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フーコー:【哲学の理論的移動】

フーコーの人物紹介の記事です。

時代背景・どんな人物

教授資格試験合格まで

 フランスでお医者さんの家系に生まれる。お姉ちゃん一人、弟一人。弟は後に外科医になる。
 中学生に上がったぐらいの年齢のとき、「歴史学の教授になる」と宣言。当然、お医者さんになってほしかったお父さんを驚かせる。
 ドイツのフランス侵攻や、それに伴う諸事情で中高等学校を変える(転校)。その学校の哲学教授が、レジスタンス活動をしていたことを理由に流刑になったため、お母さんは、哲学専攻の学生を家庭教師として雇ってくれる。
 高等師範学校の入学試験に落第。準備学級(予備校的なもの?)に入学。ここでのフーコーの論述作文に、イポリットが高得点をつける。イポリットは、コジェーヴと同時代のヘーゲル学者。
 翌年、高等師範学校に合格。もっとも、高等師範学校時代はフーコーにとって不幸な時代だったとのこと。
 学校では、心理学をポンティなどに学び(ソシュールについてもポンティを通して知る)つつ、哲学学士号も取得。
 理由はよく分からないけど、一度目の自殺未遂。
 冷戦時下で兵役の義務がまわってくるが、視力検査をごまかして兵役免除。新設されたばかりの心理学学士号取得。理由はよく分からないけどアルコール中毒になりかかる。
 哲学の先生に当たるアルチュセールの影響で共産党に入党。理由はよく分からないけど二度目の自殺未遂。ただ、高等師範学校の生徒の間で、自殺未遂は多発していたらしいので、特別なことではなかった模様。
 大学教授資格試験に失敗。共産主義者としてアルチュセールと親しくする。
 翌年、大学教授資格試験に合格。高等師範学校の心理学担当復習教師の仕事をする。その授業の生徒にはデリダがいた。
 その後、心理学者としての本格的な仕事に従事。既に共産党に不信を感じていたこともあり、アルチュセールのOKをもらって、離党。再びアルコール中毒の恐怖。
 一年の任期で文部省から外務省へ出向。スウェーデンのフランス会館で、文化政策に関する仕事で重要な役割を果たす。
 知り合いから、精神医学の小史を書くことを依頼されるが、当時のフーコーはそれに意義を見出さず、フランスの大学でのキャリアも考えていないとも発言していた。この時期は「ダンディー時代の伝説」に該当――かっこいい服装で、内装黒革張りの白いジャガーに乗り、ストックホルム~パリ間のスピード記録をつくるといった生活。
 フランスの博士学位準備期間の長さにうんざりして、スウェーデンで博士学位論文を提出することを決めるものの、先生に拒否される(内容的には「狂気の歴史」にあたるものだったが、より実証的なアプローチが求められたため)。
 イポリットが『狂気と非理性』の原稿を読み、(フランス科学哲学の)カンギレムの指導のもとでフランスの博士学位論文にするようにフーコーに勧告。約1年かけて仕上げ、カンギレムに提出。カンギレムの裁決は「何も変えることはありません。これで博士論文です。」
 『狂気と非理性』が本として出版されることを条件に、心理学准教授の職を得る。パリに住み、地方で教えるというフランスの大学に特有の生活の開始。

コレージュ・ド・フランス教授まで

 その後はデリダや、特にドゥルーズと仲良くしていた時期。『言葉と物』を構想し、無事出版される。当時、フランスの人間科学最高の収穫の年。ラカンやレヴィ=ストロース、バンヴェニストなどが主要著作を発表した時期と重なっていた。『言葉と物』も、売れに売れる。そのような背景もあって、構造主義が学問的方法から、いわゆる思想運動として扱われるようになった。
 初めて(心理学ではなく)哲学教授の講座に就任するため、チュニスに行くことを決意。新たな生活スタイルとして、毎日ギリシャ的に身体を鍛えあげ、日に焼け、厳格な生活を身につけることを開始。
 チュニスでの授業は、常に盛況。フーコー自身は、トロツキーにハマったり、チェ・ゲバラを読んだりと、いわゆる社会主義運動に共感しつつ、実際に活動家の支援も行っていた。フランスでは学生運動の時期だが、(フランスにいなかったこともあって)フーコーはその状況を俯瞰的に見ていた。
 その後、チュニジア政府が、学生たちを裁くために国家保安法廷を開設するなどし、フーコーは学生のために奮闘するも、成果はあがらず、フランスの大学に戻ることになる。
 『知の考古学』出版。フーコーの狙い通り、読者の期待を裏切る。アメリカの大学に招かれ(元共産党員だったのでビザの取得に苦労しつつ)イエール大学などで講演。アメリカの科学史家の著作を読む機会にもなった。また、日本にも招待され講演を行っている。
 既に任命されていた、コレージュ・ド・フランスでの講義開始。

 以降のフーコーの思想の変遷は、著作の紹介で取り上げた『講義集成』のおかげで簡単に追うことができます。軽くコメントしておくと、(ミクロ)権力に関する研究を5年ほど行うものの、それと手を切ることを宣言。主体性の歴史に興味を移すといったものです。
 その他では、ハーバーマスとの関係は(珍しく)有意義なものでした。ハーバーマスは論争ばかりしている人なので、当然フーコーとも一時期論争しますが、ドイツ、そしてアメリカへの『言葉と物』以降のフーコー受容は、ハーバーマスのおかげです。彼がコレージュ・ド・フランスに招かれた際には、フーコーと何度も会い、知的履歴を語り合ったり、ニーチェについて議論し合ったそうです。
 フーコーは、エイズで亡くなりますが、最期までコレージュ・ド・フランスで講義をしていました。主体性から統治性に関心を移しつつ、自身の分析に変更があると述べ、そのキーワードは「パレーシア」。ただし、近くにいた人は「もう遅すぎる」という呟きを耳にすることになります。

人物総論

 まぁ、自殺未遂やらアル中やら、あるいは派手に遊んだ時期もあったようですが、基本的には研究者を希望し、そうでありつづけたといえるでしょう。大きな流れとしては、心理学から哲学、そして伝統的哲学から離れて歴史学の手法を使いながら、研究テーマ(関心)を常に移してきたといったところです。
 それから、意外とフランス以外の場所にいた時期が多いということも強調しておきましょう。もっとも、国の移動は、現代に近づくに連れて当然ながら楽になるので、そういった事情もありますが。
 政治への関与は、実は若干しか紹介できていなくて、むしろフランスに戻ってからの方が色々やっているんですが、まちがいなく行動する人(デモへの参加など)ではありましたが、政治運動の主導者になることには常に距離をとっていました。それは「知識人」というポジションとも大きく関わるのですが、この話題は長くなるので割愛します。一点だけ。フランスで知識人というのは、日本でいうタレント以上の人気者です。アイドルクラスに注目され、発言には影響力があったと思ってください。いいわるいは別にしてそこが、日本の知識人との大きな違いです。
 総論として、さいごに。小さいことなのかもしれませんが、戦争(兵役)との距離。これは以前に紹介したフランスの哲学者たちと大きく違っている点です。フーコーは政治闘争としては暴力に直に接していますが、戦争という形の暴力とは距離があったということです。

敵は誰で、武器は何だったか

 そういうわけで「なにをした」ジャンルは、膨大な情報量ゆえに書ききれません。少なくとも著作ベースでは、別の記事で追っておきました。
 少し、角度を変えてフーコーにとって(思想上の)敵は誰で、それを乗り越えるためにどういう武器を使ったのかを整理しておきます。もっとも、いつも以上にざっくりしたものと思ってください。
 あえて言うなら敵は「マルクス(主義)」でした。例えば、ドゥルーズが『アンチ・オイディプス』を出したときに、講演でフーコーが、「フロイト-マルクス主義から脱却すべきでしょう」と言うと、ドゥルーズが冗談で「フロイトの方は引き受けますからマルクスの方は任せた」と答えた、という場面があったりします。
 当時のマルクス主義とは、個人名でいうとズバリ、サルトルです。フーコーはフランスの知識人としてサルトルの後継者と受け取られていた側面があるといっておおよそ間違いではありません。そこで、少し丁寧に考えないといけないのは、マルクス主義は、史的唯物論という言葉があるように、ある意味では哲学に歴史を導入した思想でもありました。当初はヘーゲルのアレンジではあったものの、マルクス主義哲学は意外と懐が深く、多くの(哲学や社会学、経済学などの)研究者の関心を長く惹きつけたので、その後の発展も加えれば、なかなかレベルの高い歴史学でもあったんです。
 そのマルクス主義に対して、フーコーが使った武器は、誤解を恐れずに単純化すればニーチェの系譜学です。
 フーコーだって歴史をとても大切にします。ところが、歴史学という言葉は敵のフィールドなので直接その言葉を使うのは誤解の元。だから、(エピステーメーというすぐに放棄される構造主義的な言葉以降)考古学といってみたり、系譜学といってみたりと、別の言葉を当てるのです。そして、言葉が違うだけではなくて、歴史に対するアプローチも、いわゆる歴史学とは違う。そこがフーコー哲学の真髄ともいえます。

哲学の理論的移動

 「読むならこれ!」に該当するのがこの見出しになります。フーコーは思想的変遷をしながら、結局自分は、これまでの哲学の理論に対して三つの軸足移動を行ってきたと振り返っています。

知の編成という軸

 知とは、哲学にとっても科学にとっても正しい認識のためのものでした。そのための基礎づけだったり、実験-検証だったのです。フーコーは、それはその通りだけど、(哲学や科学のパラダイムシフトは)実質的には〈真実を語ること〉の形態の歴史とみなされるべきだと考えます。つまり、語られたり証明される「真実」の中身に意味があるのではなく、語られる真実が定義するもの、効果。それによって管理されるものの変化。この編成/形態の歴史をみようというものです。

さまざまな振る舞いの規範性という軸

 「権力」は、支配を説明するものでした。対抗として「解放」のための理論もあったわけですが、それは逆側から見ているだけで、想定している権力は同じものです。フーコーは、そのような支配ではなく、統治性のさまざまな手続きや技術(テクニック)の歴史と分析の方を強調して、規範性について軸足移動を試みました。

主体のあり方の構成という軸

 カント以降、主体とは何かは哲学のテーマでした。ホッブズなどの国家哲学においてはメインが国という単位にはなるものの、それは主体としての国がテーマです。つまり、主体概念は歴史的に変遷してたのですが、フーコーはそういう歴史をみるのではなく、こちらもいわば「効果」――つまり、さまざまな形態における主体のプラグマティック(実用論的)な歴史として見ることを試みます。

 これらの三つの軸足移動についてそれぞれ単行本が該当するのではありません。晩年のフーコーの関心が、ここに行き着いたということです。そういう意味では、単行本は全て過去です。
 したがって、「読むならこれ!」を挙げるとするならば、『ミシェル・フーコー講義集成』の12巻、13巻となります。「知」「振る舞い」「あり方」の変遷。これらを、これまで哲学史として語られてきたような歴史ではない、知と集団構成のための技術の歴史として検討することで何が見えてくるか。それこそ私が注目するフーコーの研究テーマです。

さいごに

 当初の予定は、次の記事でさくっとそれをまとめて、「現代的意義」で締めるというものでした。しかし、「著作について」の記事で『講義集成』の12巻や13巻の入手性が極めて悪い状況にあることを知りました。
 ……正直言って、くっそめんどくさいし、他の人がやってる(かどうかしらんけど)手法だし、やめとこうと今でも思っているのですが……やりますか。「読書ノート」。どうかなぁ。まぁ、講義なんでね、いわゆる教養の部分とか、ある意味では衒学的な部分とかはローティ風にミニマイズして、ただ他方で、フーコーの論述の丁寧さを損なわない形で……なら、私としても後悔しないとは思います。
 どっちにしろ、今の私ではフーコーの「現代的意義」を★数で評価できないです。3つの記事でおさめるという宣言を破ることになりますが、そっちの方向で検討します。

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