指が足りなくてなにがわるいのか

「絵を描くとき、指の数が足りないと差別表現になる(らしい)」という話があります。これは、部落差別問題がきっかけの話です。聞いたことがある人も、ない人もいると思います。

知ってる人の中には、
◎なるわけない派
◎納得いかないけど従っている派
◎当然守らなければいけないルールだ派
がいることでしょう。


僕は1976年に山形県で生まれた身です。正直、部落差別問題に関してリアリティがありません。そして、細々とグラフィックデザインやらイラストレーションなどを仕事にしている無名の存在です。僕なんかがいくら力説しても、「眉唾のネット情報」の一つにしかならないでしょう。でも、僕はこの問題をそこで終わらせたくはありません。ですから、うだうだとした長い僕の意見の前に、まず事実から紹介させていただきます。

差別を糾弾してきた人はどう言ってるか

「指が足りないと差別になる」という理屈は、どう頭を捻っても納得がいきませんでした。もちろん、差別の意図がなければ問題ないという話ではありません。傷つけるつもりがなくても傷ついてしまうことはたくさんあります。それはもちろん避けたい。ですから、ずっと、当事者の声を探していました。

『最新 差別語・不快語』という本があります。著者の小林健治さんは、部落解放同盟の一員として差別を糾弾する活動されていたまさに当事者です。小林さんがこの指の問題についてどう書いているか。

p164〜165に「「四ツ」という言葉について」 というコラムがあり、ここの最後に補足のような形で参考イラストが示され

指が4本に見えるイラストは、過剰な自主規制の対象となった。右上の赤ちゃんの手のイラストも同様

と明確に記述されています。しかも過去形で。もう終わっている問題として。

このコラムは、

こんな意味不明の自主規制をするなら、東京の「四ツ谷」も大阪の「四ツ橋」も、千葉県の「四街道」などもっての外ということになるでしょう。あまりにも思慮に欠けた姿勢であり、それこそ「メディアの思想的脆弱性」(筒井康隆氏)をしめすものではないでしょうか。

という形で締めくくられます。

答、書いてあるじゃないですか。
思慮に欠けた姿勢とのことです。僕も心からそう思います。


別の話もあります。

指の数が足りない件で当事者団体が指摘をした歴史はない。
逆に、指の数に気をつけましょうと発言して指摘を受けた歴史と修正して糾弾を受けた歴史がある。

僕は、2000年4月から2003年12月まで、凸版印刷という会社に勤めていました。そして、その期間中に差別表現に関する社内教育用の冊子をいただきました。これは、僕が入社するずっと前。1995年2月に社員が起こした「人権問題上の重大な事件(原文ママ)」をきっかけに、1999年4月にまとめたものでした。

何をやらかしたのか。

会社では、ビジネス拡大を目論んで、お客さんを呼んでセミナーのようなものを開催することがありました。その一環として、表現する際に気をつけるべきことなどについてのセミナーを開いたのですが、その際に、

「四本指のイラストの問題ですが、漫画やイラストでは、指の数に気をつけてください。関係団体からクレームが来たことがあります。」と発言したのだそうです。

実際には起きてないことを、うわさ話を鵜呑みにして発言してしまったようです。また、当事者から見たら切実かもしれないという問題を扱うのに「クレーム」という言葉で片付ける軽率さも問題があったと思いますし、差別を助長する発言であったと思います。

そして、これを、部落解放同盟の方に問題視されたということです。(ないことって証明できないのが悩ましいんだけど、少なくとも、過去、「糾弾」をひとつのやり方として行ってきた部落解放同盟は、この件で糾弾してないということだと思います)

また、『実例・差別表現』(著:堀田貢得)という本もあり、こちらには少年チャンピョンでの事例があります。『四鬼』というマンガで指を四本出して「四鬼!」とする原作者の表現を、自主的に5本指に変更して、「四鬼!」と変更したことに対して、部落解放同盟が抗議をしているそうです。(※これ、よくわからなかったのですが、雑誌のときは4本だったのに単行本で5本になったということでしょうか…?)

抗議の要旨としては

自主規制なるものの典型的実例。解放同盟の申し入れを無視してまで、絵の書き直しを行ったことは、いったい誰に配慮し、何を自主規制しているのか理解しがたい

そう思います。


つまり、これらの自主規制は、詳しい人から見たら「えっ!まだやってたの!!」とびっくりされるようなことなんです。(当然ながら、意地悪な気持ちでそういうことをほのめかすような絵を描くのは絶対ダメです)

もしかしたら、昔の噂話を未だに信じてる人に配慮してるのかもしれません。こっそり「配慮」する分には、表沙汰になりませんし、誰も傷つかなくて良いという考え方なのかもしれません。


でも、僕は以下の4つの理由でこの自主規制の姿勢に反対します。

1.いじわるな思考に乗っかった理屈だと思うから
2.身体的欠損を排除しているから
3.省略は表現のテクニックでもあるから
4.差別を再生産するから


1.いじわるな思考に乗っかった理屈だと思うから

なぜ「指が足りないと差別になる」 と されたのか。

昔、生活に欠かせない重要かつ多様な仕事をしていた普通の人々の一部が「平民」ではなく「穢多、非人」と位置づけられました。そして、「穢多・非人」は、一部が帯刀を許されるなど、平民の「下」ではなく、「外」という感覚の存在であったとのことです。(「下」というイメージが定着したのはむしろ、明治以降の解放令のあとだったそうです。)
※このあたりは、上杉聰さんがご専門になるかと思います。

この人たちの仕事は実際は多様でしたが、その中の一つに死牛馬の処理というのがありました。四足の動物を扱うからというところで、「四つ」という言葉が記号化したのだそうです。

そこから、イラストやマンガで指が四本であったり四本に見えるのは良くない
とエスカレートしてきたわけです。

が、正直理解が追いつかないです。記号化するにはあまりにも一般的にどこにでもあるもので、規制の範囲が広すぎですし、発想から着地までが遠すぎる気がしますし、なにより、仕事というのは、それぞれが生活をささえる大事なもので、それを取り上げて蔑むというのはよくわからないです。

職業に貴賎があると思ってるんでしょうか?
そう思う人の思考に巻き込まれたくないです。

大変なお仕事であろうとは思いますが、それに対しては、感謝とリスペクトの気持ちしか沸き起こらないのです。

僕はやっぱり、これはいじわるな思考に乗っかった理屈だと思います。


2.身体的欠損がある人を排除しているから

部落差別の件とは全く関係なく、実際に指がない人がいます。
腕がない人、足がない人、腎臓が片方ない人、睾丸が片方ない人、目がない人、いろんな人がいるでしょう。こういう人を描いてはいけないんでしょうか?僕はたまたま、これと言った欠損がありませんが、その人たちと何が違うんでしょう?そして絵を描くときに、こういう絵を描くなというのは、その絵の世界の中にそのような人たちがいてはいけないことになってしまいます。僕は、この姿勢がとてもつらいんです。

昔、ユニバーサルデザインに取り組んでいる事例をわかりやすくイラストなども添えてパネルにしたいという案件がありました。

スロープをつけましたという説明に車椅子に乗った人を描き、お年寄りにも読みやすいよう端末を開発しているという説明に、年を取ったおじいちゃんがケータイの文字が読めて喜んでる絵を描きましたが、これらに「まった」がかかりました。「ネガティブ」だというのです。

それで、車椅子はベビーカーになり、年をとったおじいちゃんは若返りました。

こういう姿勢って、なんなんでしょうね。

まあ、会社から依頼されて描いてる身であれば、変に個人的な感覚にこだわらないように気をつけようとも思うし、もちろん、伝えたいことをスムーズに伝えるために、無駄に引っかかるところを作りたくないこともわかりますが、こういうとき、排除に加担しているような気分に陥ってとてもつらいんです。

でも今、パラリンピックも控え、障害のある人が活躍する場面を見る機会も増えてますから、世の中は変わるチャンスだとも思います。(パラリンピックなくても変われよと思いつつ


3.省略は表現のテクニックでもあるから

人間を表現するとき、超絶に写実的な表現からトイレアイコンまで、そこは長い長いグラデーションです。

実際にイラストを描く現場で「指の数」に指示が入るのは、この省略のグラデーションの中の、比較的シンプルな絵で起こります。

シンプルな絵には、様々な省略というテクニックが施されます。

影を省略し、まつげを省略し、鼻の穴を省略し、鼻本体を省略し、眉毛を省略し、唇を省略し、耳を省略し、髪の毛を省略し…その過程で、指の省略が、なかなか認められないんです。結果的に「シンプルなかわいい絵」で指摘が入りやすいのがまたつらいところです。

絵にはいろんな描き方があって良いと思います。

セザンヌに、そのリンゴ落ちそうだからちゃんと描けって言わないと思います。

手塚マンガの初期のものなどは、指が四本でした。

これは、もしかしたら、手塚治虫が敬愛したディズニーのミッキーマウスから来たものかもしれません。そして、ミッキーマウスはネズミで、前足の指が四本なのはまあスタンダードなのですが、仮にそうでなくても、指の数を減らすという選択肢はあっても良いと思います。(ちなみに、鉄腕アトムが四本だったのが五本になったのは、この問題に配慮したという話をよく見聞きするのですが、因果関係を明確に記載したものは探せていません。もちろん、何かをつくる仕事は忖度がつきものではありますが)

たとえば、1mmの線の太さのペンで絵を描くとします。そして、絵が細かくなって、手の大きさを5mmで描かなければならない など。絵を描いてるといろんな場面に出くわします。

たとえばミトンのような手のかたまりのなかに、線を3本描けば、大きなかたまりの部分が指4本になり、親指と合わせて5本ですが、ここに線3本を描くスペースがない。あるいは、描くと線より指のほうが細くなるなどの現象が起こるんです。

で、全体を描く線に対して、そこだけ細い線にする とか、線の入れ方を浅くするとか、もうちょっと違うごまかし方をするとかするんです。そういう選択肢の中に、線2本にするという選択をする人がいてもいいと思うんです。その方がすっきりして気持ち良いという感覚があれば、それを大事にしても良いと思うんです。

僕はわりとユルい絵が好きな方ですが「ユルさの精度」って大事だと思うんです。


4.差別を再生産するから

1で述べたことにも関係しますが、まともに説明されても理解が追いつかないためか、実際の仕事の現場では、きちんと丁寧に説明されることは少ない気がします。

あやふやだったり、結局由来を知らずに指示をしたりする人もいます。僕は「四足だ→動物だ的な?」という曲解をする羽目になりました。(そして、めちゃくちゃ怒っていました。)※すみません!書籍でも由来を確認していたのに、説明を受けたときの印象で、意味が変わっていったように曲解してしまい、最初に公開した文では、このひどい解釈を1番目の理由として書いてしまってました。でも、間違った解釈が見えないところで広がるリスクも含め、やはりこの自主規制は良くないなと思いました。そして、人の指の数は5本だ。それ以外は認めない。という流れになったり、極端な例だとコップ持ってて指が隠れてるけどどうにかして指が5本見えるようにできないだろうかみたいなことになってくるんです。

このよくわからない指示を受けた人、指示をする人たちは、部落差別問題のことをどう思うんでしょう? 触れてはいけないことのようにモヤモヤとしながら、でも傷つく人がいるのであればもちろん直さなければいけないし、納期もあるし、とりあえず一旦我慢しようと思って指示に従うんです。そして、薄ぼんやりと、「触れてはいけないこと」「よくわからないこと」が再生産されていくんです。これは結果的に差別を再生産していることにならないでしょうか。

歴史や現状について学ぶことはとても大事だと思います。僕も、こんなこと書いた以上、これからも学び続けないといけないと思っています。こうやって調べるきっかけにもなりました。でもやっぱり、この自主規制はおかしいと思うのです。



と、ここまで書いて、一つ、とても反省と後悔をしていることがあります。上記、なんだか偉そうにいろいろと書きましたが、この件についてちゃんと調べようと思ったきっかけがありました。

僕が部落差別というものの存在を知ったのは、小学校の道徳の授業で、そのとき、指の話も先生から聞きました。でも指の数で差別表現になるという理屈は納得できず、だいぶ食い下がった記憶があります。でも、そこから、なんとなく気になりつも、そういうのがあるんだな。と思って生きてきました。

大人になり、イラストの仕事も少しするようになってからも、いつのことだったか記憶が曖昧なのですが、何度かそういう指示をうけた気がします。納得はいかないけど、抗議できるほどは詳しくなかったのです。でも、それからしばらく、そういう話も聞かなくなりました。たまたまかもしれませんし、当時はイラストをメインの仕事にしようとも思ってなくて、あまりたくさん仕事をしていなかったかもしれません。

(たぶん、画風とか、会社の方針とか、媒体とか、そういうもので指示が入りやすいものと入りにくいものがあるんでしょうね)

でも、頭の片隅にはありました。大阪で人権などの活動をされてるNPOの方と一緒に加古川食肉センターに牛の解体を見学するツアーに行ったことがあります(解体の様子を絵と文にしています→牛の解体)。このときNPOの方に、失礼にならないか不安になりながらも、この指の問題を聞いてみました。得られたのは意外な答えでした「聞いたこともない」です。

いつの間にか、過去にあった都市伝説かなにかだったのだと思うようになっていました。あらためてイラストの仕事もするようになってからも、そういう指示をしばらく受けなくなっていたからです。

そんなとき、久しぶりにこの件にぶつかりました。僕は小学生の親でもあります。以前、PTAで広報の係になったのですが、この中で児童の文集の表紙などに入れる子どもたちが描いた絵に対して、修正指示が入りました。子どもたちが描いた、「いろんなものが描けてない絵の、指の数にだけ」にです。びっくりしました。念のためその修正指示の意図を確認したところ、まさに、人権問題であるという答えが返ってきたのです。

僕は、自分がどうしても納得いかないことを、子どもたちに強制したくありませんでした。

会社員時代にもらった社内教育用の資料をようやくちゃんと読み(言い訳がましくて申し訳ないけど、なんだか読みにくい印象だったんだもん)、東京都に2つある人権プラザの両方に赴き、この件を相談し、子どもの絵に修正を入れること自体問題があると明言いただき、冒頭に紹介した本にもたどり着きました。

でも、締切がある中、間に合いませんでした。(実際には、子どもたちには、もっとちゃんと指まで描きましょうねという伝え方をしたとのことです)

いちおう、指示を出したという先生に話を聞きに行きましたが、詳しくは知らないが校長の指示だったのでと答えられました。そのタイミングでは校長先生は留守で、そのまま4月で異動になってしまったので話すチャンスはありませんでした。

結局、「なんか知らないけどダメらしい」ということだけが再生産されました。
(広報係はクラスから1名ずつ選ばれるので何十人もの人に)

僕には、もっと前に知るチャンスがあったのに、すぐ答えられなかった。そのことをすごく悔やんでいます。


とにかくつらい

以上、同意してくださる方がどのくらいいらっしゃるかわかりませんが、僕はとにかくこの指示がつらいです。最近、ものすごく久しぶりに自分自身にこの(ほとんど直す必要がないのに念のため入ってるというレベルで)指示が入って、やっぱり現存してたのかとあらためて思いました。

一応自分の考えをお伝えしましたが、担当の方の先に会社の方針等もあるのでしょうし、締切もありますし、このタイミングで言ってもダメなんだなと思いました。

仕事なのだから、プロなのだから、指示に従うのはあたりまえ。
気にしすぎ。いろんなことを言う人がいるかもしれません。

僕はこれまでいろんな対応をしてきました。

何ヶ月も変更に付き合ったり、これはちゃんと段階的に確認をとりながら時間をかけて制作する必要がありますねという話だったものが必要なくなったんでやらなくていいですってなったのに数カ月後にやっぱり週明けまでに完成しないといけなくなったから助けてって呼ばれてそのまま2日ほど軟禁された上に他に週明け提出の約束してたのが送れなくなったり、「素人が描いたような誰でも描けそうな感じの簡単なやつ」を描いてほしいと言われて10回以上描き直した挙げ句頼んできた人の絵をなぞるということをさせられたり、ナオヤさんドMだからこのくらいの修正余裕ですよねーって言われたり、

いろんなことがありました。でも、これらは今振り返れば、「あの件、本当に最低でしたねー」って軽く言えるんです。僕にとっては。

でも、これだけは笑えないのです。

特に、当事者団体がそういう自主規制は良くないと言ってることを知った今、
自分が差別に加担してるのではないかと思うのが一番つらいです。
胸が張り裂けそうになほどにつらいです。

それに、おかしいことにはおかしいと伝えるのもプロの役割だと思います。


象はいない

さて、こういう話をしていると「エセ同和」という言葉が出てくることがあります。エセ同和というのは、悪い人たちが当事者を装い、「差別された!」と騒いで、あれこれと要求するという事件で、実際にあるようです。(調べると、今もまだあるようではあるんですが、なんか本を売りつけようとするような話が出てくる…)でも、仮にそういう人がいたとして、上記のことを知ってたらなにか怖いことあるでしょうか? 

それに、当事者がやめてと言ってるのに、なんか怖い人がいるかもしれないと言ってやめないのって、いじめの構造に似てませんか?

僕が大学生のときに取ってた授業(いわゆるパンキョー)の教科書に『悪循環の現象学』(著:長谷正人)というのがありました。その本の最初に「象を追い払う男」というのが出てきます。男は、十秒毎に手を叩いてて、何してるのかと聞くと、象を追い払うためと答えるんです。象はどこにもいないのに。でもその人は自分が手を叩き続けてるから象がこないと信じていて、象なんて来るはずもないのに手を叩き続けることをやめられない という話です。(ちなみに、この授業は毎回面白く受けてたのにテスト当日だけ寝坊して単位が取れなかった)

象、いませんよ。そろそろやめませんか?


※お詫び
はじめ、曲解した由来を説明に使ってしまっていたことに気づいたので文章を修正しました。(書籍でも由来は読んで確認していたのですが、それで差別になることが理解できず、また、正直頭に血がのぼっていたとも思います…)申し訳ありませんでした。

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「寝た子を起こすな」という考えの方からはお叱りを受ける話だったかもしれません。でも、見えないところでひっそりと自主規制が再生産されていくのを放置するのはどうしても嫌でした。お許しください。また、このような話をオープンな場で書こうとしていることを、東京都人権プラザの方に相談して、背中を押していただきました。ありがとうございました。

↑2階の図書資料室とても充実していて、映像資料等もその場で視聴できますよ。

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