見出し画像

[読書ノート]フーコー 0回目:凡例付き

いろいろ事情があって、読書ノートを始めることにしました。他の記事では「スキ」の数など気にしないと強がっている私ですが、この企画については対象外とさせてください。皆さんの「スキ」は励みになります。
さて……ど頭から泣き言じみておりますがまずは以下、基本情報をお知らせします。

テーマ

 メインテーマは「パレーシア」についてです。この言葉のもともとの意味の一つは、すべてを語るですが、その意味の広がりや変遷をフーコーとともに辿ることになります。さしあたってパレーシアとは「すべてのことを語る」「本当のことを語る」「率直に語る」の3つがニュアンスの軸であるとおさえておきましょう。
 読解の過程では、伝統的哲学における「真理」の意義よりも、「真理の語られ方」や「真理が語られることの効果」の企図についてフーコーと共に注目することになります。また、フーコーの考える「哲学がやるべきこと」なども、結論の一つとして明らかにされます。
 フーコーは、(現代から見れば)単行本を出版するたびにテーマや方法論を変えています。晩年のテーマであり、現代の哲学者(だけでなく多くの人間科学研究者)たちが関心を寄せているものとしては、「統治性」「自己の統治」などでしょうか。私が取り上げるのは、さらにその後、死をもって実質的に最後のテーマになったパレーシアなのですが、これは、相手(多くの場合、目上の人)へ真実を語ることです。自己の統治というテーマと断絶しているわけではなく、むしろ繋がっている部分の方が多いのですが、統治に関する重心が大きく相手側(あるいは自己と他者との間)に移動していることがポイントになります。

 なぜパレーシアをテーマにするのか。理由はいくつかあります。フーコーに内在すると、生政治から主体が統治する/されるものとしてつくりだされるプロセスや技術――つまり「統治性」に至る問題群は、結果的に「出口のない統治」を描いただけになっていると考えています。極端にいえば、それは(現代の)資本主義以後の統治のためのツールとして、敵に塩を送ったことになるかもしれません(正確には現在進行形……「送りつつある」といったところでしょうか)。フーコーはおそらくそれを自覚していました。だから対抗策を求め、それがパレーシアだったのです。
 フーコーから離れ外在的な理由としては、例えばアガンベンもパレーシアに注目します。「出口のない統治」に対するアガンベンなりの対策として無為使用の概念があると読むのが本筋でしょう。私がアガンベンを紹介する際には、そのどちらか(おそらく後者)を取り上げると思います。しかしながら、私は、アガンベンは確かにフーコーの後継者ではあるものの、時代感覚としては遅れていると思っています。以下、細かい話になるので関心のある人だけ参照ください。
 『創造とアナーキー』(月曜社、2022年/原著 2017年)を最近読みました。「ホモ・サケル」以後の視点から過去の研究を位置づけるという構成になっている本でしたが、アガンベンが対抗しようと思っている相手が(現在の)資本主義であることも、改めて感じる機会でした。これはどういうことかというと、(ドゥルーズのいう)管理社会への対抗に多くの部分が該当するということです。ところが、フーコーは『監視と処罰』の中ですら、管理社会から規律化への移行を述べています。ざっくりいえば、アガンベンは意図的に一つ前のテーマに焦点を当てている。もちろん、実際はそんなに単純ではありません。フーコーの描く(出口のない)規律化に対して、別様の規律化として「使用」の概念(本としては『身体の使用』や『いと高き貧しさ』)を立てているわけですから。それはそれでありです。しかし、一足飛びに「後継者」に行く前に、フーコー自身の(おそらくは失敗した)試みを丁寧に辿る必要がある、こんな感じです。

テキスト

『ミシェル・フーコー講義集成12』「自己と他者の統治」コレージュ・ド・フランス講義1982-83年度
『ミシェル・フーコー講義集成13』「真理の勇気」コレージュ・ド・フランス講義1983-84年度
これらがテキストです。フーコーに関する紹介記事でも触れましたが、現在定価での入手が困難になっているものです。
 単行本との連動について、少し遡って整理しておきましょう。ちなみに、私の記事では生年や本の出版年としての数字を記載しないことで、情報量の圧縮(人によっては読みやすさ)を基本方針にしていました。読書ノートでは、数字の記載を解禁します。
 管理(監視)技術から規律化のための技術への歴史的変遷を描いた『監視と処罰』(監獄の誕生)は1975年出版でした。『講義集成』では6「社会は防衛しなければならない」(1975-76)や7「安全・領土・人口」(1977-78)が内容的に該当します。『性の歴史』は1976年に第一巻が出て、空白の8年を挟んで第二巻、第三巻が出されますが、コレージュ・ド・フランスの講義はずっと続いているので、「セクシャリティ」や「生政治」、そして「統治性」については『講義集成』9「生者たちの統治」(1979-80)、10「主体性と真理」(1980-81)などを参照することで詳しく知ることができるでしょう。『性の歴史』第二巻と第三巻は1984年の出版ですが、これは死ぬ前に頑張って出版したからであって、例外的に講義の年と連動しません。
 他の記事の繰り返しになりますが、『講義集成』8「生政治の誕生」(1978-79)はタイトル詐欺で内容は当時の新自由主義分析となっています。定価以上で購入しても生政治の誕生についてはほとんど述べられないので注意です。
 パレーシアについては、『講義集成』11「主体の解釈学」(1981-82)でも既に取り上げられているのですが、「良心の導き」という限定的な文脈での言及でした。取り上げるテキストでは、パレーシアの概念が、自己と他者の統治という、より広い文脈で論じられます。講義としては連続しているので、12の最初の講義(1983年1月5日)は、カントの「啓蒙とは何か」などに触れつつ、実質的にはフーコー自身による後付けの研究成果の再配置(および哲学のアクチュアリティーについての概観)が行われています。
 したがって、読書ノートは、1983年1月12日の講義からスタートとなります。

引用についてなど

 読書ノートですから、全体が引用です。そのため、ページ数もいちいち付しません。ただし、引用文であっても日本語以外の言語(フランス語、英語、ギリシャ語)は割愛させていただきます。理解に必要な部分はカタカナで補足する……というより、原文でもルビでカタカタが多用されているので、それで十分だろうと考えています。この記事にしても、『講義集成』Ⅺを11と表記しています。つまり、厳密な正確性は、私の裁量で犠牲にする部分があると思ってください。
 また、私の言葉を添える場合は必ず明示するようにします。こっちの方が、他の記事との違いという意味では大事ですね。

 こんなとこでしょうか。慣れないことゆえ、至らない点や間違いがあれば遠慮なくご指摘ください。

凡例

【 】部分は松岡による補足
( )部分は文脈と整えるためのもの=松岡の意図は含まれない
ボールドは松岡による理解を助けるための補助=内容についての意図は含まれない
その他の翻訳テキストには3種類の括弧が使い分けられている
[ ]原文にある編者による補足
〔 〕訳者による補足・訳注
〈 〉原文にはないが、読みやすくするための区切り
このうち、〈 〉については、あくまで読みやすさのためという役割から原則「 」に置き換える

もしサポート頂けましたら、notoのクリエイターの方に還元します