別れはたくさんのありがとうだった

 娘はまだ小さくて、しばらく入院で自宅に帰って来られない日が続いたので、葬儀場へは行かず、自宅でお別れをすることにした。ずっと家から離れて心細い思いをしていたのに、さらに知らない葬儀会場へ連れて行くというのは、いたたまれないと思ったから。

 自分が誰かの葬儀を挙げる日が来るなんて、この歳まで一度も考えたことがなかった。けれどそういう機会は、本当に突然訪れる。私は戸惑いながら、ネットで検索して見つけた地元の葬儀会社に電話してみた。電話に出たのはそこの社長さんだったらしく、素朴な口調で淡々と、あれこれ親切に教えてくださった。「何軒か電話をかけて比較をする人も多いですよ。」と教わったものの、私にはそんな気力がなかった。社長さんが飾らない人柄の方のようで、この人はきっとぼったくりはしないだろうと感じて、私はその会社に葬儀のあれこれをお願いすることにした。段取りのほとんどは、葬儀会社の方たちに教えてもらった。さすが、プロは手際が良くて何でも知っている。

 娘はとても親孝行で、本来なら火葬になる日が友引だったために、日程が1日遅れになった。1日長く、娘と家にいられる。それは本当にありがたいことだった。私には娘とお別れするのに、時間がたっぷり必要だったから。病院で数名の看護師さんたちに見送られ、葬儀会社の方たちと共に、娘を連れて帰ってきたのは、その日の夜遅くのことだ。

 かつて一緒に楽しい時間をたくさん過ごした我が家に、娘がやっと帰って来た。けれど、もう二度と目覚めない娘に、家にいることが伝わるのかな、本当は生きて帰って来て、また一緒に過ごしたかった、と何度も何度も、何度も泣いた。泣きすぎて目が腫れて、顔がゆがんで、頭がズキズキと痛んだ。

 母が食事を用意してくれた。梅のおむすびと筍の煮たの。私は胸が苦しくて食欲は全然なかったが、目の前に出してもらった食事を少しだけ口に運んだ。孫を亡くして自分も憔悴している母の、私への優しさが胸に沁みて涙が溢れた。両親は、娘の隣で寝る私の近くに自分たちの布団を運んできて、娘がいる間は私たちと一緒に寝てくれると言う。ひとりじゃなくて良かった。両親が側にいなかったら、私はどうやってこの痛みを乗り越えたらいいんだろう。

 娘が帰って来た翌日には、知らせを受けた親しい人たちが、私たちに会いに来てくれた。訃報を聞いてすぐに駆けつけて、一緒に涙してくれる人たちがいることが、ただただありがたく、心が慰められた。昼前から夜にかけて、誰かかれかが訪れてくれたので、私は泣いたり話したりハグされたりしながら、1人きりでないことに、とてつもなく感謝した。

 その日の朝には、娘がお世話になったデイサービスの方たちから、「娘ちゃんはその後いかがですか?」と偶然メールが来ていた。事情を返信すると、職員の方たち二人が飛んで来て下さった。「昨日ちょうど娘ちゃんの話をしていたんですよ。」と言う。娘はデイに通うのが大好きだったから、きっとお知らせに行ったんだ。虫の知らせというのは本当にあるんだな、と思った。デイの方たちは娘の棺を覗いては口々に、「かわいいね。」「かわいいわ。」「やっぱりかわいい。」と泣きながらかわいいを連呼し、娘がそこで本当に可愛がっていただいていたことを改めて感じて、私は胸が熱くなった。そうなの。うちの娘は可愛いの。私の人生の最高傑作なんですよ。

 友引の日の朝、棺にもたれて小窓から娘の顔に見とれていたらふと、「あと一日あるのに、皆さんに連絡しないのはもったいないな。」と急に思いついてしまった。その日来ていただく予定があった以外の、娘がお世話になった訪問診療の先生方や看護師さん、療育園の先生方、病院のPTさんたちに、ダメ元で電話とメールをしてみた。棺に収まってしまった可愛い娘の眠る顔を、娘をよく知っている人たちに見てほしい。それはもはや私のエゴにすぎなかったけれど、来られるか来られないかはわからないし、とにかく普段着で、何も持たずに、何時でも良いから、できたら娘の顔を見に来てほしい、本当に可愛いので、とお願いしてみた。

 誰か2、3人、娘が知っている方が来てくれたら、きっと娘も嬉しいだろう。それは私が自分を納得させるための行為なのだと、頭ではわかっていたけれど、そうせずにいられなかった。だって娘にはあと1日しかないんだもの。後から手紙でお知らせしたところで、お互いに気持ちのやり場がわからなくなってしまう。あるいはお知らせする気力さえ湧かないまま、二度と会えなくなってしまうかもしれない。わがままを許して。最後のチャンスだから。

 その日は、皆さんにとってはとても忙しい、週の半ばだったというのに、それぞれが都合をつけて、お昼過ぎから夜遅くまで、本当にたくさんの方が娘に会いに来てくださった。「娘ちゃん、ありがとう。」「娘ちゃん、かわいいね。」「娘ちゃん、楽しかったね。」「娘ちゃん、がんばったね。」娘の棺の周りには、娘をイメージしたという白やピンクや黄色やオレンジの、心のこもった美しい花が次々に届けられ、娘が亡くなってさえいなければ、それはそれは華やかな、同窓会みたいな賑わいになった。私が娘の「第二の母」と呼んでいる、生後4か月でGCUを退院したその日からずっとお世話になってきた訪問看護師さんは、弔問客であるにも関わらず、玄関の応対やら、お花の受け取りやらで、何気なくひっきりなしに動いてくださり、私にとってまるで心の親戚だった。

 娘の人生は本当に短かかったけれど、彼女はこんなにたくさんの優しい方たちに出会って可愛がっていただいた。そして娘を通して私もまた、皆さんと出会い、たくさんのことを見聞きし、学び、たくさんの楽しい思い出を作ることができた。

 お世話になった多くの方々に直接「ありがとう」を伝えられて、私は心が少し救われるような気がした。そしてその方たちからも「娘ちゃんに会う機会を作ってくださって、ありがとうございます。」と口々に言っていただいて、たくさん泣いてたくさん笑う、とても素敵な、奇跡のような1日になった。

 私の娘は、本当に親孝行だ。娘の肉体は先に天に帰ったけれど、そして私は今も胸がちぎれそうなくらい、悲しみに暮れているけれど。娘の楽しい思い出が、たくさんの方たちの心に残ってくれたら、私は本当にありがたく思う。皆さんとの思い出の中に、いつまでも娘が楽しく遊んでいてくれたら、娘の居場所がいろんな人の心の中にあったら、これ以上嬉しいことはないと思う。私は本当に、親バカな母だ。救いようがないほど、今日も娘を愛している。

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