靖国神社に祀られる二歳の英霊ってなに?

本稿は2007年8月13日、プロパイダの一つである「ニフティ」のトップページにありました「キーマン@nifty」にて掲載したものの再掲示です。

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 大日本帝国陸海軍将兵と軍属、戦闘に参加した民間人は九段にある靖国神社に英霊として祀られる。では、誰がその事務手続をして、誰が祀られているのか何処に訊けばわかるのでしょうか。

 日本政府に陸軍省と海軍省のあった時代にはそれぞれの担当部署が英霊のリストアップを行い、天皇の勅許を経て決定された。合祀祭に天皇が祭主として出席した時期もある事から、合祀は死者にとっても遺族にとっても名誉であると言われた。

 戦後、合祀の手続きを引き継いだのは厚生省引揚援護局であったが、GHQの厳しい監視下では宗教的儀式は行なえず、サンフランシスコ平和条約を締結し占領国から独立国日本に戻った以降始まった。

 1952年の時点で未合祀戦没者は約200万柱にのぼった。この事に在郷軍人会を中心とした「合祀促進運動」が起こり、1956年、厚生省引揚援護局は各都道府県に対して「靖国神社合祀事務協力」という通知を出し、1953年8月に成立した「恩給法」と「戦傷病者戦没者遺族等援護法」で『公務死』と認められた者を「合祀予定者」として名簿を作り、その名簿は厚生省から靖国神社に送り、合祀されるという流れが出来上がった。それはつまり、戦争が終わり、事務手続き担当部署が陸軍省と海軍省から厚生省に変わっただけに過ぎない事を日本国政府自身が認めている事になる。省庁は業務内容を定めた法律・省令・規則と予算がなければ如何なる仕事だって行なわない。それはつまり、日本政府の政策なのである。日本国憲法で政教分離を謳っていても、現実に靖国神社の合祀事務手続きは日本政府の関与で成り立っているのである。

 更に問題なのは、靖国神社自身がホームページで高らかに宣言している通り『合祀に関しては、本人・遺族の意向は基本的に考慮されておらず、神社側の判断のみでおこなわれている』と厚生省と靖国神社の勝手な判断で祀っておりますと平然としている点があげられます。当然のことながら、異国の異教の人まで勝手に合祀している事から抗議が断えない事は靖国神社側も素直に認めており、更に『現在の公務殉職者の遺族に対しては「合祀可否の問い合わせ」をしており、回答期限内に「拒否」の解答(原文のまま)がない場合に限って合祀している』とただし書きがあるのは、勝手に合祀された自衛官の遺族から日本国憲法で定められている「宗教の自由」を犯すものだと告訴されている件の事を言っているらしい。

 さて、話の本題である「二歳の英霊」である。靖国神社に祀られる英霊は戦争に能動的に参加した人が対象になるのだが、二歳の子供が戦闘に参加できるものなのか。ここで、戦傷病者戦没者遺族等援護法にある第二条「準軍属」というカテゴリを見てみると以下の20の分類に該当すると援護法の適用、つまり「準軍属」となり恩給対象者となります。その20分類とは。

1.義勇隊

2.直接戦闘

3.弾薬・食糧・患者の輸送

4.陣地構築

5.炊事・救護等雑役

6.食糧供出

7.四散部隊への協力

8.壕の提供

9.職域(県庁職員・報道)関係

10.区村長としての協力

11.海上脱出者の刳舟(くりせん。一本の大木の中をえぐった丸木舟)輸送

12.特殊技術者

13.馬糧蒐集

14飛行場破壊

15.集団自決

16.道案内

17.遊撃戦協力

18スパイ嫌疑による斬殺

19.漁労勤務

20.勤労奉仕作業

以上の20項目に該当する人に対して、恩給を払う事になっている。これは沖縄での戦闘による一般住民への国家賠償という側面からでてきた経緯がある。

 戦傷病者戦没者遺族等援護法の目的は国家による経済的支援であった。沖縄のように一般住民が戦闘に巻き込まれ、挙げ句に土地も取り上げられた苦難の歴史があり、そもそも沖縄を本土防衛の捨て石として利用されて事に対する沖縄の人達への賠償という意味で、多くの一般人が上記20のカテゴリで恩給という補償を受け取れる様、沖縄の行政府は精力的に動いた。その行動の結果、戦傷病者戦没者遺族等援護法の対象年齢が引き下げられて、亡くなった子供にも恩給という名の国家賠償が行なわれる事になった。

 ところが、本土で戦傷病者戦没者遺族等援護法の対象者からリストを作り、合祀していたなんて知らなかった沖縄の人達は、ある日「合祀通知書」というものを受け取り、戦傷病者戦没者遺族等援護法対象者はそのまま無条件に合祀されている事を知り、愕然とし、抗議の声を上げる事となったが、覆ることはなかった。

 このことが次第に知れ渡ってくると、合祀される事を嫌い、戦傷病者戦没者遺族等援護法の申請をしない人達も多く現れている。

 「二歳の英霊」の所属部隊は「球部隊」、階級は「陸軍戦斗関連死没者」だと合祀通知書にある。合祀されたのは1960年代。なぜ「二歳の英霊」が発生してしまったのか。沖縄タイムスによると、1959年に始まった「戦斗参加者」申し立てで、「戦斗参加者」が援護法に該当するか否かを示す認定名簿とならず、申し立て者全てを合祀対象者として、提出してしまった可能性があり、靖国神社合祀者名簿には、援護法で非該当や保留とされた分も入っていた。それを裏づけする様に、県公文書館には「靖国神社合祀者名簿 陸軍軍属無給戦斗参加者」という名簿が複数冊、収蔵されていると報じている。

 単に何も考えずに名簿がながされて行った結果が「二歳の英霊」を生んでしまった。二言目には英霊と口にする人達は、英霊の内容を本当に知っているのだろうか。

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 その後、とあるワークショップで沖縄県公文書館の方と話す機会があり、上記『靖国神社合祀者名簿 陸軍軍属無給戦斗参加者』の存在を確認していただく機会を得ました。その結果、この名簿は正確に何冊とは即答できないが多数あり、三親等までなら現物を閲覧できるとの回答を頂いている。実際にアクセスできる人にその先を託すしかないが、とりあえず存在している事が確認できただけでも進展でした。



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