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昭和新山(洞爺湖有珠山ジオパーク)と石狩炭田(三笠ジオパーク)

約2万年前に誕生した有珠山うすざんは1663年から活動期に入り、20世紀だけでも4度の噴火を繰り返しており、1944年〜1945年の噴火では昭和新山が形成されました。

2020/09/02
Armadas


洞爺湖とうやこの成り立ち

約11万年前に、日本列島最大級の噴火が起こりました。大地は陥没してカルデラができ、そこに雨水などがまったのが洞爺湖とうやこです。

約5万年前には、湖の中心付近で火山が噴火、粘り気の強いマグマが固まって溶岩ドームができました。

日本列島誕生のトリセツ
昭文社
昭和新山の山頂から望む洞爺湖と溶岩ドーム(中之島)
洞爺湖有珠山ジオパーク
有珠山の山頂から望む洞爺湖
洞爺湖有珠山ジオパーク

有珠山うすざんの誕生

2万〜7,000年前に
有珠山うすざんは火山活動によって、洞爺カルデラの南麓で生まれました。最近でも、20年から30年ごとに噴火しています。

縄文時代早期、
北黄金きたこがね貝塚付近で暮らしていた縄文人は、噴石の被害や津波に見舞われた可能性があります。

日本列島誕生のトリセツ
昭文社
洞爺湖と昭和新山と有珠山と噴火湾
洞爺湖有珠山ジオパーク

昭和新山の誕生

1943~1945年、有珠山の東麓に溶岩ドームができました。
もともとあった粘土質の土壌が押し上げられ、粘性の高い溶岩で焼き固められました。

日本列島誕生のトリセツ
昭文社
有珠山から望む昭和新山(溶岩ドーム)
洞爺湖有珠山ジオパーク

(1)昭和新山(有珠山・山系)
(2)標高・・・398m
(3)最新噴火・・・ 1944年
(4)火山の分類・・・溶岩ドーム
(5)火山帯・・・那須火山帯

ウィキペディア

有珠山山頂から望む洞爺湖の動画

※洞爺湖有珠山ジオパーク推進協議会、環境省、三松正夫記念館など関連する機関から許可をもらい撮影をしています。

2020/09/02
Armadas

洞爺湖町・火山科学館の動画

火山科学館では、1977年の噴火、2000年3月の噴火を中心に、これまでいくたびか噴火を繰り返してきた有珠山の火山活動を映像や解説、体感装置などで紹介しています。

2012/01/20
洞爺湖町洞爺湖温泉

洞爺湖町・火山科学館
所 在 地:北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉142番5
駐 車 場:150台


石炭になった湿地の植物(=現在の北海道の中央部、石狩平野など)

北海道は、国内でも有数の石炭産地として知られ、多くの炭鉱があった場所です。実は、北海道の石炭が形成された地層は、約4000万〜6000万年前に集中しています。これは、その頃の気候や地形が石炭のもととなる植物が生育するのに適した温暖な環境であったためであると考えられます。

三笠ジオパーク

石炭と地層から読み解く北海道・三笠1億年のモノ語り

石狩炭田の地層の誕生

約8000万年前(白亜紀)、
北海道の東半分はユーラシア大陸のはるか沖に浮かぶ島々でした。

約6600万年前(古第三紀)頃に、
北海道の大地となる様々な場所は、オホーツクプレートの動きにしたがって少しずつ近づきました。

約5500万年前(古第三紀)頃に、太平洋プレートと「クラプレート」の境界にあった海嶺が(現在の北海道の位置まで)北上して、ユーラシア大陸の下に
沈み込みました。

約5000万年前(古第三紀)頃に、陸上となった現在の北海道の中央部には広大な湿地が広がるようになりました。

海だった十勝
国土交通省

(1)石狩炭田の歴青炭れきせきたん
(2)地層の場所・・・夾炭層きょうたんそうに挟まれた地層
(3)時代・・・古第三紀
(4)地層の分類・・・炭層


フィリピン海プレートの回転説

国土地理院のGPSによると、
北海道南西部に位置する渡島半島の日本海側沿岸部がユーラシアプレート方向に、局所的に移動していることが分かります。このプレート(移動)の局所的異常を説明するようなマントルの流れは見つかっていません。

フィリピン海プレートの回転説・・・
フィリピン海プレートがユーラシアプレートに対して回転すると仮定して、
回転軸を計算してみると、回転軸の位置はカムチャッカ半島の南端になります。

火山フロントと有珠山
火山フロントの西側に位置する渡島半島が局所的に西進しているため、有珠山周辺の地盤には東西方向に引っ張り応力が発生していると予想されます。
そして、この地盤の変動は有珠山の噴火をより活発にしているかもしれません。

続プレートテクトニクスの基礎
瀬野徹三
火山フロントと有珠山

北海道博物館の動画

北海道博物館は、北海道の自然・歴史・文化を紹介する北海道立の総合博物館です。自然環境と人とのかかわりや、アイヌ民族の文化、本州から渡ってきた移住者のくらしなどを調査・研究し、北海道民の貴重な宝である資料を収集・保存し、展示や教育、イベント・事業などを行っています。

北海道博物館

北海道博物館をご利用の際は、北海道博物館駐車場が最も近くて便利です。
北海道札幌市厚別区厚別町小野幌53-2

北海道博物館

日本最古のお墓は?

現在、日本最古のお墓といわれているのは「湯の里4遺跡」です。

北海道上磯郡知内町にある「湯の里4遺跡」は、昭和58年に調査発掘され、約2万年前の旧石器時代の墓と考えられる日本最古の土坑(地面に掘られた穴)が発見されました。

2021年10月01日
お墓きわめびとの会

北海道で最古の現生人類

ミトコンドリア・ハプログループGに分類される人々は、北国と深いかかわりがあります。

彼らは氷河期末期にシベリアで誕生したとされ、樺太からふとを南下して日本に入ってきたと考えられています。


玦状けつじょう耳飾り

蛇紋岩じゃもんがん製の耳飾り

山内丸山遺跡の時代(約5900-4200年前)の遺跡から、
玦状けつじょう耳飾りが北海道から九州全域で出土します。

当時の日本では確認されない鉱物が用いられており、
中国からの交易品の可能性があります。


旧約聖書の「東倭伝」説(=田中英道先生)

それゆえ、(あなたたちは)東で主をあがめ、海沿いの国々でイスラエルの神、主の御名みなをあがめよ。
(わたしは)地の果てから、賛美の歌を聞いた、
「栄光は正しい者にある」と。

しかし、わたしは言う、
「わたしは衰える、わたしは衰える、わたしは災いだ。あざむく者があざむき、あざむく者のあざむきが(わたしを)あざむく」。

紀元前8世紀
「旧約聖書」
「イザヤ書」24:15,16

北の縄文人の衣装(縄文時代後期)

北の縄文人の衣装
文化局文化振興課

当時の衣服が完全な形で発見された例は今のところありません。
このイラストは出土した土偶(縄文時代後期)の文様や繊維の断片等を参考にして、復元されています。
北の縄文の人びとは、着飾ることに大変熱心だったようです。

衣装・・・「アンギン」布?の着物と動物の毛皮の防寒着。

2012年7月13日
文化局文化振興課

「アンギン」布の編布あみぬの製作機具

尾関清子氏によると縄文時代晩期には、
技術革新により編物と織物の両方が作られました。

倭人の絹
布目順朗
小学館

九州の縄文人からの贈り物

有珠うすモシリ遺跡
(教科書の記載内容とは異なる見解)

縄文時代晩期、
北西九州(=現在の長崎県)の有力者は津軽海峡圏に上陸したかもしれません。そして、イモ貝の腕輪を交易品として持ち込みました。

縄文晩期
有珠うすモシリ遺跡
イモ貝の腕輪

北海道の海の幸

大規模なエルニーニョによる、よい影響
(教科書の記載内容とは異なる見解)

縄文時代晩期、
北海道北海岸や樺太、南千島の縄文人は、
漁業や狩猟を中心に、海に依存した生活をしていました。
プランクトンの豊富な海水が南下して、北海道沿岸は豊かな漁場になりました。

遺伝子検査総合情報サイト:U-GENE(ユージーン)
塩さけ
「婦人倶楽部」
昭和10年12月号付録
塩ます
「婦人倶楽部」
昭和10年12月号付録
さば
「婦人倶楽部」
昭和10年12月号付録
さんま
「婦人倶楽部」
昭和10年12月号付録
豊富なプランクトンをたっぷり食べて育った毛ガニ
最北の海鮮市場
ノース物産株式会社
大ぶりのホタテは北海道ならではの海の味覚です。
最北の海鮮市場
ノース物産株式会社
厚岸産かき
こばさんのブログより

海峡を越えるイノシシ

海峡を越えるイノシシ
(教科書の記載内容とは異なる見解)

紀元前750年頃(縄文時代晩期)、
北海道が寒冷化すると
西部道南の有力者は、北東北からイノシシを持ち込みました。

また、ヒエ、そばなどの雑穀栽培は紀元前6000年頃(縄文時代前期)から
始まりました。トチの実などの採集も盛んに行われました。

縄文晩期
函館市、日ノ浜ひのはま遺跡
イノシシ型土製品

祭肜さいゆう許黄玉きょこうぎょく檀石㟴だんせきかい

後漢の祭肜さいゆう
(教科書の記載内容とは異なる見解)

紀元45年、
鮮卑の騎馬兵、一万騎が後漢の遼東郡に侵入しました。
このとき、遼東太守たいしゅ祭肜さいゆう
鮮卑の騎馬兵を撃破しました。

(その後、渡来系の先祖?は疎開を始めます。)

インド・アンドラ朝の許黄玉きょこうぎょく
(教科書の記載内容とは異なる見解)

紀元48年、阿踰陀あゆだ国(インド・アンドラ朝?)の国王の娘・許黄玉きょこうぎょくが船に乗って伽耶に渡来しました。

(この時代、ドラヴィダ語の宮廷文字が伝来したはずです。)

鮮卑の檀石㟴だんせきかい
(教科書の記載内容とは異なる見解)

紀元178年、
鮮卑の檀石槐だんせきかい汙国おこく(潘汗はんかん県)を撃って、千余家を捕えました。

逃げ遅れた「汙人おじん」は大陸で離散しました。

後漢書
烏垣うがん・鮮卑列伝

縄文人由来のミトコンドリア・ハプログループN9は約7%

ミトコンドリア・ハプログループN9は約3~4万年前に中国広東省付近で誕生したグループで、(縄文系)アイヌ人や台湾先住民などの祖先にあたります。日本人の約7%が属しています。

遺伝子検査総合情報サイト:U-GENE(ユージーン)

北海道や富山県の小竹貝塚から出土した縄文人骨を解析すると、ハプログループN9bが多数を占めていることがわかりました。

N9bは日本固有種ともいわれ、主に北方系縄文人に見られるグループです。N9bは北方に限らず、奄美大島や沖縄にも分布しています。
N9dは北九州に分布しています。

北海道の礼文島の船泊貝塚で発見された3800年前頃の縄文人のミトコンドリア・ハプログループもN9b1でした。新石器時代、ユーラシア東部集団が日本列島に拡散し、船泊縄文人も含む北部縄文人の祖先になったと考えられます。

遺伝子検査総合情報サイト:U-GENE(ユージーン)

ミトコンドリア・ハプログループN9b1

新参者しんざんものの縄文人は北海道の有珠山うすざんが噴火を繰り返していた時代(1万6500年前頃)、ユーラシア東部から南下してきました。


縄文人由来のミトコンドリア・ハプログループD4b

長野県上高井郡高山村大字牧字湯沢滝沢の湯倉洞窟遺跡から出土した縄文時代早期人骨(約7,920年~7,795年前)のミトコンドリアDNAは、ハプログループD4b2です。

縄文時代(1万6500年前頃)に、ユーラシア東部から(樺太経由で)南下してきました。


平和な時代の周堤墓しゅうていぼ

縄文時代後期の周堤墓は、
二重の土堤どていだけの境界施設。
1900年頃に発見されたときは、祭祀さいし遺跡と考えられました。
1950年以降は、墳墓遺跡と考えられるようになりました。

北の縄文時代は、戦争のない平和な時代だったようです。


続縄文時代の「チャシ」

古墳時代(大和時代の崇神王朝以降)の「チャシ」は、
カムイミンタラ(神々が遊ぶ聖域)で、環壕かんごうのみの境界施設でした。

巫術師ふじゅつし祭祀さいしが終わると、他の人々と同じ日常を送っていたようです。


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