見出し画像

[読書ノート]16回目 3月9日の講義(第一時限)

講義集成12 1982-83年度 417頁~439頁

今回のまとめ

  • 古代の哲学のパレーシアを引き継ぐのはキリスト教の教え

  • 中世の神学に支配された哲学にはパレーシアはない

  • 近代哲学はパレーシアの取り戻し

講義の最初で今年度の講義を振り返り、エウリピデスやトゥキュディデスのテクストを通じて現れてきたような(民会における発言の自由というような)パレーシアのあり方をペリクレス的契機(紀元前5世紀の後半)とパレーシアのプラトン的契機(紀元前4世紀前半)に分け、プラトン的契機の方は、その後長きにわたって、哲学の実践に対して責任を負わせることになったと述べる。フーコーは(そのようにプラトンを読むことを)「合理的でない説明を行おうと」しているとコメントしている。ただし、これはマイクの不調という「そのことがこのような厳しい技術的な罰を受けることによって表現されるというのも悪くないと思います……」という冗談の文脈での言葉。

パレーシアの源

行使される場所による方向転換

 プラトン的契機とともに見られるのは、パレーシア的実践の繰り広げられることになる場所が政治の舞台そのものではなくなった時に起こる物事であり、それこそが哲学であるということ。
 明確にしておかなければならないことは、政治の領域におけるパレーシアが消滅したということでは全くない(そんなことをいうと歴史に関する大きな誤りになるだろう)。また、政治的パレーシアが別の場所に移しかえられることによって哲学が生まれたと言いたいだけでもない。私(フーコー)が述べたいのは、パレーシアについての一連の方向転換――政治的パレーシアが哲学的実践の領域へと派生していったことにより――哲学の誕生や、根本的な起源では全くなく――哲学的言説や哲学的実践や、また哲学的生についてのある種の方向転換が生じたということ。

パレーシアの担い手

 (ペリクレス的契機においては)パレーシアの担い手は(弁論家でもある)市民であった。(プラトン的契機としてソクラテスを見てきたが)それは他の人々と同様に語り、誰もが用いる言葉を語るような市民であるが、しかしある種の仕方で他の人々から一歩離れたところに位置する……そのような市民としての哲学者に担い手が置き換わる。
 繰り返しになるが、政治的パレーシアが消滅したわけではなく、また哲学というものが、突然誕生したというわけでもなく、哲学をめぐって、また哲学そのものの中で、パレーシアのもうひとつの源が形成され、作動し始めたということ。

パレーシアが生み出すもの/パレーシアによって生み出されるもの

 よく理解しておかねばならないのは、パレーシアが生み出すのは(明らかに哲学の全体ではなく)真実を語り、そのように勇気を持って真実を語ることで、他者に対する支配力を得て他者をしかるべく導く自由な勇気という意味における哲学だということ。そして、他者に対して支配力を持ち、死の危険さえ引き受けて他者をしかるべく導くために真実を語る自由な勇気として定義された哲学こそ、パレーシアによって生み出されるものである。

哲学がパレーシアであること

① 哲学的な生

 古代哲学がひとつの生のあり方であることは、古代哲学を横断し、貫き、支えているパレーシア的機能という全般的な枠のなかで解釈されねばならない。哲学的な生とは、もちろんある種の生き方イグジスタンス〔生存〕についての選択であり、そこにはいくつかの事柄を諦めるということが含まれている。しかしそのことは、生き方のある種の浄化を働かせるためだけではない。哲学的な生の修練主義的なあり方の中で生き方を浄化するという側面は、そもそも古くピタゴラス学派の伝統に根付いていて、その痕跡はプラトンのうちにも残っている。しかし、そうした機能は長い尺度――古代から紀元2世紀までの歴史のなかで考えれば、哲学的生き方とは何かを決定するにあたって最も重要なものではなかったように思われる。
 哲学的な生とは真実の表明である。人の生き方の種類、人がなす選択の総体、人が諦めたり受け入れたりする物事の数々、服を着る仕方、語り方等々によって、哲学的な生というものは、徹頭徹尾、そうした真実の表明でなくてはならない。(ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝〔哲学者たちの生涯〕』には、哲学的な生が真実の表明として現れる仕方(教義、身体的な外観つまりエートス、ちょっとした情景)が描かれているものとして読むことができる)

② 統治する者たちへの語りかけ

 哲学がパレーシアであるというのは、哲学が生であるだけでなく、また、統治する者たち〔=権力者たち〕に対して恒常的にあれこれの仕方で語りかけ続けるからでもある。(そのやり方は)多様な仕方による。いくつか例を示したように、キュニコス派的シニカルな横柄さというかたちをとることもあり得る。そして、とりわけセネカの場合は、君主に対する教育というかたちとなり、紀元前1世紀と紀元1世紀のローマにおけるエピクロス派、1世紀と2世紀におけるストア派のように、しばしな政治的に反対の姿勢を示す集まりに属するというかたちになることもあり得る。

③ 個人に対しての語りかけ

 古代哲学のあり方として、私人、また私人である個人に対して語りかけられる永続的な呼びかけというかたちがある。キュニコス派やストア派的な重要な説教のようなかたちや、劇場や集会での説教でもある。また、個人に対する呼びかけでもあり得るし、群集に対する呼びかけでもあり得るようなもの。さらに、古代哲学に特有の(中世、そして現代のものとは非常に異なった)学校という組織構造でもありうる。他にはエピクロス派のような、より閉じられた共同体【エピクロスの園】では、告白、相互の打ち明け話などの詳細な語りといった実践が形づくられるのが見られる。つまり、他者を彼ら自身の操行のなかで導くために本当のことを語る勇気を形成するようなパレーシアが姿を現す。

近代哲学との共通点(の少なさ)

 古代哲学をその【上記の①②③】ようなものとして――つまり、一種のパレーシア的実践として理解したなら、現在、学校教育や大学での研究の対象として現れているような西洋近代哲学と比べると比較的わずかな共通点しか持たないだろう。
 逆に決して【古代哲学を近代哲学のように】ある確定された領域における真理の体系として理解してはいけない。古代ギリシア・ローマ時代の全体を通じて哲学は、自分自身にとっての危険を冒すことを受け入れるような「真実の語り」によって、人々の操行について自由に呼びかける営みであった。

古代哲学の限界

 一方で、古代哲学の黄金時代の末期には、古代哲学のある種の限界が見られ、その空洞――キリスト教思想、キリスト教的修練主義〔=禁欲主義〕、キリスト教的説教、そしてキリスト教的「真実の語り」が雪崩れ込んでいく――そのような場所が姿を現すのを感じ取れる。

キュニコス派の特徴

 エピクテトスの『語録』第三巻第二十二章で描かれるキュニコス派の姿を参照する。キュニコス派の人間は、技巧や装飾でありうるようなものをすべて断ち切った人である。それは自分の欲望でありうるようなものをすべて断ち切った人。そしてとりわけ、何ごとかを免れるために自分の欲望、情念や依存状態を隠そうとしない人。(ただこの隠そうとしない/すること)は恥とは何の関係もない。キュニコス派の「つつしみ」とは、その人が隠すべき何も持たない時に実際に何も隠していない、そういう透明性のこと。つまり、キュニコス派の人は白日の下に生きる人であり、それができるのは彼が外部に恐れるものを何も持たない自由な人間だからである。彼は、その生において、明白な状態における真理なのだ。
 特徴の二つ目は、彼が権力者や恐れるべき相手に話しかけるとき、彼は彼の「真実の語り」が相手を怒らせた場合に起こりうる命を失うことになる危険を考慮することがないということ。つまり、キュニコス派の人、そして哲学者は、真実の言表が決して何らかの恐れに捕らえられるようなことがあってはならない人である。
 三つ目の側面は、彼がおこなう救済と彼が真実を語る際の勇気によって、彼は人類全体に奉仕することができる、というもの【これはディオゲネスが「コスモポリタン」であったというのと同じこと】。キュニコス派の人は【一国の】政治よりももっと偉大な政治に携わっている。

後を継ぐものとしてのキリスト教の教え

 結局のところ、エピクテトスの少し後、キリスト教の教えが、さまざまな形態のもとにそうしたパレーシア的機能の後を継いで、そこから徐々に哲学を取り除いてゆくことになる。聖書や啓示に対する新たな関係、教会制度の内部における新たな権威の仕組み、修練主義についての新たな定義、そのすべてが「真実の語り」の構成原理エコノミーを根本的に変え、数世紀にわたって、パレーシアの役割を果たすのは、哲学ではなくなってしまう。
 私(フーコー)が示唆しておきたいのは、哲学が果たしたパレーシアの機能は、まず政治から哲学的な源へと移された後、再び哲学的な源からキリスト教的司牧とでも呼べるようなものへと移された、ということ。

近代哲学:パレーシアの再開

 しかしながら、提起したい問いがある。近代哲学――少なくとも十六世紀から再び現れてきたような哲学が、キリスト教の内部で作用していたパレーシアを再び取り戻したものと考えることができるのではないか。(そのように考えるなら)十六世紀以降のヨーロッパの哲学の歴史というものを、ひょっとしたら、政治や科学や道徳といった事柄について本当か虚偽かを述べようと試みる学説の連なりとして考えるべきではないかもしれない。もしかすると、ヨーロッパ近代の哲学の歴史というものを、「真実の語り」についてのもろもろの実践の歴史として、またパレーシアについてのもろもろの実践の歴史として考えることができるかもしれない。
 ヨーロッパの哲学が実際に書き込まれているのは、世界や政治、「自然」などについての教説としてよりもむしろ、パレーシアとしてではないか。哲学というものが絶えず新たに開始されるのは、絶えず取り戻されるべきパレーシアとしてではないか。そしてその限りにおいてこそ、哲学というものは、西洋の社会において特異で、固有な現象であるのではないか。

デカルトの『省察』

 実際、そのほとんどがキリスト教的司牧とは何かという点や、「神の言葉パロール」「聖典テクスト」「聖書エクリチユール」に対して司牧が押しつけていた関係をめぐって行われていた議論から、近代哲学がどのように抜け出したか、ということを考えてみるなら、哲学が新たに姿を現してきたのはパレーシアとしてである、という風に考えることができるのではないか。結局のところデカルトの『省察』は、真理のうちに学問的言説を基礎づけようとする試みであるのだが、また同時にひとつのパレーシアの試みでもあると思われる。つまり、まさに哲学者こそが「私」と言い、学問的に基礎づけられた、明証性というかたちにおいて自分のパレーシアを表明しつつ語るのであり、それは何よりも(教会の、学問の、政治の)権力の仕組みに対して、その名において哲学者が人々の操行を導くことができるような、ある役割を果たすためだからである。
 (逆に)中世の全体を通じて哲学が神学に支配され、パレーシア的な機能をキリスト教的司牧に譲り渡していた時、それ【パレーシア的機能】に対応するようなものはほとんど見ることができないだろうと思う。

哲学の歴史

 現在あまりにもしばしば支配的な二つの(哲学の歴史についての)図式――①ある忘却のような何ものかのうちに根源的な起源を探そうとするような哲学史という図式、あるいは②哲学の歴史をある合理性の進歩や変化や発展として考えようとするような図式、そのどちらにも規定されることのないような、ひとつの哲学の歴史を提案したい。
 哲学の歴史というものは、「真実の語り」についての一連の挿話や形式フオルムとして描くことができると思う。つまるところ、パレーシアの運動としての、パレーシアの再分配としての、「本当のことを語ること」についての多様なゲームとしての哲学、そして語りの力とでも呼べそうなものにおいて考えられた哲学の歴史である。

哲学が間違うとき

 もし、(これまでのパレーシア=哲学的言説の特徴づけ、そして古代哲学と近代哲学の存在様態の連接といった)そのような見方が採用できるならば、①哲学は政治の領域において何をなすべきかを言い、またどのように統治すべきかを言おうとすることは間違いであり、いずれにせよ【言及した場合】間違うことになるのはなぜか、分かるだろう。②哲学が学問の領域において何が真であり何が虚偽であるかを言おうとするのは間違いということになる。③哲学は主体を疎外から解放するようなものであるべきではない。
 哲学は、自己への関係が実際に変化することができるような、もろもろのあり方を決定すべきなのである。

今回は以上です。次回が今年度最後の講義になります。

私的コメント

 えー……最初に、今回の講義を読んで「ニヤリ」としてしまったことを白状しておかねばなりません。つまり、私の「哲学者の紹介」記事が、中世哲学をぶっ飛ばしていることについてフーコーのお墨付きを得たわけですからね。もちろん、随分前(記録には2011年とあります)に一読はしてますけど、そんなの全部忘れてますから。いやぁ、よかったよかった。
 それはさておき、フーコーが今回提示したように、哲学の歴史を描くことが正しいか、そうではないかは、パレーシアに関しては別の問題です。(ただし、反証はいくつもあります。「キュニコス派の人=哲学者は」真実を語ることによる命の危険を恐れないとありますが、講義でバッチリ名前が挙がっているデカルトは、「命の危険」にビビりまくっていました)おさえておくべきは、フーコーの問題意識の流れでして、それは――『監獄の誕生』(講義集成では6『社会は防衛しなければならない』)以後、(8の当時の新自由主義分析を別にすれば)「統治性」がテーマになりました。そして、いわばそれを乗り越える/補完する(このセンシティブな部分は、一冊目が終わったら別記事でまとめたいと考えています)ものとして、個人の単位での統治に移ります。その際、フーコーは先にキリスト教の、司牧権力などを詳細に検討しています(それは意外にも早く、7『安全・領土・人口』でです)。この講義でパレーシアの源がキリスト教に移ったと言っているのは、その講義ありきのものです。司牧権力や告白といったものの中に(少し単純化して言うと)たしかにパレーシアはあった。しかしながら、哲学はなかった。哲学とパレーシアが共存したのはいつだろう(ペリクレス的契機)。また、互いに存在の源であるような関係を持ったのはいつだったか(プラトン的契機)。そして、既知であるところの哲学の没落を経て(このあたりは前年度、前々年度の講義で詳細に分析されています)、近代哲学をパレーシアの取り戻しとして再解釈する。これは、フーコーの描く歴史的側面をなぞっているのではなく、この流れの中にこそフーコーが考える「哲学とは何か」の答えが位置付けられているということです。
 強調しておきたいのは、古代と近代が円環の中に位置付け直され、哲学(あるいはパレーシア)が現代的問題として私たちの手元に戻ってきたということです。しかし、フーコーが「西洋の社会において特異で、固有な現象」と常に(今回の講義だけでなく何度か)言葉を加えていることは覚えておきましょう。西洋の社会の外にパレーシアはないのか。あるとしても、あくまで西洋からの輸入品なのか。西洋の社会ではない「私たち」に残っている問題のひとつは、これです。つまり、(哲学研究者という一つの職業はほっておいて)私たちは哲学者パレーシアストであることができるのか?
 この問題について、少なくとも私は重要と考えています。その理由は、仮に西洋以外の場所にパレーシアがあり得ないなら、世界における西洋のポジションが下がっていくのと連動してパレーシアがその位置を失っていくでしょう。逆に、西洋以外にパレーシアがありうるなら、世界のなかでこれからも哲学的思考のポジションが残るだろうからです。


もしサポート頂けましたら、notoのクリエイターの方に還元します