障害児親の就労を考える

 私はフルタイム勤務をしている。朝早くから夜遅くまで、普段は職場と家の往復しかできないような生活を、子どもが生まれるまで15年ほど続けていた。そして子どもが生まれてからも、もちろんそれは続くのだと、当たり前のように思っていた。

 娘が生まれて、どうやら重い障害があるらしいことがわかると、私の母がぽつりと言った。「あんた、仕事辞めないといけないよ。」なんで?私には母の言う意味が分からなかった。なんとかなるでしょ。保育園も、頑張って探せば見つかるでしょ。大丈夫よ。

うちの娘は重度の心身障害児であり、医療的ケア児である。当時彼女に普段必要だった医療的ケアは、経鼻経管栄養と吸引、たまに酸素投与。酸素が必要になる時は、たいてい風邪をひいているとか、体調が良くない時なので、普段はほとんど必要がない。医療的ケアとしては、さほど重くないと私は思っていた。

 私の育休が切れると同時に、夫が介護休暇を取ってくれたので、その間に保育園を探そうとしたのだが。保健センターの保育園担当の方に話を聞きに行くと、リストを指差しながら「障害児を受け入れている保育園はこことここの二か所ですね。ご自分で電話をかけて、アポを取って見学に行き、入園の許可が降りたら役所に申し込みしてください。」と教えてくれた。内定をもらわないといけないのね、なるほどね。これは子どもが健常でも同じこと。選択肢が二か所しかない、ということ以外は。

 時期を見て、夫から保育園に連絡を入れてもらった。1か所は「今看護師がいないため受け入れしていない」と言われてしまう。もう1か所は、夫が電話をかけたところ、「今のところ人数に余裕はありませんが、一応申し込んでみてください」的なアンサーをいただいたんだったかな。時期が悪くて見学に行けないままだったような気がする(記憶が曖昧)。とにかく、大丈夫ですよ、うちで預かれます、という保育園はひとつもなかった。

 そんな中、リハビリ入院で知り合った若いママさんが、「医療的ケア児の保育モデル事業、募集しているみたいですよ!応募してみては?」と耳寄り情報をくださった。これだわ、これ!きっと大丈夫!私たちは意気揚々と申し込み書を取り寄せ、大急ぎで記入を済ませて提出した。ほら、時代は進んでいる。医療的ケア児も預かってもらえる時代になったんだ。障害児が生まれたお母さんだって働けるんだ。医療的ケア児支援法だってできたんだから。きっと大丈夫。とはいえ、そのモデル事業の定員はたったの1名だった。あまりにも、狭き門である。

 応募者が何人いたのかはわからないが、ラッキーにも娘はそのたった一つの枠を手に入れた。ここから娘と一緒に、働く障害児の親たちを取り巻くこの厳しい状況に、小さな風穴を開けよう。晴れて、私たちの共働き&医療的ケア児育児の両立が始まるはずだった。しかし、保育園からの電話で、預かり時間は9:00から16:00までです、と言われてしまう。「それでよろしいですか?」私は大体朝8時から夜6時過ぎまで職場にいる仕事。夫はシフト制で時間が定まらない。それでは生活が成り立たない。全然よろしくない。

 私の仕事は時短勤務ができるので、例えば朝1時間始業時間を繰下げてもらえても、送りはギリギリか、ちょっと厳しい。お給料は下がるけど、パパが復職するからカバーできるね。お迎えはデイサービスに頼んで、少し遅くまでそこで過ごすことができるみたい。帰宅してからの家事?娘のお風呂は?訪問看護師さん何時まで来てくれれるんだろう?ヘルパーさんを探さなきゃ。パパは?仕事の融通きかせられる?どれくらい?

 驚くべきことに、私が夫から得た答えは、「離婚しよう」だった。復職したら、元々寝る時間の少ない仕事なのに、家事や子どもの介護が加わることで、仕事と身体に差し障りが出るからだそう。あ、そうですか。それでは無理ですね…。

 夫は育休中の私が、娘のモニターアラームが聞こえないくらい寝入ってしまっていたら(当時の私の睡眠時間は、細切れで1日トータル5時間あるかないか)、別室で寝ていてもドタドタと起きてきて、寝ている私に声を荒らげて「一緒に暮らしていると俺の寝る時間が減るから、別居しよう」と言い捨てるような人だった。だから「思い通りにならない時に声を荒らげるのをやめてほしい。それができないのなら離婚を考えてほしい。」と先に言ったのは私だ。しかしそれは夫の介護休暇が始まる前のこと。私に至らぬ点が沢山あることは事実だし、きっと夫にも言い分があるだろう。でも今、この大事な時にこの話を爆弾のようにぶつけてくるなんて。こんなに協力が必要な時に、協力どころか私を傷つけて、いなくなろうとしているなんて。いいや、離婚しよう。私の中で何かが、ぷっつり切れてしまった。「もういい。」

 夫はまるで、会社に退職願いを出す人のように、「1か月後に出て行きますから」と宣言した。しかも彼は自分の介護休暇が始まった頃には既に、休暇が明けたら出て行こうと決めていて、終わりが決まっていたから頑張れた、これ以上は頑張れないのだと言う。私はてっきり、夫は名誉挽回も兼ねて娘のケアと家事を頑張ってくれていて、介護休暇が終わったら、お互いの苦労をねぎらい合って、協力してこの先も一緒に娘を育てていけるものだと思っていた。しかし夫は、密かに毎日カウントダウンしながら、8か月もの間、何食わぬ顔をして生活していたのだ。こういうところが、本当にもう無理だと思った。私に対する愛情も共感のかけらもなければ、この先の娘の安全を確保することもなく、ただただ全てを私に押しつけて、自分はひとり自由に暮らしたいということね。先に「離婚」というワードを口にした私に対して嫌がらせをしたかったのだとしても、嫌がらせのレベルを超えている。その被害は私だけではなく、娘にも及ぶのだ。家で娘をケアする大人の人数が、半分になるのだから。

 どう考えても、保育園の9:00-16:00の預かり時間では、私はフルタイムで働くことはできない。私はこの子を守らなくてはならないし、夫と2人で支払っていくはずだった住宅ローンも、まだほとんど残っている。仕事の合間に、考えうる全ての相談相手に電話をかけ、助けてください、生きて娘を無事に育てるためにはどうしたらいいでしょうか、と泣きながら答えを求めた。

 フルタイム勤務しながら、在宅で娘の育児と介護を一人でしたら、早々に私は倒れてしまう。それは数年先とかの将来ではなく、下手したら数週間単位の短いスパンで。私がいなくなったら娘は1人だ。この子は自力では生きられない。この子を将来も安全に見てくれる人たちのところに、繋いでおかなくてはならない。今すぐに。

 娘を施設に入れることにした。施設には空きがなかったが、緊急性が高いとして、ウェイティングリストの前の方に、名前を連ねてくださるという。その施設に入るにはまだ娘は小さすぎるので、年齢がいくまでは子ども病院に入院させてもらうことになった。そしてそこで、嚥下の機能やリハビリなど、今の娘に必要なあらゆることをしっかり診てもらいながら、施設に入れる準備をしよう。

 思いがけぬタイミングで、幼い娘を手放すことになってしまい、私は戸惑っていた。しかし時間がない。なにせ夫は本当に出て行ってしまったので、私が動かなければ何も進まないのだ。急遽ほぼ毎日、朝からデイサービスに娘を預かってもらい、暗くなるまで仕事と入院の支度をし、娘を迎えに行って家事と入浴と注入をして寝かしつけ、夜中に大量の子供服と持ち物にお名前をつけて、3週間ほど後に何とか娘を子ども病院に入院させることができた。

 幼い娘を施設に入れるなんて、私は冷たい母なのかもしれない。でもほかに、どうやって生き延びることができただろう。仕事を辞めて、家と車を売り、生活保護を受けながら一人で育児と介護をすれば良かった?車がなければ娘の通院だってできない。それが、果たして正解だったのだろうか。それで娘を幸せにできるんだろうか。いくつもの疑問が、頭の中を去来する。

 そしてせっかく手に入れた、娘が保育園に通うたったひとり分の権利を、私たちは手放さなくてはならなかった。園長先生にお断りの電話をかけ、事情を説明しながら、私はまたも声を上げて泣いてしまった。娘を保育園に通わせたかった。色んな人に娘を見てもらいたかった。こんな子もいるよ、みんなと違うところもあるけれど、みんなと同じ大切な子どもだよ、と沢山の地域の人たちに知らせたかった。

 あの日母が言った「仕事を辞めなければならない」という言葉の意味が、今になってわかる。きっと多くの障害児のお母さん達が、仕事を諦めるか、フルタイムの仕事からパートに転職するかして、子ども達を守るしか方法がないんだ。(もちろん、お父さんのパターンもあると思う。まだ少ないけれど。)これまで長い間ずっとそうだったし、医療が発達したおかげで医療的ケア児の数が増えた今でも、社会の受け皿はあまり変わっていないんだ。医師や看護師などの資格のあるお母さん(やお父さん)たちが、訪問診療やデイサービスの仕事に転職したり、あるいは自分で事業所を立ち上げたりしている例も、たくさん見た。障害児の親になると途端に、子どもの預け先がなくなり、結果として仕事の選択肢が極端に少なくなってしまう。同じように妊娠して、同じように子どもを産んでも、偶然わが子に障害があることがわかると、途端にこれまでの居場所を追われてしまうのだ。「障害児が生まれた人はこっちのコースですよ」と言われているみたいに。

 結果として、私はフルタイム勤務を辞めない障害児母となった。けれどこれは例外中の例外だし、何より、大事な娘はもう私の手元にいない。将来誰かのお世話にならなければ生きられない娘だから、今から色んな人に慣れておくことは、決して悪いことばかりではないんだ、と自分に言い聞かせる。幸運にも、娘の周りにいる医療者の皆さんは、とても良くしてくださっていて、娘は今安全に守られ、可愛がられていることがわかる。

 娘の面会に行く度に、看護師さん達に「娘ちゃん、甘えん坊ですね」と言われる。誰かが近くにいないと、寂しがって泣くのだそう。「これまで家で姫のように育てたので」と冗談混じりにお伝えする。そうやって娘が、家族以外の人たちにも、甘えて自分の気持ちを伝えられて良かった。

 でも本当は、私はもう少し娘と一緒に暮らしたかったし、今も私の可愛いプリンセスのことを思って、少し泣いてる。障害児育児と親の就労を両立させることは、不可能なのだろうか。娘のような子ども達を、安心して預けられる保育園ができるとか、あるいはフルタイムワーカーたちの働き方改革が進んで、もっと全ての人たちに余裕のある生き方が可能になるとか。自分の手で子育てがしたい/できる人と、誰かを頼りたい/頼らざるを得ない人と(それは障害児の親に限ったことではなく)、世の中には生活者全員分のスタイルとニーズがある。全ての需要と供給がぴったり合致することはないとしても、今のこの、選択肢がほとんどゼロという状況は、何とかならないんだろうか。

 そして考える。私たちは、何とかならなかったんだろうか。一体どこまで遡って、どの過去を変えることができたら、こうならずに済んだのだろう。答えのない問いを、頭の中で何度も繰り返す。人生は一方通行だと、わかってはいるけれど。

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