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[読書ノート]5回目 2月2日の講義(第二時限)

講義集成12 1982-83年度 215頁~230頁

今回のまとめ

  • 真実を語った者は逆ギレすることが普通である

  • 誰もが語ることができるというのは最悪の状態

  • あとは勇気で補えばいいッ!

パレーシアについての基本的な四角形

形式的な(制度に関する)条件:民主制

全員に与えられた、語り、意見を述べ、決定に参加する自由といういみにおける民主制。

事実上の(政治的ゲームに関わる)条件:支配力

他者に向かって、他者の上位から発言し、他者に自らの言葉を言い聞かせ、説得し、他者を導いて、命令するような支配力、あるいは優越性のゲーム。

真実の条件:真実の語り

(自由な)発言と支配力とは、ある種の真実の語りに準拠しつつおこなわれていなければならない。正しいロゴスの必要性。

道徳的条件:勇気

戦い、敵対や対立のあり方のうちに(パレーシアは)ある。そこには、真実の言葉を語ろうとする者が自分の勇気を示す必要が伴っている。

民主制とパレーシアがうまく適合した状態の例(3つ)

民主制が、真実というものをどのように許容することができるのかについて、トゥキュディデス『ペロポネソス戦史』における、ペリクレスの3つの演説を取り上げる

戦争についての演説:パレーシア的協約

ペリクレスが、最も影響力のある人物たちの一員【民会の一員】ではなく、たった一人、最も影響力のある人物でありながら、ポリテイアとパレーシアの良き働き、良き適合のモデルを示す例。言い換えると、自分ひとりだけが最も影響力のある人物でありながら、しかしパレーシアによって自分の権力を行使するやり方は専制的・君主制的なものではなく、民主的なものであるようにしている例。
ペリクレスは演説の最初に、自分を、自分個人の名において実際に真実の言説を持ち、また人生において常に持ってきた者(意見の同一性とそれへの当事者である自分の同一化)として特徴付ける。続いて【民主制における意思決定の】危険リスクについての言及。すなわち……われわれが勝利した場合にわれわれが団結していることを望むのであれば、われわれが失敗した場合にも団結していなければならないのであり、そうであるなら、私の真実の言説によって私があなた方を説得し、それによって一緒に下したひとつの決定について、私を個人的に罰しないで欲しい、という内容。(フーコーは以前の「パレーシア的協約」をここに見る)
以上の、演説の前提となる部分にパレーシアの四角形が見出される。民主制と「真実の語り」とが良く適合している状態である。
誰でもが発言できる、尊重された民主制の枠内で、統治する人びとの支配力(デュナステイア)が、彼らが同一化しているような「真実の言説」の中で行使されており、さらに説得するものとされるもの全員がいくつかの危険を引き受けている。

戦死者についての演説:一般的な利害の形成と受容

ペリクレスは、アテナイは――この国は少数者の利害によってではなく、一般的な利害によって統治されているそのことゆえ――まさに民主制の名を授かるにふさわしいと言う。注目すべきは、すべての人に同じように権力が分配されている(誰もに発言権がある)ということによって(民主制を)定義しているのではないということ。彼は、国が一般的な利害によって統治されているということによって定義している。(フーコーは以前の「循環構造」に言及し)その循環においては、民主制の構造から発して、ある真なる言説と、その真なる言説を押し出す勇気を持った何者かによって行使される合法的な支配力が、その国が全国民にとって最善の決定を下すことを実際に保証される。パレーシアの循環構造とは、支配力、真なる言説、勇気、そしてその結果として、一般的な利害の形成と受容【のための構造】である。

疫病についての演説:リスクが顕在化した際の非難への非難

演説の背景として、アテナイは軍事的な敗北が繰り返されたことや疫病が広がりつつあることで【支配者としての】ペリクレスに背を向けているという状況。つまり、パレーシア的協約が崩れつつあるということ。
ペリクレスは、まず(市民を)非難する。パレーシア的協約を提案した政治家【ペリクレス】が、人々が自分に背を向けることになった時、国民に追従したり、起こったことへの責任を何か、あるいは誰かの方にそらしたりするのではなく、その国民たちの方に向き直って、彼らを非難している【という構図】。あなた方は私を非難するが、私もあなた方を非難する。これが、民主制において本当にパレーシアの感覚を持っている人物を特徴付けている事柄である。
ペリクレスは自身をパレーシアストとしの美点を列挙(③愛国者であり、④金銭で買収されることもないなど)し、政治家の条件は①公共の利害を判断できること、そして②そのことについて正確に語ることができないといけないと言う。つまり、それ(真実の内容が)が怒りを買うようなことであれ、それを言う勇気を持ち、それをロゴスのうちに、すなわち市民たちがそれに従い、賛同できるほどに説得的な言説のうちに言い表す能力を持っていなければならないということ。
そうした三つの条件(①本当のことを見極めること、②それを語る能力があること、③全体の利益に忠実であること)が必要であるだけでなく、道徳的に廉潔であること(④)が強調される【つまりここでいう道徳的とは、贈収賄をおこなわないことという意味】。
そのうえで、ペリクレスは自分が上述の(4つの)条件を備えていると諸君が判断して私の開戦論に賛成したのだとすれば、(その戦いに負けたからといって)私が不正を働いたかの如くに、罪を問われるのは不当であろうと主張する。

以上の(3つの演説)は、良きパレーシアについてトゥキュディデスが描いたイメージ。

ペリクレス死後の悪いパレーシアのイメージ

そのパレーシアは民主制において機能せず、それ自身の原理に必ずしも一致していないようなもの。つまり適合していない状態を描いたテクストの一つを取り上げる。

イソクラテスの演説「平和について」より

「私(イソクラテス)の見るところ、諸君は発言者を分け隔てず公平に聞くことをしていない。ある者には神経を集中するが、ある者にたいしてはその声を聞くこと我慢しない(演題から引き下ろすということ)」。つまり、ある特定の発言者に対していくつかの対抗手段がとられている場合、あるいは発言者たちがいくつかの手段(そのひとつが陶片追放オストラシスム)によって脅かされている場合、悪しきパレーシアが生まれる。もし、真実を述べることに対してそのような死の脅威がのしかかっているのなら、良きパレーシアというものは存在せず、結果として、民主制と「真実の語り」とのふさわしい適合は存在しないということ。

適合しなくなったネガティブな理由

端的には、民会で弁士が【市民に】非難のかたち〔をとった〕批判があると、その人を追い出してしまうようになったから。

適合しなくなったポジティブな理由

パレーシアと民主制のあいだにふさわしい協調がなくなったのは、「本当のことを語ること」が拒否されたからではなく、代わりに、「本当のことを語ること」のまがい物、偽の「真実の語り」である何ものかへ置き換えられたから。その偽の「真実の語り」とは、追従の言説、民衆を扇動するデマゴジツク言説。悪貨が良貨を駆逐するように、良きパレーシアは駆逐されてしまうのだが、その内実はどういうものか……。

① 誰でも語ることができるということ

土地や伝統への帰属だったり、支配力の長所(個人的な資質、廉潔さ、知性、忠誠心など)【法で明文化されていないもの】が資格とみなされず、誰でも語ることができるということ【形式的なことだけ】が法のうちに組み込まれている。これは最悪の状態であって、最高の状態ではない。かくして支配力は堕落してしまう。

② 多数派の意見を代表しているということ

悪しきパレーシアストは、自分の語ることについて、それが自分の意見を表しているから述べるのではなく、また彼が自分の意見を真実だと信じているから述べるのでもなければ、彼の意見が実際に真実と国のために最善であることに対応しているほどに、彼が賢いからでもありません。
彼が語るのは、自分の語ることが最も一般的な※意見、つまり多数派の意見を代表している限りにおいてでしかない。言い換えると、本当の言説が含んでいる固有の差異によって支配力が行使されるのではなく、その誰でもよい人物の悪しき支配力は、誰もが語り、考えることのできる事柄に合致していることによって獲得されている。

「一般的」という同じ言葉が使われており言葉の意味も同じであるが、それゆえその「内実」の違いが鮮明な部分である。ペリクレスが一般的な利害をいうとき、特定の人物ではなく国民全体の利害ということ。一方で悪しきパレーシアストが語るのは、誰でも考えられる(実際は多数派の利害)という意味での一般性。この部分の前後でフーコーは「差異」という言葉を強調するが、哲学的なキーワードとして捉えなくてよい。単に「違い」という意味だが、大事なのは、尖っている(多くの人の賛同を得るのは難しい)とか、真実である(それが真実であると多くの人は受け入れることができない)、そういった違いが強調されているんです。

③ 勇気がない → 差異を消去する

勇気の代わりに聴衆が求めているのは、聴衆の気持ちと彼らの意見に追従することによって自分自身の安全を得、聴衆に対して与える喜びによって自分自身が成功すること。悪しきパレーシアとは、誰にでも、つまり万人に受け入れられさえすれば、どんなことでも語るような、そうした「万人」、「誰にでも」といったもの。そのような悪しきパレーシアは結局、民主制のゲームの中で「本当のことを語ること」が持っている差異を消去してしまうものなのだ。

フーコーによる要約

差異こそデュナミスである

良きパレーシアと悪しきパレーシアという問題は、民主制という構造内部における真なる言説の行使によって不可欠に導入される差異の問題なのです。ただし、そうした真なる言説は、形式的に配分されることはなく、また【そういうやり方では】配分されることができないということを理解しなくてはならない。誰でも語ることができるからといって、誰でも本当のことを語ることができるわけではない。本当の言説はひとつの差異を導入するのであり、というよりむしろ、その条件や結果において、あるひとつの差異と結びつくのだ。
つまり、ある特定の人たちだけが本当のことを語ることができる。特定の人たちの「本当のことを語ること」が民主制の領域に出現する時、まさにその時ひとつの差異が生まれるのですが、その差異こそ、ある人々が他の人々に対して行使する支配力である。それこそ「統治性」というプロセスの根底にあるもの。民主制というものが統治され得るものであるのは、そこに真なる言説というものがあるからだ。

民主制のパラドックス

第一のパラドックス。真なる言説は民主制によってしか存在し得ないが、その真なる言説は、民主制のうちに、その平等な構造とは全く異なり、そこに還元できない何ものかを【良い意味で】導入してしまう。他方で、民主制における「真なる言説」が戦いや闘争、対立や敵対関係においてしか明らかにならない以上、その「真なる言説」は常に民主制によって脅かされている。第二のパラドックス。真なる言説の死の可能性が、民主制のうちに書き込まれている。つまり、①真なる言説へと結びつけられたデュナステイアと、②正確で平等な権力の分配に結びつけられたポリテイア(というパラドックス)。

講義の最後にフーコー自身が次のように述べています。「さて、権力の分配や権力の行使における各人の自律性、また市民社会と国家との関係における透明性や不透明性といった用語で民主主義の問題が提起される時代、つまり我々の時代にあって、そうした古い問いを思い出しておくのも良いことかも知れない、と思います。」私もそう思います、ということで今回は以上です。
次回は、今回の事例の再検討を経た後、哲学と弁論術との関係という(哲学を知っている人からすると)馴染みの深いテーマが取り上げられます。

私的コメント

 フーコーが現代の民主主義と結びつけてしまったので、ここで私がその類の事例を挙げるのは蛇足になるでしょう。したがって、今回の感想は、極めて「私的」な事柄について簡単に済ませておきます。私自身はパレーシアストの条件を全ては満たしていません。ですから、仮にですが、わたしの(読書ノート以外の)noto記事がパレーシアのメディウムだとしたら……notoの辞め時が分かりましたね。つまり、大衆迎合的という意味での「一般的」な記事を書くようになったとき(差異を産まない言説になったとき)です。具体的には「ビュー」の数に対して過半数の「スキ」が付いたら潮時ですね。まぁ、そういうこと、ないでしょうけど。

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