父親について

 わたしの父親は、精神的に非常に脆くプライドばかり高く、一度つまずいたらもがき努力することも自立することも出来ない人だったので、わたしが小学校高学年くらいから働かなくなった。
 ようやく次の仕事が決まっても結局続かず、酒と煙草で身体を壊し、離婚した後は精神も壊した。
 うまくいっている時は優しく快活だが、そうでないときは引き篭もって部屋を煙で真っ白にして酒を飲み、時に妹に当たった。

 子供の頃はよく遊んでくれ、明るくて甘やかしてくれる父だった。アコギを弾いて歌ったり、車でよく遊びに行った。両親共にスキーが好きで冬は家族旅行で雪遊びをした。わたしはお父さんっ子で父とお揃いの服を欲しがった。

 わたしが中学三年の頃、母はもう何年も働かない父との生活に精神的な限界がきていた。とにかく離婚を勧めた。父は拒否したが、離婚調停で娘二人と持ち家以外の財産全てを条件に承諾し、高校一年の秋に離婚が成立した。
 父についてきてほしいと言われたときは、辛かったが母を選んだ。その時なんて答えたかは覚えていない。
 その頃、わたしの受験や思春期反抗期とも重なり、母にとっては地獄のような期間だったと思う。実際ストレス性の急性胃腸炎で何度か倒れた。
 県立に受かってもらわないと離婚が成立しないとにかく受かってくれと懇願され、中学三年の娘に人生を背負わせるなんてひどい話だと思ったが、母はギリギリだった。

 離婚後、母とわたしと妹は仲良く安定した生活を送った。非正規雇用の母の収入だけだったのでお金はなかったのだろうが不自由を感じることもなかった。独りになった父は、時代が良かったのだろうウン千万の貯金を持って一駅となりの駅に部屋を借りて生活し、時間をかけておかしくなっていった。
 たまに連絡が来て会いに行って近況報告をする。会いにいくとおこずかいだといってお金をくれるのだが全然会いに行きたくない。話題なんてないし気まずいだけで、自分が楽しくすごしている話もなんだか申し訳なくて出来なかった。
 新しく会社を立ち上げることになった話を聞いたりしたが、しばらくするとその仕事がだめになったと察せられた。最近どうなんて聞けるわけもないが、会いにきてほしいと言われても断れない。
 嫌で嫌で仕方がなかった。会いに行くのも嫌だし、早く帰りたいのにそろそろ帰るねが言い出せなかった。

 高校を卒業して専門学校に通うと、デザイン系の専門というのはめちゃくちゃに忙しかった。これ幸いと行かなくなった。そうすると父は妹に連絡をするようになった。
 父はわたしたちが子供の頃から、妹と比べわたしをかわいがった。父には、弱いものに当たり差別するところがあった。暴力をふるうような人ではなかったが弱い人だった。
 お父さんはずるい、小さい頃はおねえちゃんばっかりかわいがって私に辛く当たったのに都合が悪くなると一番弱い私に縋るの、とこぼす妹には申し訳なかった。

 そのうちに届くメールがなんだかおかしくなってきて、わたしと妹の全身の写真と笑顔の写真と身長と体重を送ってくれと言ってくる。こわい。だんだん文章があやしくなってきて、この頃にはもうわたしたちは返信をしなくなり、それが続くと電話がかかってくる。
 支離滅裂で呂律のまわらない父の声がこわくて電話にも出なくなる。
 お金に困っているようだと想像できたが助けたいという気持ちにはなれなかった。学生だというのもあるが、なによりもこわかった。会いたくなかった。
 頻繁に連絡があるわけではなく、例えば数ヶ月空いたと思うとやたら頻繁にくるような、忘れた頃にくる父からの連絡は、不期的にわたしたちの気持ちを暗くした。呪いのようだった。

 二十歳くらいの頃、夕方一人で家にいるとき鳴った家電に出ると、それはもう明らかに頭のおかしい人のそれで父かどうかもわからなかったが、父以外に考えられないので怖くて切ってしまった。また二度ほど鳴ったがもう出られなかった。
 その日何度目かの電話をたまたまとった母に、父は激昂し家に火をつけると脅迫したようだが、その電話の場にいなかったのでどういった感じだったのかはわからない。心配をした母が共通の友人に相談したところ、父は脳の手術をし後遺症で足が悪くなり杖なしでは歩けないようなので、実際には火をつけるどころか何も出来ないだろうということだった。
 それで初めて、父が倒れていたこと、脳の手術をしたことを知った。家はゴミだらけだということ、お金がないということ、精神的に不安定だということ、生活保護を受けているということ、住んでいる家は変わっていないということ。
 いつ頃かもう忘れたが、置いていったギターやアンプやゲーム機を送るよう頻繁に連絡をしてくる時期があったが、それは母が送っていたようでわたしはよく知らない。お金に困っていたのだと思う。

 父方の祖母つまり父の母親から、お父さんに会ってやってくれ、かわいそうなんだと何度か電話があった。とても嫌だった。離婚して他人になった母がうらやましかった。わたしには永遠に切れない父と娘という繋がりがあるのだ。
 その後も父や祖母から不定期的に連絡がきたが、一度も会いにいかなかった。

 社会人になって何年目だか忘れたが、仕事中に母から電話がかかってきて父が亡くなったことを知った。隣の市役所からの連絡だった。
 父が亡くなった。ようやく解放されたと思った。気持ちが軽くなったのを感じた。
 仕事を早退し、亡くなった父に最後に会い、必要な書類にサインをしてすべてのことを役所にまかせた。
 変わり果てているであろう父の姿をみるのがとても怖くて嫌だったが、背け続けてきた父の最後だと意を決して見た顔は、想像よりも記憶している姿から離れていなくて、都合よく救われた気持ちになった。

 居合わせた父と母との友人で父の面倒をよく見てくれた方に、精神的に不安定な時期も確かにあったが一時的なもので、ここ数年はまあ普通といえば普通だったと聞いて、そこで初めて、気持ちがつらくなった。
 理解能力がなくなっておりどうにもならないものと理由をつけて連絡を絶ったつもりだが、そうではなかったのだ。ここ1、2年のわたしたちへの連絡はある程度まともな精神状態だったわけで、そうと知ると途端に遅すぎる罪悪感で苦しくなった。同時に、死んでもなおこんな気持ちにさせるのかとも思った。

 まあ、罪悪感だろうがなんだろうが今さら取り返しのつくものでもないので、なるべく考えないことに決めて生きている。
 考えないようにしすぎたのか、何年前の何月何日が命日なのかもわからない。夏で、暑くて、天気がよかった。
 父親の話。

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