「箱根4年連続制覇」<『日本大学百年史』(第2巻)>

本記事は、Twitterに固定してある3つのブログ記事を読みやすく?、連結し、皆さまにお届けしたく思います。
そのため、長文になることを、ご容赦いただければと思います。

ベースは「日本大学百年史」(第2巻)、参考文献として「写真で見る 箱根駅伝 80年」(月刊陸上競技・編集/2000年2月刊行)を用いました。
記事内容は、執筆時のままで共有させていただきます。

本書を編まれたのは日本大学百年史編纂委員会。
私自身、学生時代、教職課程や三島での教養課程時代に教鞭をとっていらっしゃった先生方の名前も多く、メンバー入り。
メンバー入りと言えば、今日、2018年6月10日は、月末の全日本大学駅伝・関東地区予選会へ向けてのメンバー選考を兼ねると思われる日本体育大学長距離記録会。
予想通り、当初エントリーした組から、回避するであろうという選手は予想できていたところもあります。
現在の主力メンバーでしっかり、記録を出して、その存在感を示していただけたら、と思います。
ある意図をもって、富山県立図書館で借りてきた『日本大学百年史』(第2巻)の中に、三井市太郎氏による「駅伝競走今昔譚」(日本大学新聞」第251号)に先の大戦前、2連覇した年に書かれた一部が、文字のポイント数は小さいですが引用されていました。
その前後を含めて、しばらく(長文ですので)引用させていただきます。
これは伝聞ですが、ある友人が陸上競技部の存命中の大先輩に伺った話として、こうした歴史の話はタブー視され、現状の成績が重要視されているとのことでした。
多くの現役選手、特に長距離に関わる選手の皆さんは、歴史「に」学んでおかないと、なんで伝統校と言われるか、その意味がつかめないと思います。私はその伝統を守る第一歩は、そこに在ると思います。
勝利第一主義でなかったことが、わかっていただけると思います。

この周辺については、校友会のメンバーで足で稼いで、地元の校友会のHPに記載しておりましたが、先ごろ、話題になった人物により削除の憂き目にあいました。
その弔い合戦もかねています。
或る意味、削除覚悟での臨みます。
本文は縦書きで漢字での表記ですが、英数字で表記させていただくことをお許しいただければ、と思います。
引用が長くなりますので、いくつかに記事を分割化しますことも、お許しいただければ、と存じます。

参考までに、昭和10年度調査によるの日本大学陸上競技部の部員数を記しておきます。

陸上競技部(日本大学体育会)・部員26名。
<参考>
水泳部・部員16名。
(P457~461参照)
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日本大学の名前を全国に轟かせたのが、陸上競技部による昭和10年よりの駅伝4年連続制覇であった。
報知新聞社主催の東京箱根往復大学専門学校駅伝競走は大正9年より開始され、本学は大正12年(注)に初出場していた。
(P464・465-原文のまま)
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(注記)
大正11年の「十大校対抗駅伝」のことを指すと推察されます(後続引用部分の日比谷公園前スタートがポイント。)。
大正11年の第3回大会は10校出場。
日本大学は最下位でした。

初出場後の状況は、三井市太郎「駅伝競走今昔譚」(「日本大学新聞」第251号)に詳しく記されています。
その一部が紹介されていますが、いささか長文です。
それを分割して、引用させていただきます。
その引用の初回は、日本大学・箱根駅伝初出場の記述からになります。

縦書きを横書きに直しておりますで、漢字の表記を英数字に変換させていただいております。
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大正12年1月6日7日(注)の第3回駅伝が日大の初陣であった。
現在落成された図書館の所に日本宗教会館と云ふ建物を合宿所に当てて、山岡重知君を奥田信雄君(現滋賀県保安課長)がコーチして、毎日内濠一周の猛練習をしたものだ。
小田原合宿なんぞの金のかかることは出来なかったがそれでも可成り金策には動いたらしかった。
そして黒いジャケツに赤いNの字を貼って、当時のスタイルでは、いささか他の部の羨望の的となった。
駅伝のスタートは日比谷公園の旧音楽堂前で、出発する時には川口義久先生と学生10名が「日大万歳」と叫ぶ位が関の山で、サイド・コーチが1台のオートバイに乗る以外何も応援がなかった、そしてトップより約4時間遅れてラストで悠々とゴールインした。
(P465・原文のまま)-以下、後続へ
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(注記)
大正12年の大会は日比谷公園での消防出初式を回避し、出発・決勝点を、報知新聞社前としております。
日比谷公園前スタートプラス第3回大会との表記を額面通りに受けとめるならば、この記述は、第3回大会の「十大校対抗駅伝」のことを指しているものと考えます。
第3回大会は、大正11年1月7日、8日に開催されています。
その事実の捉え方に、齟齬があったものと思料します。

前の記事は、初出場の時の様子を記した部分でした。
前稿<先述、引用部分>に続き、三井市太郎「駅伝競争今昔譚」(「日本大学新聞」第251号)に依拠している記述からの引用です。
縦書きを横書きに直しているため、漢数字を英数字に修正しております。
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(前略-前稿<先述部分>に記載)
その翌13年1月12日13日(注1)の駅伝にも殿(補記・しんがり)を務め、14年1月6日7日(注2)にもラストの重任を果たして往路決勝点に入ったのが午後6時頃、3年連敗の憂き目を見たのであったが、ここが日大スピリット、大正14年1月6日7日の第6回には第3区で中大をトップに第2着になったこと(注・3)で、初めてラストの厄をまぬがれて10校の第7着になった・・・・・・。
今となれば7着の祝賀会をバラックでしたのも面白い話の種である・・・・・・
それ以来殿を捨てて5着になり、やっと入賞の3着となり、2着に入りして、終に昨年駅伝参加最初の優勝を見(注4)、続いて今年も連勝をしたが、これとても先ず全学園一致の応援の力が大なりと云わねばならぬし、選手の責任感が湧いて来たことと、駅伝には必ず同行してゐる競技部のOB連中とその当時学生生活華やかなりしグループの応援も見逃してははならぬ
一度随行したら、毎年正月第一土曜日は親が死んでも往きたくなるこの2日間の応援隊、年毎に増加する東京箱根間をピンクのペナントを翻した自動車数十台の猛援、ゴール附近の校友、学友の合わす顔は例年の通りの同じ顔なのも駅伝のみに見る風景の一つで、スタートには必ず出てくる川口先生、沿道を心配気に走らす、鎌田彦一・宮田照先生も吉例・・・・・

(三井市太郎「駅伝競争今昔譚」からの引用はここまで、P465・466-原文のまま)
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(注記・1)
ここは大正12年1月6日7日の第4回大会のことを指すと思料。
この時も、日本大学は最下位でした(これで2年連続の殿)。
(注記・2)
ここは大正13年1月12日13日の第5回大会のことを指すと思料。
この時も、日本大学は最下位でした(これで3年連続の殿で、3連敗となります。)。
(注記・3)
この第6回大会で、往路5位、復路7位となり、最下位を免れました。
(注記・4)
第7回大会(大正15年)-不参加
第8回大会(昭和2年)-5位(最下位)
第9回大会(昭和3年)-3位(往路2位、復路1位)
第10回大会(昭和4年)-3位(往路4位、復路3位)
第11回大会(昭和5年)-9位(最下位、往路3位、復路9位<最下位>)
第12回大会(昭和6年)-4位(往路5位、復路3位)
第13回大会(昭和7年)-2位(往路優勝、復路3位)
※この時、増上寺前で慶大に抜かれる、増上寺は鬼門と言われ始めた頃
第14回大会(昭和8年)-3位(往路2位、復路3位)
第15回大会(昭和9年)-2位(往路4位、復路優勝)
第16回大会(昭和10年)-優勝(総合優勝)※参加14年目で初優勝
第17回大会(昭和11年)-優勝(総合優勝)
第18回大会(昭和12年)-優勝(総合優勝)※史上初の3連勝
第19回大会(昭和13年)-優勝(総合優勝)
※少し、早稲田の方には不快なことを書きます。
この時、早稲田は各校に不参加を呼びかけます。
自分の学校が優勝できない大会には参加しない、と伝わっています。
表向きの言い分(「長距離選手強化の見地から不適当」)は、そう言われていますが、こちらでつかんでいる情報では、そうではないと。
この回、早稲田、慶応義塾の2校が不参加。
第20回大会(昭和14年)-2位(往路2位、復路優勝)
※専大が初優勝の陰で、またも、早、慶、明、法が不参加。
第21回大会(昭和15年)-優勝(総合優勝)
※この回も、早、慶、明、立が不参加。
第22回大会(昭和16年)-優勝(往路2位、復路3位)
※この大会、長距離選手強化に不適当としていた早稲田、慶大、立大が参加。
おかしな話と思いませんか?参加してるんですよ。
実はこの大会で初参加したのが、当時、専門学校だった青山学院なのです。

※文章の流れからすると、三井市太郎「駅伝競争今昔譚」(「日本大学新聞」第251号)は昭和11年に記事として書かれたものではないか、と思います。
「日本大学新聞」の縮刷版などお持ちの方のご教示を頂けると有難いです。

こうやってみると、アメフトもそうですが、当時の早慶は、現在のアメフト界の実態(と私は思えてなりませんが)「強豪校は、目の上のたんこぶで、優勝できないなら参加したくない。」と当時、そう動かれた姿とかぶって見えます。
今も昔も日本大学は、結果はどうであれ、参加していました。

ここで言いたいこと。
日本大学も青山学院も最下位からのスタートだったということ。
決して、日本大学も青山学院も最初から強かったわけではないことが分かっていただけるかと思います。

今回の騒動は、表向きは、勝利至上主義の弊害に見えますが、実は裏(本音の部分)では、「日本版NCAA」への動きが加速化している関西と、日本大学にみるように「日本版NCAA」参加へ消極的なことが、このごたごたに拍車をかけていることを知っておかれるといいかと思います。
毎日、芸能ネタにするタレントMCなどで蒸し返され、もはや「日大劇場化」していることに、いてもたってもおられず、連続投稿させていただきました(今回、その3記事を連結させていただきました)。
一部の学校の方には不快なことも書きましたこと、お詫びいたします。
でも、真実(史実)を知ってほしい思いで、書かせていただきました。
最後まで、お読みいただいた皆様、神恩感謝。

#ニチダイシンジダイ
#ピンクの襷を箱根路へ


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