人は、小さい娘を見て微笑むか、「可愛いねぇ」と言ってくれるのだけれど、二度ほどすれ違い際に、「小さいのに、かわいそうに」と言われたことがある。一度目は病院の事務員の制服を着た若い女性、もう一回は病院の患者さんであろう、お年寄りの女性に。初めてその言葉を聞いた時、私は少し困惑してしまった。そうか、うちの子は、かわいそうなのか。赤ちゃんなのに、病院通いをしているから?障害をもって生まれたから?こんな不自由な身体で、生きているから?

 沢山の疑問が頭の中をぐるぐる回って、私は考え込んでしまった。

 言った人に全く悪気はなかったと思う。こんなに小さいうちから病院通いをしなくてはならない娘の身の上に、純粋に同情してくれただけに他ならない。そしてその人たちは、たまたまその同情の心の声が、外に出ちゃうタイプの人たちで、たまたまそれが私の耳に届いただけのことだ。だから、私も余計な深読みをしないで、気にしなければ良いことなのだけれど、でもやっぱり私の性格上、少しモヤモヤしてしまって、2回目の女性にはこう言い返した。「かわいそうじゃないです。これがないと死ぬので。」その方は歩き去ってしまっていて、私の声が聞こえたかどうかはわからない。何も言わないよりは、少しだけマシな気持ちだったけれど、私は別に何か言い返したかった訳でも、喧嘩したかったわけでもないので、得体の知れないモヤモヤは、しばらく心に残った。

 世の中には、普段自分に見えているよりたくさんの、障害をもった人たちがいる。成人した障害者も、初めから大人だったわけではなく、みんな初めは可愛くて小さくてすごく手のかかる、赤ちゃんから始まったのだ。そして健常者よりも簡単に地球を離れてしまいがちな、全てのものごとの絶妙なバランスの上に保たれているその命を、失うことなく大きくなった人たちは、当人も周りの人たちも、みんな戦士だ。障害があることと、それに折り合いをつけたり、医療の力で補ったり、ときに強く抗ったりしながら生きることは、大変骨の折れることではあるけれど、当事者にとっては「普通」のことで、それが我々にとっての日常の、当たり前の景色だ。

 娘は出生直後から、お医者さんや看護師さんやセラピストさんたちをはじめとする、たくさんの人たちの手を借りて生きている。彼らは皆、娘にも私にも優しく温かい手を差し伸べてくれる。そしてなによりも、彼らがその手を動かす動機は、紛れもない純粋な「善」だ。何の下心もなく、当たり前のように坦々と、目の前のこの子にとっての最善を尽くす。そうやって働くたくさんの人たちに出会えたことは、かけがえのないことだ。不自由な身体に生まれたこと自体は「不運」と呼ばれる類のことなのかも知れないけれど、世の中には一定数障害をもつ人はいて、たまたまそれに私の娘が、当選してしまっただけのこと。それは単なる事実で、良いとか悪いとか、幸とか不幸とか、そういう風にカテゴライズしなくていい。

 鼻から管を出していることも、病院に通わなくてはならないことも、「普通」よりはもちろん手がかかるのだけど、それは「かわいそう」とはちょっと違う。そうやって医療の進歩に生かされていることは、人間の進化の過程の一部だし、そうやって生きている娘と、それを傍で見ていられる私は、本当にラッキーな、恵まれた人たちなんだ。

 だから悪気がないのはわかるけれど、「かわいそう」と一言かけて去ってしまわないでほしい。そのかわり、もしほんの少し時間があったら、娘を見て聞いてほしい。「その管は何?」そうやって少しだけ、娘のような子どもたちのことを知ってもらえたら嬉しい。それから、もし可能なら他の赤ちゃん達と同じように、こんにちは、可愛いね、って話しかけてもらえたら、(さらに、頑張っているね、偉いね、とでも言ってもらえたらなおさら)私はその日1日を、天にも登るような上機嫌で過ごすことができると思う。だって私はひとりの親バカな母で、娘の一番のファンなのだから。

 私の娘は障害をもって生まれた。その事実と、彼女が私の大切な宝物であるということとは両立する。彼女は家族にとても愛されていて、たくさんの人の温かい手に守られている、ひとりの幸せな子どもだ。だから、「かわいそう」とだけ言い残して歩き去ってしまわないで。目を背けないで、少しだけ近くにとどまって、優しい気持ちで見守ってもらえたらありがたいな、と母は思うのだ。

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