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[読書ノート]4回目 2月2日の講義(第一時限)

講義集成12 1982-83年度 194頁~211頁

凡例についてのアナウンス
2回目辺りから原文中の〈 〉をボールドに吸収させるという方針に無理があることを感じていました。読書ノートとして可能な限り可読性を上げるために、方針を今回から変更します。原文の〈 〉は原則「 」とします。この変更はテクストの内容には関係しません。また、過去の読書ノートで統一できる(できないかも)まで「0回目」の記載は残しておきます。

今回のまとめ

  • パレーシアと民主制は循環関係である

  • 統治性の問題の焦点はパレーシア

  • 循環関係が崩れる……だと

『イオン』読解の総括

民主制とパレーシアの循環性

『イオン』の結末は、主人公であるイオンがアテナイで民主制をうち立てるというもの。そのために必要とされたのが(前回の)【狭義の】政治的なパレーシア。ところが、パレーシアは民主制の特徴のうちのひとつでもある。
つまり、パレーシアが存在するためには、民主制が存在しなければならない。民主制が存在するためには、パレーシアが存在しなければならない。……私【フーコー】は、しばらくこうした循環性の枠内に身を置いて、民主制における「本当のことを語ること」の問題を明らかにすることを試みたいと思う。

パレーシアを特徴づけるもの:デュナミス

①無能力な民衆、②賢者、③国事を担う人々という3つの分類は、力、能力デユナミスに応じた分類だった。そのうち、パレーシアが関係するのは③のみ(前回の復習)。
パレーシアはそれを用いる人間を3つの危険と危難にさらす。①の人たちからの憎しみ。②の人たちからの嘲り。③の人たちからの敵対心と妬み。

闘争的アゴニステイツクな構造

デュミナス(力や能力、権力、またその行使)は、(それを持っていない人への)優越性であるが、それは他者【ここでは同じデュミナスを持つ=③の人たち】と共有されるような優越性である。それは構造として、競争や対立、闘争や闘いのかたちのもとで他者と共有される。

パレーシアの定義:ここまでの要約

パレーシアは、ある個人の国家における地位や、地位に関わる分類の指標となる特徴である【部分もあるがそれ】よりもはるかに、市民を構成する集合体への単純な帰属を越えて、個人を優越した立場に置くひとつの力学であり、運動である。
ある優越した立場に身を置きつつ、国家を導くために本当のことを語り、そしてその優越した立場においては、常に他者たちとの永続的な戦いの状態にある(ようなパレーシアというゲーム)。

イセーゴリアとパレーシア

ポリュビオスは『歴史』において民主制を定義する際に、(民主制が成立する条件として)イセーゴリアとパレーシアがあることと書く。イセーゴリアとは、話す権利であり、話すことに関する、地位と結びついた権利。パレーシアはもちろんこれに関係している。どういう関係かというと、まず、パレーシアが存在するためには、各々にイセーゴリアを等しく与えるようなポリテイア(国家の政治体制)【=民主制】がなければならない。
つまり、イセーゴリアとはパレーシアが作用する際の、法的・制度的枠組みであって、パレーシアとは、その内部で個人同士が互いに対するある種の支配力【先の権力の行使程度の意味】を持つことを可能にする要素である。

ポリテイアとデュナステイア

パレーシアの作用〔=働き、ゲーム〕には二種類の問題群が分かれ区別され、【そして】ひとつに結びあう様子がはっきり見て取れる。
第一の問題群は、ポリテイアの問題と呼ぶことができるもの=政治体制に関するもの。国民の地位を決定する枠組みや、国民の権利や、彼らが決定する際のやり方や、彼らが首長を選ぶ際のやり方、等々。
第二の問題群は、デュナステイアの問題とでも呼べるもの。こちらは、①ある一部の人々が他の人々に行使する支配力が持つ、形成や行使、制限や保証のゲーム。②その権力が行使される際の手続きや技術について。③その人自身において、その人固有の人格やその性質、自分自身と他者に対してその人が持つ関係において、またその人が道徳的にどうかということ(エトス)において、政治家であることという問題。
つまり、デュナステイアは、①政治的ゲームの、②その規則やその道具の、③それを行使する個人そのものの問題である。

実践という意味における政治

それは経験としての〔政治〕の問題と言っていいかも知れない。つまり、ある種の規則に従わねばならず、ある仕方で真実の方へと方向付けられ、そしてそのゲームを行う側において、自分自身と他者へのある種の関係のあり方を含んでいるような実践。

パレーシアは連結点

パレーシアの概念に結びついているのは、政治体制や、法や、言ってみれば国家の構成そのものについての問題とは区別される、政治的諸問題のひとつの領域である。
パレーシアは、ポリテイアというものとデュナステイアというもの(=法や体制の問題であるものと政治というゲームの問題であるもの)の連結点にほかならない。
パレーシアとは、一方で、その占める場所がポリテイアによって決定され保証されるものだが、他方で、政治家の「真実の語り」(=パレーシア)は、まさにそれによって政治のしかるべきゲームが保証されるような【循環構造を持った】ものなのだ。

統治性の分析におけるパレーシアの重要性

パレーシアが見出されるようなところにおいて、社会に内在する権力の諸関係という問題、そしてその社会が実際に統治されていると言わしめるような問題が根付いていることになる。統治性に関する様々な問題は、また定式化されるのは、そうしたパレーシアの概念、そして真実の語りによる権力の行使をめぐるものである。

『イオン』以外のエウリピデスのテクストにおけるパレーシア

エウリピデスの他のテクストについて手短に比較することで、パレーシアという語の用い方への傍証を得られたり、他の主題や他の問題【と関連があること】を明らかにしてくれる。

『フェニキアの女たち』

パレーシアと個人の地位ステイタスとのあいだに必要な関係が示されている。ある個人が自分の都市から追われ、結果追放の身であるとき、パレーシアを持たない。パレーシアを持たなくなった時、人はあたかも奴隷のようになる。(ここまでは『イオン』にもあったもので、ここからは新しい事柄)パレーシアを持たなくなった時から、主人の愚行に堪えなければならなくなる、とテクストに書かれている。これが意味するのは、パレーシアにはまさしく、主人の権力(あるいは愚かさ)を制限しうる働きがある、ということを示している。

『ヒッポリュトス』

パレーシアは行使できる権利として書かれているが、その条件として両親が過ちを犯していないことが加わっている。その際の「過ち」とは他人の地位を剥奪するとか、法的な不名誉を与えるような種類のものではない。道徳的な過ち――語る本人が父か母の過ちを意識するということだけでパレーシアが不可能になるようなもの。
ここでは、パレーシアを持つために、市民としての立場は必要であるにしろ、それ以上の何かが示されている。つまり、先祖の道徳性、また家族の道徳性、それゆえ子孫の道徳性といったような、個人的な資格。

『バッコスの信女』

権力者に対してパレーシアを用いる前に、(自分が)罰せられない保証を求める部分がある。それに対して権力者は、私にとって大事なのは真実を知ることであり、真実を語ったことによってお前が罰せられることは決してない、と保証する。これはパレーシア的協約とでも呼べるもの。権力者は、しかるべく統治することを望むなら、自分より弱い者たちが、たとえ不快なものであろうとも、真実を語ることを受け入れなければならない。

『オレステス』

オレステスが裁かれる裁判における4人の発言者。一人目、通達吏、公的な代弁者スポークスマン。権力を行使している者たちの言葉を伝える働きをしている【者という】定義上、彼の言葉は自由ではない。二人目、神話上の英雄。中庸な節度のある意見を述べる。しかし、このような意見は(一人目が全員からの承認を求めたのに対して)、民会を承認するものと非難するものと[のあいだ]に分けてしまう。三人目、(パレーシアの権利がないのに)言いたい放題の男。当時の扇動政治家デマゴーグの模写。彼の語りがなし得るのは説得。本当のことは語らず、追従や弁論術レトリックや、情念などの手続きでそれをなす。四人目、当時の小地主。自分の土地を守る勇気と(弁論の)敵に立ち向かう勇気を持ったもの。品行がよく賢明(ようするに伝統的に徳に結び付けられてきた特徴を持っている者)。エウリピデスは、デュナステイアは、自分の手で自分自身の畑を耕作し、国を守る気概のある者たちに委ねられるべきと考えてこの作品を書いている(当時、アテナイの民主制や衆愚政治に抗する、こう言ってよければ反動的ともいえるような改革案が検討されていた)。

パレーシアの没落

『オレステス』の結末は、悪しき弁士、理性や真理のロゴスに結びつかないパレーシアを用いていた人物(三人目)が勝利した結果、オレステスに死刑が言い渡されるというものです。
『イオン』の十年後に書かれたこの作品において、そのような勝利が起こりうるというパレーシアの悪い姿、その暗い暗黒の側面が示されている。つまり、『イオン』が示したパレーシアと国制とが作りなす建設的な円環【=循環性】、良き民主制を打ち立てる円環が、ここでまさに崩れつつある
パレーシアと民主制の関係が、何かしら問題を孕み、困難で危険な関係になっていることがこのテクストによって提起されている。パレーシアのそうした両義性については後ほど検討する。

 ということで、今回は講義の終わりと一致できました。お疲れさまです。最後の一文については……ぇ、って感じですね。そんな面倒なことを検討すんの? それを追え……と。絶望、あるいは諦めかけましたが、チラ見すると、「手短に、図式的に述べます」とフーコーが言っているので、大丈夫と信じることにします。

私的コメント

 「『イオン』以外のエウリピデスのテクスト」の部分は、ばっさりカットしようと思っていました。しかし、最後の話(円環が崩れること)が、次の講義に繋がっているので、それはできませんでした。内容解説も必要であれば次以降にします。一言だけ述べると……現代の不正告発のイメージにかなり近づいてきましたね。
 したがって、今回のポイントは、『イオン』の総括部分でしょう。
 まず、「ゲーム」という言葉が出てくるのは、構造分析をしているからだと軽く捉えておきましょう。ゲームとは、参加者が特定のルールに基づいていることと、参加者の自由な行動によって成立するもの、程度の意味合いです。
 特記すべきは(フーコーの読解には直接的でないので注釈ではなくここで述べますが)デュナミスです。力や能力とその行使と(原文に即して)書いておきましたが、理解のためには次のニュアンスをおさえておかないといけません。正確には「可能性・潜勢力」です。つまり、「行使できるよ」という状態を権力として持っていることで、実際に行使することとは別なんです。そして、アガンベンは執拗にデュナミスにこだわり、その力が、実際に力となるのは、行使されない時だ、と言います(これが「非の潜勢力」ってやつです)。でも、そんなに難しい話じゃないんですよ。核爆弾を持っていることは、政治的な力(例えば交渉力)になるでしょ。でも、実際に使うと、国際的非難の的になって、交渉力は落ちてしまう。そういうことです。
 もっとも、フーコーにおいては実際の権力の行使、そしてその結果(効果)を分析していくのでデュナミスだけにこだわりません。途中、いろんなカタカタを並べてごじゃごじゃ述べていますが、ようするに政治体制(民主制)というフィールドがあって、そこで行われるゲーム(とルール)の丁番ヒンジがパレーシアだということです。そして、単に繋げているだけじゃなくて、相互に影響を与え合うので循環関係とか円環と言っているのです。最後の「円環が崩れる」というのも、実際は円環自体が崩れるのではなく、相互に影響を与えるのですから、悪い影響だって与えるわけです。テクストで具体的にしめされたのは、ゲームのプレイヤーが悪い行為(パレーシア)をすることで、フィールドの方に悪い影響が出てしまい、結果も悪くなった、という話です。したがって、民主制の機能不全であったり、ましてパレーシアの機能不全というわけではなく、「悪い」フィードバックの例、ということです。

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