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弥生海退「忍耐を要す」


つかの間の温暖化(=分水嶺ぶんすいれい期)

縄文時代晩期の温暖な時代(紀元前500~紀元前400年)

東日本で寒冷期が終焉しゅうえんすると、100年間は温暖な時代になりました。

縄文時代晩期の生活;「採集と栽培」

定住生活を続けていた関東の縄文人にとって、この時代の温暖で湿潤しつじゅんな気候は好都合な条件でした。彼らは漁労、採集、狩猟だけでなく、野生植物の栽培も行っていました。

しかし、主食となっていたクリの実の
収穫量の減少は、深刻な悩みの種となっていました。

埼玉県嵐山町らんざんまちでは縄文時代最後のこの時期、晩期の土器片は発見されますが、住居など生活の痕跡こんせきは確認されていません。

縄文時代晩期は、ほとんど空白の期間となっています。

嵐山町web博物誌
埼玉県比企郡嵐山町文化スポーツ課

弥生時代の最北端の水田跡

弥生時代早期における最北端の水田跡は、青森県の砂沢すなざわ遺跡の事例で、およそ2400年前のものとされています。

ただし、砂沢遺跡の水田はすぐに放置され、再び狩猟・採集生活(移動生活)に戻ってしまいました。

従って、社会の階層化は進まず、この地域を弥生文化に含めるか、議論が続いています。

縄文時代
山田康弘
昭文社

縄文時代晩期の金生きんせい遺跡(=山梨県北杜ほくと市)

金生遺跡は気候が寒冷化し遺跡数も減る縄文時代後期~晩期の遺跡で、
山梨県内でも同時期には集落跡と祭祀さいし施設が複合した遺跡が出現しています。

長野小諸こもろ七五三掛しめかけ遺跡

気候が寒冷化した縄文時代晩期(紀元前750~500年)の七五三掛遺跡では、
クリ栽培に加えて、黄河流域を栽培の起源とするアワの栽培も始めました。

2021.10.13
米田  穣 教授
東京大学総合研究博物館

弥生時代早期の菜畑なばたけ遺跡(=佐賀県唐津からつ市)

日本の稲作発祥の地とされる、唐津市の菜畑遺跡で、弥生時代早期の水田跡が発見されました。

ウィキペディア

弥生海退かいたい

弥生海退 (・・・極地の氷河が前進しました)

「弥生海退」は、
紀元前1000年(縄文時代晩期)~紀元前100年(弥生時代前期)に
海水準が現在よりも2mほど下がったとされる現象です。

太陽の11年の活動周期とは無関係に、極地の氷河は数十年スケール で前進と後退を繰り返しています。
北極の氷河が前進すると、
北極圏で上層の寒帯ジェットが強化され、
日本の冬季の天候は暖冬になる傾向があります。

(ただし、氷河の前進による影響が日本の温暖化に結びつくまでにタイムラグがあり、その影響力は限定的と考えられます。)

2015年2月
産総研
田邊 晋氏

南北に長い地形と縄文時代の生活

弥生時代早期、西日本ではすでに稲作が始まっていましたが、
関東の内陸地域では、ヒエなどの雑穀栽培を始めました。

そんな関東に再び寒冷期がやってきます。

ギリシア極小期です。

関東の内陸地域では、水田稲作の導入は弥生時代中期になります。

縄文時代の最期さいごにない手(=水辺で暮らす人々)

関東・内陸地域の縄文時代晩期の暮らしは、どのようなものだったのでしょうか。それまでの縄文時代に生活の舞台となっていた丘陵地きゅうりょうちからは、完全に姿を消してしまいました。

代わって河川に面した低地などの水辺が、生活の場所に選ばれました。
(トチの実のアク抜きには、たくさんの水が必要になります。)

少なくなってしまったイノシシの狩りと、(クリ栽培に加えて、)
アク抜きの必要なトチの実などの採集やわずかな穀物栽培
などで
細々と生活をつないでいたのが実状だったのではないかと考えられます。

嵐山町web博物誌
埼玉県比企郡嵐山町文化スポーツ課

ギリシャ極小期 (・・・エルニーニョ現象が長期化しました)

太陽活動の盛衰せいすいと同期するように,気候の温暖期や寒冷期が訪れるようになりました。
ギリシャ極小期(Greece minimum)は、 紀元前(440~360)年(弥生時代早期)の寒冷期です。この時、太陽の11年の活動周期にも異変がみられます。

(異常気象の前徴ぜんちょうとして、太陽の11年の活動周期は12~13年に変化したと考えられます)

2015年10月2日
青野靖之 准教授
これまでの気候の移り変わり(第五版)

植物学者、牧野富太郎とみたろう博士の名言

忍耐を要す!
(我慢することが必要である)

何事においてもそうですが、植物の詳細は、ちょっと見で分かるようなものではありません。行き詰まっても、耐え忍んで研究を続けなさい。

牧野植物園
 現代語訳

栃の実のアク抜き


反日プロパガンダ(縄文人由来のDNAは10%・・・だと・・・!?)

合祀ごうし

太陽活動の回復期には、東日本も気候的に回復したと考えられます。
分散していた集落は、再び合流していきます。

関東では、多数の遺体を掘り起こし、ひとつにまとめて再葬さいそうする例が見られます。


未知の「来訪神のモニュメント」説

縄文時代の多様な祭祀さいしのひとつに仮面祭祀があります。
これは土製の仮面を用いた祭祀で、東北地方を中心に縄文時代晩期まで行われたとみられます。

縄文時代
山田康弘
昭文社
麻生あそう遺跡出土の土製仮面
縄文時代晩期、秋田県
学術標本、東京大学
未知の来訪神?

御神木ごしんぼくの精霊」説

縄文のビーナス
縄文時代中期
棚畑たなばた遺跡、長野県
Togariishi Museum
(「とちの木の精霊」説 /古代史の定説を疑う/宝島社新書/瀧音能之、水谷千秋)
栃の実
美味しいスイーツ素材
minoriya
結髪けっぱつ土偶
縄文時代晩期
山形大学付属博物館 所蔵
(「イネの精霊」説 /古代史の定説を疑う/宝島社新書/瀧音能之、水谷千秋)
稲束いなづか
東海大学
北條芳隆氏
みみずく土偶
縄文時代後期
東京国立博物館 蔵
(「イタボガキの精霊 」説 /古代史の定説を疑う/宝島社新書/瀧音能之、水谷千秋)
イタボガキ
動物生標本

自然界に対する想像性

想像力が欠如けつじょした人は、豊かな想像力を持った人々(縄文人)のそれを超えることは決してないだろう。



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