キーマン@nifty 再掲載 『第32回 三里塚闘争は過去の話か』


 再掲載に際して一つ強調したいことがあります。それは下記記事中にあります通り、三里塚の農家さんの中には沖縄から満州に渡り、敗戦で帰国するも故郷はアメリカ軍が軍政権を行使しているため引き上げ船が着く日本国から帰郷できなくなり難民化した人たちが、新たな開拓地として三里塚を選ばざるを得なかった歴史の地層の上に、成田空港問題が乗っかってきたことです。国策に今も翻弄されている、それが三里塚問題なのです。
 --------------------

キーマン@nifty第三十二回 2004年3月28日掲載
『三里塚闘争は過去の話か』

 三里塚闘争というのをご存じでしょうか。何やら左翼系学生運動体と警官隊が大規模な衝突を繰り返して成田空港反対を叫んでいた事件。最後の大規模な闘争である革労共の管制塔占拠事件が24年前、そして成田空港が正式に開港して20年も経過し、既に三里塚の問題は過去の話になってしまっています。が、しかし。本当に過去の話にして良いものでしょうか。本当に三里塚問題を正しく理解し、説明出来る事、そして今行なわれている事。今回のキーマンは、その三里塚闘争について書きます。

 昭和38年(1963年),羽田空港が今後の航空需要を満たせる程大きくない事と、当時、就航が信じられていたSST(Super Sonic Transport:超音速旅客機)、それは2003年に全機退役となったコンコルドのような航空機が従来の航空機にとって代わると信じられていました。SSTの就航に備え、政府は千葉県富里地区に昭和40年(1965年)に新空港の建設を明らかにした途端、富里では強力な反対運動が展開し、政府や運輸省、県に対しての陳情は百数十回行なわれたと言われています。その間、数々の議員が何の根拠があってか、富里の代替地は浦安沖だとか霞ヶ浦や木更津沖だと勝手な事をいう度、名の上がった土地の住民は大騒ぎとなっていました。
 そうやって時間が過ぎた昭和41年(1966年)、政府は新空港建設を成田市三里塚に決定すると突然に発表した。1葉の航空写真には御料牧場だけで民家は殆ど見当たらず、在日アメリカ空軍横田管制空域(横田ラプコン)から外れている。この2点で簡単に決定してしまった。しかも住民には事前説明会など全く行なわれず。これが三里塚闘争の起源です。

 千葉県成田市三里塚。この土地は終戦までは宮内庁下総御料牧場として明治から昭和44年(1969年)まで畜産振興を支えてきたと自負する施設がありました。現在、御料牧場の跡地の一角には「成田市三里塚御料牧場記念館」があります。この記念館に行くと空港建設前の三里塚を知る事が出来ます。
 では空港建設用地には御料牧場だけしかなかったのか、と言うとそうではなく、広大な県有林と畑が広がっています。この地にはそもそも、森と御料牧場以外、全く無かった荒れ地でした。
 終戦後の食料不足と雇用確保の為に、多くの国有地が大蔵省開拓財産となり、三里塚の森と荒れ地も開拓財産として入植する開拓者に与えられました。それは戦後、ボリビアなど多くの外国に開拓に行った人達と同様に荒れ地が提供されたのです。全く農耕に適さない土地を開墾して土地を改良し、農作物が収穫できるまでには何年もの長い道のりがかかります。農作物の実らない土地を農地に変えるという血の滲む努力の末、三里塚は農林水産省農業構造改善指定の養蚕団地指定を受け、桑畑は無事に育ち農村青年達は長野まで研修に出かけ、シルクコンビナートの操業目前となった昭和41年7月4日、新空港建設は成田市三里塚と閣議決定されてしまった。
 成田市のホームページによると、三里塚の入植者の中にはアメリカ軍に占領されて海外から引き揚げてきても帰る所が無い沖縄出身の家族のことが紹介されています。入植したのは50世帯100人とされ、御料牧場を開拓地として与えられ、空港建設決定時には32家族が残っていたとしています。50世帯が32家族になる。相当の苦労だった模様です。苦労を重ね、生活が安定してきた矢先、突然にお上からの通達で全てが水泡に化す。これを黙って従えるものでしょうか。(2023年9月に再度確認すると、上記記述は削除されていました。理由は不明です)
 問題が国会で取り上げられたのは昭和41年6月25日の第51回通常国会本会議、冒頭に日本社会党柳岡秋夫議員より緊急質問として取り上げられました。議事録によりますと、まず冒頭に「空から一枚の写真をとり、そこに人間の住んでいることを忘れて、単に広い平たんな土地があるから空港をつくるのだという、しかも、安保条約に伴う米軍専用空域による航空管制上の見地のみを重視いたしまして、一度の現地調査も行なわず、一回も住民の声を聞くことなしに、一方的に候補地をきめようとすることは、民主政治を否定した、人間無視の政治であり、天下り的権力政治と言わざるを得ないのであります。しかも、四年このかた、候補地が、やれ浦安沖だ、富里だ、霞ケ浦だ、そうして木更津沖だと、それこそネコの目の変わるごとく、次から次へと、実力者や閣僚が放言をし、関係住民は、そのたびに右往左往させられ、長きにわたって苦しめられてまいったのであります。したがって、もうだまされまいという、政治不信が積み重ねられ、絶対反対の意思をより強く呼び起こしているのであります。」と激しい口調でスタートし、新東京国際空港公団法審議が行なわれた第48回通常国会の折の決議、それは「空港建設に当たっては、当該地域住民の生活権をそこなわないようにすること、当該地域における農業の振興と産業経済の伸展を阻害しないようにすること」と決議したことを指摘し、政府の一方的な突然の立ち退き、土地収用を激しく追及しました。
 そして質問は、第一に6月22日に総理は千葉県知事と会談し、富里案をやめる代わりに三里塚案を出して千葉県知事に協力を求めたのか。第二にこれが事実とすると、三里塚では昭和45年から5年もすると限界になると橋本官房長や運輸省が主張しており、最終的には富里に作らざるを得ないという政府側説明と明らかに矛盾している。第三に将来就航が予定されている超音速旅客機SSTの受け入れを掲げているのに、明らかに小規模の三里塚に空港というのは、どのような性格のものなのか、SST受け入れ空港は別に作るつもりなのか。第四に富里案を変更したのは農民の反対運動を重視してのことか。富里案変更の理由は農地率の高い土地を潰す為に発生する農地補償や住民の移転問題など救済策が明確でなかった事や、内陸部に大空港を作ることがそもそも不可能であり海面埋め立てを第一に考えるべきだったという結論があるにも関わらず、なぜ三里塚を選んだのか。第五に三里塚御料牧場は富里案代替地として予定されているが、空港敷地としての調査は全然なされていない。しかし政府は七月までに空港公団を発足したいと言い、中村運輸大臣は大臣を辞める前に決定したいという無責任な発言をするなど、政府はこのまま何の調査も住民の声も聞かずに閣議決定するつもりなのか。第六に騒音などの公害について、富里の場合も何ら研究もせず、国策だから犠牲を忍べという態度で住民に接するために、現地では政治に対する不信の念が強い。空港規模によって空港公害も大きく変わるものですから三里塚空港の規模と性格をさらに明確に運輸大臣よりお答えをいただきたい。と、質問をしている。また、当時の日本政府が進めていた農業振興策、それは農業基本法が目指す自立経営農家であり、農林水産省がモデル農家として折り紙を付け、開拓農家として成果の上がっている農家と農地を潰してまでも空港建設を強行する政府方針は農業振興と農民の所得向上という従来の政府方針を覆すものであり、農民を守る立場にある農林大臣はこのことについてどのように考えているのか。と、農林大臣にも質問をし、更に空港予定地選定に深く関わった米軍専用空域の問題に触れ、米軍専用空域の返還要求をしたことがあるのかと運輸大臣にも質問している。

 この八つの質問に対する政府側回答として、佐藤栄作内閣総理大臣は最終的な決定はしていないが、三里塚を中心として320万坪程度の空港を設置しようという流れになったとし、その理由として、比較的民有地が少なく住民も少ないとこを上げ、羽田空港に対処する第二の空港として設置するものだと答え、この事は千葉県知事との面談で伝え、千葉県知事が地元で説明したものと思っていますと回答した。また、SST機が就航するに当たり、色々な要望に答えるべく調査を進めており、三里塚が手狭になったからといって、それを理由に三里塚から富里に再度空港建設をするつもりは無いと回答した。
 次に永山忠則自治大臣が答弁し、議会の反対を押し切って建設されるのではという質問に対して、移転の補償、離農対策や代替地の問題、騒音公害や農業など産業の振興に万全を期すとし、地元民の犠牲において、全国民の福祉を図るようにはしないと答弁。次に中村寅太運輸大臣が答弁に立ち、たしかに昨年(昭和40年)11月に新空港予定地として富里地区に内定したが地元住民の反対の声を十分に聞いて三里塚に決定したとし、防音対策も「空軍基地等で」(会議録のまま)実施している様な防音対策を施工すると発言。また米軍専用航空基地の共同使用について申し入れは、現時点では非常にむずかしいとの回答を得ていると発言した。最後に坂田英一農林大臣が答弁に立ち 、三里塚の予定地は御料牧場と県有林が主体なので富里地区のように多数の農地がつぶれることはないと考えていると発言し、空港建設で若干の農地がつぶれることになると思うので、代替地の提供や転職のあっせんなどを考えていると発言した。
 柳岡議員の質問に対する答弁はこれで終わりです。中村運輸大臣の答弁に出てきた軍民共用の話は、その後も度々出てきており、翌昭和42年4月28日の第16回予算委員会でも取り上げられていますが、現在に至るも何の進展もなし。そこで石原慎太郎東京都知事が声を大にして叫ぶ結果となっています。
 成田空港の方は昭和40年6月に新東京国際空港公団法が成立し、翌昭和41年7月30日空港公団が設立。空港完成目標が昭和46年(1971年)3月であったのですが用地買収は進まず、1970年12月に定められた収用裁決により用地に対する第一次代執行が1971年2月、第二次代執行が9月に行なわれ、ようやく1978年3月30日に開港となったのですが、その4日前の3月26日。革労共戦旗派による管制塔占拠事件が発生し、端末装置の破壊に会いながらも同年5月20日に開港、一番機はロサンゼルス発の貨物機で21日に到着しました。

 何が問題をこじらせてしまったのか。その答えは昭和40年頃の情勢にあります。当時アメリカは南ベトナム政府に対する軍事援助を増大させて、ベトナム戦争、正式には第二次インドシナ紛争と呼ばれる南ベトナムの内乱に介入。その結果、補給基地となった日本の米軍基地はどこも大忙しの状態で、特に航空基地である厚木基地、立川基地、横田基地は多忙をきわめており、騒音公害や墜落事故などダーティイメージも付いて回りました。  またベトナム反戦運動が盛んであった上に、軍拡反対の声も高く、超音速旅客機SSTに対応出来ない空港の建設は、将来、SST対応飛行場建設後、軍用飛行場に転用する為だ。と、いう話が勝手に歩き回った結果、成田空港は軍事転用を前提にした空港だから建設は絶対に阻止しなければならないと解釈され、主張の違う左翼系運動体が大同団結して成田闘争が始まったのでした。
 元々、主義主張が違う団体が集まったものだから内ゲバと呼ばれる内部抗争も同時進行した為に、支援する農家毎にセクトが分かれ、一般の人には訳が判らなくなってしまったのが成田闘争最大の敗因と言えましょう。このセクト毎に分かれた結果、例えば反対農家を支援していた国鉄こと日本国有鉄道の労組など、大雑把にいうと、国鉄者労働組合こと国労と動力車労働組合こと動労の二大労組が最初は反対農家支援をしていたのですが、極左運動体の参加で支援を縮小する中、唯一「千葉動労」だけが最後の最後まで反対運動につきあい、支援ストライキ闘争も単独で実施してきました。それは、千葉動労は第四インターナショナルと呼ばれる運動体との連帯の結果だったのです。

 国会審議では、直ぐにでも実用化されると思われていた超音速旅客機SST。就航した実用機は英国とフランスの共同開発で生まれたコンコルドだけで、1969年(昭和44年)に就航。巡航速度はマッハ2.2。しかし、生産数は原型機4機を含めて20機のみで1976年11月に生産を終了。同じく、就航していたか良く判らないが実用となったSSTとして旧ソビエト連邦のツポレフ設計局で作られたTu-144があった。座席数140席、運用開始1975年でマッハ2.35出て航続距離6500kmとコンコルドの少し上を行く機体だったが、整備上の困難がつきまとい、1973年6月のパリ航空ショーでも墜落事故を起こしている。ただ、コンコルドに対抗して作っただけで開発目的が不明瞭だった為に数年で引退してしまった。  世界唯一の定期航空路で活躍したコンコルドの座席数は僅か100席。パリとニューヨーク間を3時間45分で結んだものの、当初の就航路線はブラジルのリオデジャネイロ、ベネズエラのカラカス、ニューヨークJFKと騒音問題から世界中の空港から入港禁止とされ、ニューヨーク就航も裁判闘争の末の就航であった。
 手元にあるエールフランス1998年前期タイムテーブルによると、コンコルド就航路線はアムステルダム、オスロ、ベルリン、デュッセルドルフなどヨーロッパ近郊路線のみ。唯一、マドリッド路線だけがコンコルドだけの路線でした。これは座席数が100席しかなく、遠距離大量輸送という世の中の流れに取り残されてしまった結果でした。
 そもそもコンコルドのようなデルタ翼の実用機は、超音速機かどうかは別にしても先のツポレフ設計局の他はアメリカのノースロップ社しかなく、同じく超音速旅客機SSTの開発を手がけたボーイング社は結局、超音速旅客機の実用化は見通しがないとして開発を放棄、その替わりアメリカ空軍向けに試作した大型輸送機C5のトライアルがロッキード社に負けたのを逆手に取り、「ジャンボ」の愛称を付けてB747として売り出した所、空前の大ヒットとなり、ボーイングは完全に超音速旅客機SSTに見切りをつけてしまった。ノースロップ社も軍の予算で色々な試作機を作るも、どれも製品化される事もなく大量生産された航空機としてはB2爆撃機しかなく、軍用機にしても速度よりステルス性に話題が移ってしまっていました。軍用機の世界ですら音速(マッハ)まで出せる軍用機の需要そのものが豊富な軍事予算に恵まれた国と広い国土に限定される為に、必要とする国そのものが極端に少ない。その為に世界最高速の記録を持つロッキード社の開発した偵察機も運用コストの負担に耐えきれず、NASAが学術調査用に使っているものを除いてアメリカ空軍から全機退役となってしまった。
 エールフランスで就航していたコンコルドは2003年5月31日のフライトで終了。同じくコンコルドを就航させたブリティシュエァウェイズもロンドン・ヒースロー空港以外はエールフランスと同じ都市にしか就航できず、エールフランスの半年後の2003年10月に就航終了となりました。今、コンコルドはエールフランスの持っていた1号機F-BVFA(製造番号5番機)はアメリカのスミソニアン国立航空宇宙博物館に寄贈され、もう1機の商用機としては世界最高速の記録を持つF-BTSD機(製造番号13番機)は祖国フランスのル・ブールジュ航空宇宙博物館に寄贈されている。
 世の中の流れは政府予想を全く裏切り、速さより大量輸送に主眼が置かれ、速度が早いだけでは何の役にも立たなくなってしまった。例えばエアバス社の新作A380は総二階建ての旅客機で座席数最大555席。コンコルドのファーストクラス100席より遥かに稼ぎは良い。エアバスA380の就航は2006年を予定しており、エールフランスすらA380の運用を2007年からと発表している。
 42年前、政府はSST就航と共に羽田の破綻を予想していたが、その予想は現在において大きく覆されている。さらに追い打ちとして羽田空港大幅な拡張、そして再国際化構想がある。例えば2月12日の神奈川新聞の1面には羽田空港の2009年国際化復活を視野に入れた航空貨物物流のハブ化を前提にし、移転で空き地となったいすゞ自動車川崎工場跡地に物流センターの整備が報じられている。42年前の政府予想は今や完全に覆されてしまっている。

 過去の話となった成田闘争。しかし、富里空港廃案と同じパターンを描いている航空施設が今ある。それは沖縄の普天間飛行場移転問題です。アメリカ海兵隊が使用している普天間飛行場は1996年12月2日に日米両政府によって決められた「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」の決定に基づき、普天間基地に駐留するKC-130空中給油機とAV-8ハリアー攻撃機の岩国基地移駐とキャンプ・シュワブ沖水域に代替え施設の新設による普天間基地の全面返還が決まった。一番の目玉は設備が不要になった時、容易に撤去できる事が絶対条件となり、政府側調査でキャンプ・シュワブ沖が一番条件を満たしているとしている。  しかし、代替え予定の海域には世界的な稀少動物ジュゴンの生息海域であるとか、代替え施設は15年の限定使用であるとの政府側説明に地元も在日アメリカ軍も異議を唱えた。作ろうとしている施設はヘリポートと言いつつ長さ1500mの滑走路を持ち、整備工場など支援設備も設置するので、基地要員だけで約2500人、配備ヘリコプターは約60機とそれなりに大きい。この巨大な方舟が生態系に及ぼす影響は自然が売り物の沖縄にとって致命的なものだと多くの人達は考え、海上基地建設の反対運動は富里地区の反対運動に引けをとらない。
 この先の見えないプロジェクトの打開策として最近、出てきたのか沖縄本島より南にある伊江島にある下地空港の名が上がっている。下地空港は民間航空会社がパイロット養成訓練に使っている飛行場で、旅客用空港とは別に作られている訓練専用空港です。昨年から頻繁に沖縄駐留アメリカ軍はフィリピンなどに向かったり戻ってくるヘリコプターに給油すべくKC135給油機を下地空港に派遣して給油作業を何度か行なっている。下地空港は在日米軍提供施設ではないので空港管理者の沖縄県が拒絶するのだが、在沖アメリカ軍は勝手にやって来て作業を行なう事もあり、評判は悪い。 その下地空港を共同使用にして普天間の代わりに在日アメリカ軍に提供しようという安直な話に批判は集中しているし、アメリカ軍自身も下地空港では狭すぎて使えないと乗り気ではない。がしかし、富里から三里塚に変更された経緯を思うに、可能性は否定できない。何しろ下地空港から台湾へは嘉手納より遥かに有利な位置にあるからだ。
 普天間基地の移転問題で政府は成田闘争の二の舞を演じるのかはわからない。その可能性が全くないとは言えないからだ。

キーマン@軍事・edit:高木規行
------------------------

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?