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雑記:西欧思想の未来は明るくない

 私は西欧哲学がアクチュアリティ(現実への影響力の実質)を持つ世代の最後尾にいるのかもしれない。
 もちろん直ぐにそれが失われると思ってませんが、しかし、今回はいつもより長く広い視点で考えてみます。

人口と気候変動(マクロな数字)

損失と損害 Loss and Damage

 金持ちの集まりの様相を呈していたCOP27だったけれど、閉幕の直前に(私が過去の記事で書いた言葉を使うと)「まっとうな」議題があがり、ある程度の成果(合意)を残したようですね。それは「損失と損害」についてです。このことについて詳しくを紹介するつもりはないので、興味がある方は、検索してみてください。言葉そのものはずーっと前からあるもので、気候変動に対して「緩和」とか「適応」といった、焼け石に水的な処置では回避できない破壊的な影響のことを指します。そして、(最近でこそ欧州まで変動の影響が顕著になってきたけれど)基本的には、過去(産業革命以後)の成長過程で温暖化ガスを出しまくってきた先進国は、気候変動の悪い影響を受けている度合いが少なく、途上国は(そういう成長をしていない分)温暖化ガスを出している量は圧倒的に少ないのに、気候変動の悪い影響をモロに食らっている、これは不公平だ、というのが内容です。COPでは前回でも話題には上がったようですが、今回は「損失と損害」基金の実現まで合意され、先進国各国からは拠出の表明もありました。まぁ、でもこれはお金の話で、具体的な内容は次回(COP28)で詰められるそうです。
 このことについて、途上国が「不公平」を訴えるとき、ある種の西欧的「正義」や、直接的な言葉としては「道徳」をあげています。そして、先進国はそれに(差し当たってお金という手段で)応えた、ということです。応えた各国は、相対的に立派だと思いますよ。相対的というのは、どことは言いませんが、出し渋っている国もあるからです。
 ただし、私が思うに「損失と損害」はお金で解決できるものじゃないです。というのは、お金で解決できるのは「緩和」や「適応」まで、じゃないかということ。もう一つは、気候変動による(途上国の)被害を一度抽象的なお金で計量して、その分量を補填されても、被害そのものはチャラにならないと思うからです。いや……ここはもう少し複雑で、例えば大規模な水害を例にして、それが仮に毎年起こるとします。その場合、その被害額を毎年払うというのは、払う方も、払われる方もバカです。被害を防ぐことにお金を使わなけれならない。もちろん、そういう風に使っていくんでしょうが、防災は被害のようには計算できないはずです。
 つまり、「まっとう」といっても、それは論理的にそうであるのと(実質的には同じことですが)向こうが投げてきたブーメランをかわしてそれが先進国に刺さっているというだけであって、最初のブーメラン攻撃が科学的にも道徳的にも間違っているのです。したがって、後で触れますが衰える先進国が将来にわたってお金を払うのは、援助ではなく、自らの行為の罰金です。

住む場所の移動:領土

 そもそも、気候変動による自然災害が継続する、あるいは年々ひどくなる場所に住み続けるのはバカげています。地球にとっては近年の気候変動など小さなことですが、その小さなことで甚大な被害が継続する場所があるわけです。「場所」といっているのは、それは人間が人為的に決定した国境とは関係ないからです。
 予想される未来として、人が住む場所の移動が起こるでしょう。その際、国境をまたぐ移動の場合もあるでしょうし、また、またげない場合もあるでしょう。つまり、人の移動……逆に土地の側から表現すると領土の問題が起こるでしょう。歴史的には、領土問題は血なまぐさいプロセスを伴いました。そのようなプロセスを回避できるなら、人類の進歩といえるでしょうが、果たして西欧哲学の諸概念は、そのような進歩に寄与するでしょうか。あるいは、逆に(悪い意味で)作用するでしょうか。もしくは――これが最も望ましいことかもしれませんが、無関係であり得るでしょうか。

決定された未来:人口

 最近のニュースで人口が80億人に達したことを目にしました。もちろん今後も増えていきます。当然ながら無限には増えないのでピークは100億人を越えたぐらいだと予想されています。ただ、ピークについてはいろいろ条件も変わるでしょうからあくまで予測です。一方で、近い将来の人口動態は、未来ではありますがほぼ決定されています。今後、大幅に増えていくとされているのはいわゆるアフリカという名前で一括される地域の国々です。
 このことと、先のCOPでの途上国の発言が重要視されることとは無関係じゃないです。でもそれは単に、人数が多い地域の声だから、というものではないと、私は思っています。ざっくりした言い方になりますが、ようするに今後、先進国は老います。国として衰えるという意味ではなく、人口構成が老いるということです。他方で、途上国は、若く、活力を持つでしょう。とはいえ、国や政治や経済の単位での力関係の変化がこの記事のテーマではありません。テーマにしているのは、そういう決定した未来において、思想として、あるいは教養として、国際的な共通知識として、西欧哲学の居場所があるのかということです。
 私は、ないと思います。つまり、徐々になくなっていくということです。そう思う理由は沢山ありますよ。単純に途上国の人々の伝統、暮らし、感覚とマッチしていない(西欧のいう普遍性は全然普遍的ではありません)とか、近い未来の国々が選択するポリテイア(政体)が、いわゆる近代民主主義じゃないのではないかとか、人口の多数を占める人たちにとって既に(あるいはこれから選択されるものも含めて)別の思想や教養があるとかです。

私のnotoの未来も暗い

 西欧哲学が教養として意味を持つ度合いは年々小さくなると思う。という内容を書いてきました。……何事にも初志というものがあって、例えば、実際にそうかどうかは別にして、私が、自分の子どもたちがある程度の年齢になったときに読んでもらうもの、として「哲学者の紹介」だったり「読書ノート」だったりをしているならば、その効果というか効用というのは、年々小さくなるということでしょう。まぁ、でもいいんです。notoという媒体における私の信念と、そのメディウムを離れたところにある私の信念は別ですからね。
 それに、明るいよりも、暗い方が落ち着きますし、暗いところからしか見えないものもあります。とりあえず、現実的な事柄としては、notoそのものの持続可能性を応援すること、と、記事を書くことが直結しているなら、それでよし、といったところでしょう。(形式的なことですが、ダークモードは改善の余地がありますね。ボールドが目立ちません)

幾つかのあり得る結論

 ひとつ、結論じみたことをいうとしたら……そうですねぇ。どんなものにでも有効期限がある……というのは当たり前で、どちらかというと、そのような「限界」を引き受けて、思考する=行動すること、でしょうか。あんまり真剣にならなくってもいい、というニュアンスも含んでいるのですが、敢えて格好をつけるなら、そのような限界からこそ真摯さというものが構成される、っていう感じです。こういう結論を両義的というんですが、哲学的なエクリチュールの悪い癖の見本ですので、あまり真似をしないように。そういうの、廃れていきますよっていう記事ですからね。
 さて、この記事の内容(おおよそファクトであること)を真面目に受け止めると、まぁ、SDGsはもう、いいんじゃないんですか。いや、目立ってなければいいんですが、現状は、目立ちすぎです。ぶっちゃけ、SDGsへの取り組みを表象する(represent)のは、自分は深く考えることをやめているとプレゼンテーション(presentation)するようなものです……っ、いかん。こういう天に唾するのもよくない。notoさまも梃子を入れていらっしゃいますからね。


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