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理想への欲、寂しさの収容。

悲しいことに、残念なことに、おそらく私という人間は " 近くの他人に対して一時的にしか優しくできない性質である " ということを薄ら気づいている。

一時的の範囲も分かってきている。
大体2年前後。早い人は2週間だったこともある。

自身のどうしようもない汚点を言い訳がましく書き留めておくことにした。
こんな自分もまあまあ好きだと思ってしまう自己愛が嫌いだ。吐気がする。一時的に。


親しくなればなるほど、相手の弱い部分が見えてくるものなのは、誰もがなんとなく知っていることだと思う。

しかし私はそれに反比例するかのように、相手の弱い部分が段々と受け入れられなくなっていく。
"最強になってほしい" と願ってしまう。

その人の才能や努力や培ってきたものを勝手に評価して、期待して、それを存分に活かせる場所で輝いてくれないと嫌になってしまう。
「あなたはそれができるはずなのに、なぜ歩みを進めないのか」と思い、失望する。
自分が手をかけて教育したり指導したりする場合は、この感情がより顕著に現れる。

理性では向上心やチャレンジ精神やスピード感を押し付けたくないと考えることができるのに、感情では最強になってほしくてしょうがない。

そして、それが叶わないと、その人から離れたくなる傾向にある。

あまりにも利己的だし、確実に人を傷つける。
傷つけたくない人に限って、たくさん傷つけてきた。

許されないことだと思う。
近い存在になるにつれて弱い部分を見せてくれるようになったのに、それを否定するかのように居なくなるなんて悪辣である。

しかし後悔はしていない。こんなことを書き記すのは本当に恥ずかしいけれど、反省もしていない。
思い返してみても、その時の私はそうするはずであるという考えが変わらない。

いつでもコミュニケーションに正解を出したいと理想を語る反面、そんなことは到底不可能なことだと理解している。
そう思う私は、私自身の弱さを見限るのも早い。


いつからか、寂しいと感じることがめっきり無くなった。
会話の中で「さみしい〜」と小聡明い発言することはあるが、心が伴っていない。全く寂しくなんかない。

この感情が薄れたのは、大人になったことが関係していると思っていたが、周囲の人間はそうでもないようだった。
口に出さないだけで、ふと感じることはあるらしい。

満たされているのでは?という意見をいただくこともあった。実際それは合っていると思う。1人で過ごす時間は充実している。

防衛本能だろうか。寂しいと感じたが最後、私は化け物になるのだろうか。いや、そんなはずはない。
寂しさという感情のことをちゃんと知っている。学生時代までは普通に寂しさを感じていたと思う。
昔はどんな時に寂しいと思ったんだっけ。あまり思い出せない。

美術館で静かな絵を見ている時に思ったような気がする。
愛している故人が作った曲を聴いている時に思ったような気がする。
他は思いつかない。

感情欠落の要因に関して、無理に理由をつけるとしたら後者だと思う。
正確には、欠落はしていない。
たった1人に対する寂しさで、寂しさのキャパシティが埋まっているだけかもしれない。

故人を想うと、寂しく感じる。この世に居ないのだ。そりゃそうだ。
私の思春期を救った彼は、二度と私の前に姿を現すことはない。

彼の訃報を知ってすぐに授業を投げ出して帰宅し、自室に篭って2日間生活をせず親を困らせた。

就活で都内に行ったまま取り乱して、無心のままゆらゆらと新木場STUDIO COASTに行き、夜中まで泣き腫らした時は自分を客観視できなかった。

この方向性で考えるなら、自分に余裕が無い状態がかなり長く続いていることになる。

時間が解決してくれるものだと誰かが言っていたのに、解決しないままもう5年も経っていた。
本当に時間が解決してくれるのか。

多少なりともキャパシティが空いてほしい。
私自身を工事して増築するか、寂しさが減ってくれるかしかない。

いつか他人の寂しさに対しても、理解して寄り添える人間になりたい。
でも、理想通りの努力をしない相手を受け止められる日なんて来るのだろうか。「ありのままで受け入れてもらおうだなんて甘えだよな」とか思ってしまうのに。
わがままお嬢様か?そんな可愛いもんじゃないか。

他人と分かり合うことなんてできないし、する必要もないっていう方向に舵を切りたくて仕方がない私
VS
いつか寛容になれるのだろうか、何年かかるかなぁ...と自分に少し期待する私
VS
ダークライ

(いつもと文体が違いすぎる)

そろそろ寝なきゃ。おやすみなさい。

彼はなんて言うだろう。

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