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YOASOBI武道館ライブ公式レポーター認定試験

問1.
①[B]
②[C]
③[A]
④[B]

問2.
①[おはようございます。]
②[D]
③その日の午前には、彼がコンビを組む営業担当が変わることに際して顧客をめぐる必要があり、そのあとの処理などが長引いてしまえば、進級テストを見に行けないかもしれないから。

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問3.
-選んだ楽曲タイトル[ラブレター]
-その曲とあなたの出会いやその曲に対する思い入れ

この曲の、この歌、この音、この詞、過去の私なら、
泣きそうなくらい身に沁みて聴いてはいないとおもった。

音楽とか無駄、なんて主張を当時小学生の私は持っていた。
歌が下手で恥ずかしい、先生が怖い、リコーダーよくわからない、小学校の音楽の授業が大嫌いだった。
だから、八つ当たりでしかないけど、嫌な授業があるのは音楽があるせいと、音楽自体を嫌った。
将来役に立たないからいらない、と賢そうに否定できる面もあって、そんな主張をした。

けれど、中学生になった私が所属したのは吹奏楽部だった。
中学入学してすぐ、威圧的な運動部の上級生に、挨拶の声が聞こえない、と廊下で絡まれたりして、
穏やかそうな吹奏楽部をなんとなく選んだ。

楽器はやってみればそれなりに楽しかった。
音楽を嫌っていたというよりは歌を嫌っていたのだと思い直した。俗っぽいと特にJ-Popを批判的に嫌った。
同級生が教室でJ-Popのことを大きな声で話しているのが何か押し売りのように感じて日々嫌っていった。

吹奏楽は惰性で高校でも続けたが、
大学では完全におさらばした。

価値観が大きく変わることがあったのは、社会人になって3年目になろうかという3月の末だった。
このころは、炎上気味だったプロジェクトの遅れをリーダーから毎日厳しく指摘されていた。
指摘の山に仕事に身が入らず、手は進まず、頭の中はぐちゃぐちゃ。さらに指摘される。
悪循環に陥って成果はほとんど出せなくなった。
役に立たないからいらない、子供のころの音楽への主張は、大人になった自分自身にも突きつけられていた。
つらく消えてしまいたい、自分とか無駄、価値ない、日々そう思った。

そんな日々の中であるアーティストが3月の末に武道館で公演すると知った。
ライブなんてほとんど行ったことないのに、そのときなぜか行こうと思った。
このころの言動は意味不明だった。
手に入れたチケットの席は2階席の上の方だった。

場違いかもしれない。
漠然と居心地が悪く感じて開演前の会場を2階席から見渡せば、
色んな人があちこちにいて日常の延長のようにも思えた。
でも、体験したものは違っていた。

暗転し静まり返った場内、期待と緊張に満ちた空気の中、突如ライトがステージを照らす。
照らされたステージにはアーティストがあらわれ、静寂は興奮へと一瞬で沸騰し、観客の歓声が響き渡る。
エネルギーに満ちた音がいくつも放たれ、音は場内の隅々まで届き、高まる興奮が歓喜溢れる熱狂へと変わる。
光と音と熱狂が空間を支配し、武道館は数分前と別空間になった。
私は自分が自分であることを忘れた。

熱狂した会場は再び静まり返る。
語りかけるように言葉を音にのせた歌声が、しんとした会場に響く。
すすり泣くような声が聞こえてくる。
最後の一音が優しく消えて、やわらかな拍手が湧く。
自分は場違いでないことに気づいた。

アンコールが終わって、
終演後もしばらく茫然としていた。

圧巻だった。
自分は音楽の可能性を知らなかった。
知らずに生きてきた。気づけなかった。
体中の全細胞はこれまでにないほど高揚している。
とても巨大で力強い存在、それと初めて出会った気がした。

まさに全否定されたようだった。
目の前の音楽は、圧倒的力を持って私の思考を徹底的に打ちのめして、本心をあらわにさせた。
私はずっと、音楽もJ-Popも嫌いではなかった、ずっと好きだった。

子供のころから何もうまくできない自分が特別なのだと思いたかった。
でも、特別なものには簡単になれない。それを認めるのは苦しい。
取った方法は、何かを批判して自分が何かよりも優位で特別と錯覚することだった。
選んだものが多くの人から支持されている誰でも身近にある音楽だ。
一番身近なJ-Popを特に強く批判するために何かしら理由を見つけて嫌ったふりをした。

だけど、音楽は心にまっすぐに飛び込んできた。
特にJ-Popは歌詞まで意味が分かる状態で素直に飛んでくる。
まっすぐや素直というのは、このひねくれた思考を保つには最大の脅威だった。
良いと思うからこそ、後に引けないほど強く否定した。

何に対してもそんなだった。そんなことは空虚そのもの。
何年にわたって変に批判的、主体性のない人間ができた。
理性が保てなくなる直前まで本心を攻撃した。

急にライブに行こうと思ったのは、
理性が保てない状態になってきて本心に従ったというだけだった。意味不明じゃなかった。
吹奏楽部に入ったのも、そのときすでに歩み寄りたいと考えていたのだと思う。

相手を批判して、自分は何もしない。
そんな人間は守る必要なんてなかったのだ。
そして、いま音楽が全否定した。逃げ場を残さなかった。
十数年経ってやっと、ほんすこし人として前に進めたと思う。

できない自分を認める、本心に従うのはつらい。
失敗したときに言い訳もできない。
でも、そんなときに支えになる存在を知った。

音楽のおかげでつらいことが乗り越えられるというのがなんとなくわかった気がする。
実用という意味でなく、すごく美しくて尊い。
そんな素敵なものが現実に存在するという奇跡のようなことに触れて、生きてよかったと思える。
アーティストにも音楽にも心から感謝した。ごめんなさいとつぶやいた。
ずっと音楽がこの世界に響き続けてほしいと願った。

すぐにうまくはいかなかったけれど、
昔と違ってつらい気持ちでも前を向けるようになった。本心に素直にいようと思えるようになった。
ライブ行くのが習慣になって、その年は数十回はライブに行った。
それは元気をもらいに行くつもりもあるけれど、
新しく知った色鮮やかな世界への好奇心から色々なライブに行った。音楽との出会いはいつもたのしい。
人々の表情はまぶしいくらい輝いていた。幾つもの素晴らしい世界が広がっていた。

仕事は今までどこに行っても同じだろうと思っていたが、音楽が教えてくれたように、
自分に見えていない世界があるはず、と一歩踏み出して転職した。
転職した先では遅れも出さず前向きで、ある程度希望した形で今働けていると思う。
仕事が楽しいと思う日もたくさんある。

そして、私は今年の8月になり「ラブレター」と出会った。
まっすぐで素敵な曲。音楽への気持ちをこんな素直に歌っている曲は出会ったことがなかった。
大好きになった。

心にすっと入ってくるikuraちゃんのまっすぐで可憐な歌声。
親しみを覚えるストレートでパワフルな吹奏楽と鮮やかにきらめくサウンド。
音楽が大好き、音楽に救われた、心が動かされるという素直な気持ちの歌詞。
この曲のいろいろなところが、自分の子供のころから今までのことを思い起こさせ、
私の音楽への気持ちのあちこちに共鳴して、泣きそうなくらい身に沁みた。

聴くたびに、まっすぐな好きという純粋な気持ちの詰まったメロディー、リズム、ハーモニーに包まれて、
前向きであたたかい気持ちになる。
作詞作曲されたAyaseさんは、まっすぐで優しくて素敵な方なのだろうと曲を聴くたびに思う。

音楽に出会えてなかったらと怖い、とてもそう思う。
私は音楽に救われて、支えられている。

懐が深く、巨大で力強くて優しく包み込むような、全力で励ましてくれる存在。
明るくて陽気。人間らしい影もある。最高にかっこいい。オシャレでエモい。音楽は憧れそのものって思う。
「ラブレター」に出会えて、そんなこと考えたりした。この曲に出会えてよかった。何年先もずっと聴き続けたい。

Twitterアカウント @naa_yoa_

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