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[読書ノート]1回目 1月12日の講義(第一時限)

講義集成12 1982-83年度 51頁~74頁

今回のまとめ
こういうのを最初に書いておくのが親切らしいですね! ただし、表現は遊ばせてもらいます。ここの部分と最後ぐらいしか自分の言葉を使う場所が無いですから。今後の記事にも最初に箇条書きをつけることにしますが、全てにおいてテーマ(箇条書きの主語)は「パレーシア」です。いちいち書くと煩雑ですからね。

  • 基本は君主と側近の関係性(教師-生徒や、専門家-一般人ではない)

  • 言論の戦略(論証、説得、教育、議論)によって分析することはできない

  • 主君に正面切って物申す家臣が命をかけるという日本の伝統と同じだよ

導入(今年度のテーマ)

統治の手続きと、自分自身と他者に対して[ひとりの]個人が主体として構成されることにおける本当のことを語ること。少し詳しく言い換えると、統治の諸手続きの中で本当のことをいう義務と可能性は、自己に対する関係や他者に関する関係において、個人がいかに主体として自らを構成するかということをどのように示しうるか、について。

最初の資料ドシエ

紀元前二世紀、ガレノスの『情念論』〔『魂の情念とその誤謬について』〕を出発点とする。

自己の認識と他者

①自己への配慮と②自己の認識〔=自己を知ること〕という二重の主題系。
そのうち、②は自分自身について持っている意見に関して他者からの判定なしで済ませようとすると失敗する。逆に、自分自身の価値を確認するということについて他者に委ねる者は、滅多に間違えることはないとガレノスはいう。つまり、自分自身を手助けするために誰かに相談しなければならない。
※この点を詳しく取り上げたのは前年度の講義(講義集成11 1982年1月6日~27日の講義)

その他者とは誰か

何らかの専門家ではない。つまり、(当時の)医者や哲学者であるとはガレノスは説明していない。
他者を導く人物に必要な資質は①老齢に達していること、②名声を得ていること、そして③パレーシアを持つこと。パレーシアとは、他者の良心を導き、その他者が自己との関係をうち立てるように手助けする人物の資質の一つとしての、徳【=卓越性】、義務、技術である。

ここに統治に関するひとまとまりの概念と主題が見出される

真実を語るという責務、すなわち統治性に関する手続きや技術と、自己への関係を構成するということとが交差する地点に(パレーシアについての)概念は位置づけられる。

パレーシア概念の展開

パレーシア概念の注目すべき点は、この概念が非常に長きにわたるものであること。古代ギリシャ・ローマ時代を通じた長い間ずっと用いられたという点。プラトンをはじめマルクス・アウレリウスから、古代末期のキリスト教、さらにラテン語としてはセネカや歴史家、弁論術の理論家においても、非常に重要かつ豊かな、そしてある程度まで非常に新しい用法が見られる。

パレーシア概念が見出される領域=フーコーが強調したい点

個人を導くことと政治の領域と呼べそうなものの境目。より明確に言うなら、君主の魂という問題をめぐってのこと。
(つまり)君主が自分自身を統治し、他者【この場合臣民のこと】を[統治]できるように、どのように君主を統治するべきか。
また、【時代が進めば】宗教的経験の領域にも見いだせる。その際、奇妙で興味深い移行が見られる。それは、本当のことを弟子に語るという、師の側に課せられた義務としてのパレーシアの観念を位置づけるような意味から、自分自身についての事実を師に対して語るという弟子の側の義務への移行。

パレーシアは常に価値があるものではなかった

はじめは徳【高い価値】であったが、キュニコス派的な率直な話し方は、ひとつの概念やひとつの価値にはほど遠い。また、キリスト教においてパレーシアは、自己自身について何でも喋ってしまうという軽率さの意味【低い価値】を持ちうることがある。

プルタルコスのテクスト(今回のメイン)

古典時代とキリスト教全盛期(4世紀~5世紀)の中間に位置する、〔ぱっとしない〕書き手であるプルタルコスの『対比列伝』〔『英雄伝』〕「ディオン」でパレーシア概念が機能している様子を見ることができる。
ディオンとは(個人名で)、ディオニュシオスの叔父。シュラクサイの政治のためにプラトンをシチリアに呼んだ人。
プラトンによる(暴君)ディオニュシオスの教育は、よく知られているように失敗する。ディオンは、プラトンをギリシャ行きの船で送り出すが、ディオニュシオスは刺客を送り彼に、航海の途中で殺すか、さもなければ奴隷として売ってくれと頼む。そこで、エギナという当時アテネと戦争関係にあった国でプラトンは奴隷として売られた。
こういう出来事があったものの、ディオンがディオニュシオスから受ける愛顧と信頼が減ることはなかった。独裁者にとってディオンは、そのパレーシアを許し、思う通りのことを率直に言うことを許した唯一の人物だった。

パレーシアのお手本となる一場面

ディオニュシオスが(ディオニュシオスの前にシュラクサイを統治していた)ゲロンの統治を嘲ったとき、他の廷臣たちは(その意見に)追従したのに、ディオンだけが憤慨して「それでも、あなたが独裁者になっているのは、ゲロンのお陰で信頼されているからです。しかし、あなたのお陰で信頼されるものはこれから誰も出てこないでしょう」と言った【ゲロンで街は良くなったが、ディオニュシオス統治下では街が荒れていっていることを非難している】。
(内容を別にして抽象的には)ひとりの人間が暴君の前に立ちはだかり、真実を述べている、という構造はパレーシアの一つの範例。

プラトンとディオンの比較

徳とは何か、勇気とは何か、正義、そして正義と幸福の関係という事について古典的で名高い立派な教えを説きながら、真実を述べた=本当のことを語ったプラトン。彼に対してプルタルコスはパレーシアという語は用いていない。
教える教師としてではなく、ディオニュシオスの傍らで、廷臣、側近として暴君に真実を言い、意見を述べ、間違いや不適切なことが言われた際にはそれを反駁することを引き受ける人物としてのディオン。パレーシアはディオンについて用いられる。

パレーシアの特徴を丁寧に明確にしていく

パレーシアを用いる人物パレーシアストとは、真実を言う人のことであり、それゆえ嘘や追従などとは一線を画す人物のこと。
パレーシアとは、確かに本当のことを言うひとつの言い方ではあるが、パレーシアを定義づけるのは、その真実の内容そのものではない。

本当のことを言う言い方の分析

論証、説得、教育、議論といった(本当のことを言う)戦略があるが、それらとパレーシアを比べてみる。
①論証の戦略ではない。プラトンは論証の形だった。ディオンは、ただ意見を述べるだけ、警句を吐くにとどまっている。
たしかに論証的なテクストの中でパレーシアを表明することはある(フーコーは、ガリレイが『天文対話』を書いたことを例に挙げる)。しかし、そこでの論証や、言説の合理的な構造自体がパレーシアを規定することにはならない
②説得=弁論術レトリック〔=修辞学〕とは関係するが、パレーシアとはその例外である。つまり、いかなるレトリックも用いないというレトリックなのであって、一般的に弁論術に属するひとつの要素としてパレーシアを定義してしまうわけにはいかないと言える。理由としては、弁論術にとっては、言説が本当のことを述べているか、それとも嘘を述べているかという点は本質的なことではないから。また、パレーシアには固有の修辞学的形式があるわけではない。何より、パレーシアにおいては説得ということは大して問題にはならない。正確には、パレーシアは手段として弁論術の手続きの助けを借りることもあるし、説得するという意志も持つが、説得はパレーシアの目標や目的ではない。
③教育のあり方でもない。パレーシアスト(本当のことを述べる人物)は、いわば自分が会話している人物の顔めがけて真実を投げつけるのであって、そこには教育法ペタゴジーに特有の歩み、つまり既知から未知へ、単純から複雑へ、要素から集合へ、といった歩みは見あたらない。むしろパレーシアのうちには教育法の手法に真っ向から反しているものがある。パレーシアの効果は、(真実を投げつけられた)人物はその真実を受け入れることもできず、また拒絶せずにはいられず、その真実のせいで正義に反し、節度を失い、盲目状態に導かれさえしてしまう(ディオニュシオスは怒りのためにプラトンを殺すという判断に至ってしまう)。これは反教育法アンチペタゴジーでさえあるようなひとつの効果である。
④議論のあり方=対抗し合い、真理をめぐって互いに争う二人の人物のあいだの闘争的な構造が、パレーシアに見出されるかどうか。たしかに闘争的な構造によって、パレーシアというものの価値に近づくことにはなる。しかし、議論の技とは人が本当だと信じている物事が勝利することを可能にするもの。パレーシアにおいてはそういった勝利を目指すことが問題になっているわけではない(先のプラトンの例は、ロゴスの勝利でも言説の勝利でもなく、純粋な暴力の勝利に帰結している)。

パレーシア分析のために注目すべきポイント

ある言説の内的な形態を分析することによっても、それがもたらそうとする効果によっても、パレーシアとはどういうものか分からないし、それを取り出すことも、また何がパレーシアを構成するかを把握することもできないと思う。では、パレーシアの中身は一体何か。
言われ方や、言われるあり方がどうあれ、次のような場合には常にパレーシアがあるということになる。真実を言うことや、真実を言ったということが、真実を言った人の身に大きな犠牲を引き起こす、あるいはその可能性や必然性があるような条件において真実の語りがなされる場合がそれ。つまり、パレーシアを分析するには、言説の内的な構造や、その真なる言説が話し相手に届ける目的性の側ではなく、話し手の側、より正確には、本当のことを語ることが話し手その人にもたらす危険の側(話し手の真実の語りが話し手にもたらすことになる跳ね返りの結果の側)を見なければならない。

パレーシアの核心

真実を語るなかで支払う代価は、なんでもよいというわけではない。その代価とは、死。パレーシアの母型的で範例的な場面としてフーコーが見るのは、真実の語りが自分自身の存在を犠牲にすることになる、ということを進んではっきりと受け入れた上で、主体が進んで本当のことを語ろうとするような、この瞬間。
パレーシアストとは、自分自身の死までももたらしうる、ある未定の代価と引き替えに本当のことを語ろうとする者のこと。これこそが、パレーシアとは何であるかということの核心と思われるもの。

 今回は以上です。読書ノートとしては、テーマの区切りか、一つのテーマが長く続く場合、おおよその文量で記事を分けていきますが、今回はたまたま講義の1コマ分になりました。次回からすでに1コマの途中で区切ることになります(テーマによる区切り)が、ご了承ください。さいごに、今回の内容について理解のポイント、補足等をコメントします。

私的コメント

 講義は、一日に二回(第一時限と第二時限)に分かれています。しかし、一日で一つのテーマといったようには進まないので、読書ノートとしては、そのことは特に気にしません。
 講義内容の進展が遅い、あるいは、時代を行きつ戻りつしているというのは、むしろ講義の醍醐味として享受しないといけないものです。今後はもっとそうなっていきますから。
 読解のポイント、あるいは注意点としては、ディオニュシオスに対してパレーシアを行ったのは、プラトンもディオンもです。話の流れ上、ディオンが強調されますが、最後の方のパレーシアの定義のところを読んでもらえれば分かるように、フーコーは、プラトンも(限定的ですが)パレーシアを行ったと考えています。
 今回はそんなに難しい話ではないですよね。面白かったところを挙げるとするなら、説得を目的とする弁論術は、嘘をつく時(あるいはセールストーク)に使えるけれど、まさにそれゆえにパレーシアと決定的に違うのだ、というところでしょうか。
 次回は、いわゆる(オースティンとかの)語用論との違いから話が始まります。ハーバーマスが重宝したスピーチ・アクトってやつですが、それはパレーシアと正反対なものなんですね。お楽しみに。

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